問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。

三章 心理学的交渉術

 
(1)フェイス・イン・ザ・ドア・テクニック


 金曜日。三連休初日となった祝日の街中は人通りが多い。

「……ほ……本当にここですか?」
「た、ぶん……い、妹の言うには、こ、ここだと、地図もあってます……あってます、よね?」

 先生の示すスマホの地図アプリは、確かに今いるここを目的地と定めている。
 私と東雲先生は、洗練された一等地に店を構える高級ブティックを前に、互いに顔を引きつらせていた。
 店頭では、三体の洒落たマネキンがそれぞれ体を痛めそうな洒落たポーズを決めている。そのピカピカの窓ガラスに反射する私は、量販店のトレンチコートを羽織り、その下は火災を憐れんだ後輩からもらったおさがりのセーターで、下はぶっちゃけ学生のころから一生履いているスキニージーンズ、そしてスニーカー。他方、東雲先生は、文学部の学生の間で、”東雲ルック”というダサいの代名詞として評される、毛羽立ったツイードの茶色のジャケットといつものシャツに重ねたいつもの毛玉の浮いたニットベストと、染みの浮いたいつものチノパン。そして肩ひもの長すぎるカバンと踵のすり減った茶色の靴。呪物のメガネに顔を覆われていることもあって、輪をかけてダサく感じる。
 明らかな場違い。圧倒的場違い。

「あ、あの……駅前の量販店でよくないですか? 取り急ぎなわけですし」
「あ、あ、で、でも……」
「東雲先生、いくら妹さんのご紹介とはいえ、ここに入る勇気あります?」
「き、清水の舞台から飛び降りる、覚悟で……」
「飛び降りたら死ぬでしょ」
「いえあので、でも、成就院の記録の統計によると、元禄の頃から禁止令が出るまでに飛び降りた二三〇件以上の飛び降りの生存率は、は、八割を超えるので……」
「ということは二割弱死んでますよ」

 珍獣は私の横で怯えた。
 妹さんには悪いが、ここは都合が悪くなったことにして帰ろうと、ふたりで力強く頷きあったところでドアマンが控えるブティックのどでかいガラス扉が押し開かれ、中からしなやかなブラックスーツに身を包んだ美しい女性が笑顔で声をかけてきた。

「失礼ながら、東雲様でいらっしゃいますか?」
「アッ! エッ! ハイッ、し、東雲です!」

 珍獣は馬鹿正直なので反射で答えてしまい、高級ブティックの高級そうな女性店員は品のある口調で「藤宮様よりお話を伺い、おふたりのご来店を心よりお待ち申し上げておりました」と言って、すっと店内に向けて腕を広げた。

「どうぞこちらに。本日は、お越しくださいましてありがとうございます」
「あ、あは、どうも……」

 我々にもはや逃げ道はなく、珍獣は私よりも先に正気を失って、私のショルダーバッグの細い紐をきつく握り締めて背中を丸めた。
 促されるがまま、柔らかな絨毯を履きつぶしたスニーカーで踏むことになってしまったこの悲しみを、どう拭ったらよいのだろう。

 こんなことになったのも、数時間前の出来事に遡る──

 *

 ルームシェアをするにあたり、彼女のふりをして祖父に会い、挨拶をしてほしい。
 東雲先生の提案は要約するとこうだった。

 できれば土曜か日曜日にでもと照れた顔で彼は言い、ついで、形式的なことで申し訳ないが、たとえば恋人の実家を訪問するのに適した、ほんのちょっとだけ余所行きのような服ってありますかと問いかけた。あるように見えるかと即座問い返すと、彼は半ギレの私を前に急にしどろもどろで謝罪の言葉を繰り返し、昨晩は部屋に引きこもった。
 一夜明け、厄介なことになったとため息交じりに朝食を用意して、東雲先生の部屋の戸を叩くと彼はげっそりして無精ひげの浮いた顔で、開口一番、
「昨日は申し訳ありませんでした」
 と言った。

「僕のような存在が、三池先生と同じ空間で息をさせてもらうだけでも奇跡だというのに、い、一緒に住んで、そのうえさらに、こ……恋人のふりを要求するなど、あまりにも烏滸がましいことを……」
「……いや、それは」

 口にしたところで、私は東雲先生の奥、執筆をしている書斎との続き間になっている隣の寝室の鴨居に、だるんとたわんだ輪が掛けられているのが目に入った。見れば、ネクタイをロープ上につなげて作られたものだ。昨日、私がこの部屋にお邪魔したとき、そんなものはなかったはず。
 ──まさかだろ……。

「せ、先生、その、あれって……?」

 嫌な予感に恐る恐る鴨居の輪を指さすと、彼は淀んだ雰囲気で私の示す先を一瞥した。

「この家を三池先生にお譲りすると一筆書いて、いっそ死んでお詫びをしようかと思ったのですが、首をくくると、後の始末が大変だそうで。作品に使うので一通りそういうのは調べたことがあるんです。大人の紙おむつを買うべきか判断に迷い、そもそもそんなことを三池先生にお任せしてしまうことがどうしても申し訳なくて、踏み切れずに朝を……」
「うわーっ!」
「僕は、僕という人間は本当に何ひとつできず……」
「待って待って! 極端すぎるでしょ!」
「三池先生と暮らすことができて、幸せでした。つかの間の夢をみさせていただき、いままで本当にありがとうござい」
「遺言やめて! 大丈夫ッ! 大丈夫だから!」

 東雲先生を押しのけ部屋に入ると、必死になって鴨居のネクタイを解く。固く結びすぎだ。

「何馬鹿なこと言ってんですか! こんなことしたら絶対にダメです! ダメ!」
「み、三池先生……」

 解いたネクタイを床に投げ捨て、私は肩で息をしながら東雲先生の手を掴んだ。

「約束してください! こんなこともうしないって。私の教えは絶対なんでしょ? 復唱して肝に銘じて墓にも刻むんでしょ?」
「あ……は、はい」
「やめてください。先生の考え、怖すぎます。彼女のふりでもなんでもするから、ご自分のこともっと大事にしてください!」
「わ、わかり、ました、ごめんなさい」
「はぁあ、もぉお……」

 今更自分のしでかそうとした事態に気付いたのか、先生の手は震えている。昨日私がされたように、今度は私が彼の手を両手で包み、ひきつって強張るその顔をまっすぐに見上げた。

「極端な行動に走らない。先生の研究室の子たち路頭に迷わせるつもりですか? 先生ご自身もやり残した研究とか、確かめたいことはひとつもないんです? 日陰教授のシリーズだってまだ完結してないし、アンソロジーの原稿が遺作なんて嫌ですよ。舞台になるなら私だって絶対に観たいので、脚本はしっかり原作者としてチェックして仕事してもらわないと」
「あぁ、は、はい、そうです、よね……」
「何より、ここに住まわせてほしいって言ったの私です。そりゃ、いきなり彼女のふりしてなんて言われて驚いてちょっと態度がアレになってしまったのは申し訳なかったと思いますけど、おじいさまにご挨拶する程度でいいならいくらでもやります。だから、落ち着いてください」
「いいん、ですか?」
「はい。それで、ちょっとした余所行きの服でしたっけ? 今後に備えて何かしら用意しなきゃなって思ってたので、今日どこかで買いに行ってきます。それより、朝ごはん食べましょう。東雲先生、酷い顔ですよ。ご飯食べて、お風呂入ってすっきりしたら少し寝て。ね?」
「三池先生……」

 私の手を握り返す力を感じる。
 もうひとつその上から彼の大きな手が重ねられ、私が小さく笑うと彼もまたぎこちなく笑い返してくれた。
 ──何なんだ、この人。ヤバすぎるだろ……。
 正直そう思ったが、ここまで関わっておいてもはや知らん顔ができるほど、私は豪胆でもなかった。

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