問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
朝食後、風呂に入って身ぎれいになって戻ってきた東雲先生は、居間で一ノ倉しの先生の新刊をタブレットで読んでいた私に「服を買いに行くのに宛てができそうなので少しだけ待ってほしい」というようなことを意気込んで言い、スマホを手元に何やらそわそわとしていたのだが、居間に差し込んでくる温かな日差しにそわそわは徐々にウトウトに代わり、東雲先生は大きな図体を右に左に揺らして、最終的に私に凭れ掛かってきた。
「……先生?」
東雲、──入眠。
少し体をずらすと、東雲先生はずるずる倒れ込み、私の腿の上に頭を乗せて停止した。あらら……と思ったが、先生はなかなか体が大きいので動けず、洗い立てのふわふわモサモサとした髪の感覚に、諦めて近くにおいていたひざ掛けを上に掛けてやり、呪物のメガネだけそうっと外してしばらくその整った顔を眺め、私は読書を続行した。
途中で座卓の上に置いた先生のスマホがメッセージの着信を告げ、一瞬表示された「藤宮美津」という明らかな女性の名前に、おやーこれはー誰かなーなどと思いながらも小一時間。脚がしびれてきたあたりで、私が身じろぎしてしまったせいか、東雲先生が目を覚ました。
「少しは休めました?」
「……へ……」
首を動かし私を見上げた先生は、ぼんやりとした眼差しで、少し身を起こして自分が頭を乗せていた場所を眺める。おそらくは数秒、時間が停止したような沈黙があり、東雲一蔵氏はひゅっと喉を鳴らし、ものすごい速さで後ずさった。
「ぼぼぼぼぼ、ぼく、なななななんということを」
「いいです。気にしないで。叫ぶのも軽率な自害も禁止。嫌だったら叩き起こしてます。私は膝を貸しただけで深い意味はないし、先生は寝ていなかったせいで気を失ったみたいなもんです。いい?」
先回りして取り乱さないように釘を刺すと、東雲先生はがくがく頷いてそのまま畳に額をこすりつけた。
「あ、ありがとう、ございました」
「はい。それより、鳴ってましたよ。スマホ」
擦りあがったおでこに赤い痕が残る先生は、耳の端まで赤く染めながら座卓に這い寄ると、その上にあったスマホに手を伸ばし、曇ったメガネを手繰り寄せ、その画面を食い入るように見つめた。誰なんだ藤宮美津。
「あ、──あの、三池先生! い、妹が、服を買うのにおすすめの店を紹介してくれたんですが、よかったら、これからそこに行きませんか?」
「妹?」
「はい。妹は先生と同い年なので、どこかいい店を知らないか、さっき風呂に行く前に思い立って聞いてたんです。祖父への挨拶をお願いしたの僕なので、ふ、服は僕に買わせてください。図々しいお願いをしたんですから、そのくらい、させてほしくて」
「え、いや、でも」
「顔が利くのか、そのお店の会員価格にしてもらえるそうです。すみません、僕はこういうの、まったく疎いので。で、でも妹に目的と三池先生の雰囲気を伝えたうえで紹介してもらった店なので、ま、間違いはないかと!」
「……妹さんに私のことなんて伝えたんですか?」
問えば、東雲先生はまたも頬を赤く染め、唇を噛み締めながらスマートフォンの画面を私に示した。
<彼女の件で相談があるのですが>という東雲先生の言葉に対し、妹の藤宮女史は<それってどういう意味の彼女?>と尋ねている。すると、続く先生の短いメッセージは、
<恋人という意味です>
と返した。トーク履歴にはクラッカーが弾けて飛び交い、くす玉が割れ、賑やかなスタンプを連続して放たれ、妹から兄に春がやってきたことへの素直な祝辞が送られていた。
「言っちゃったんだ……」
「い、っちゃいました……だ、だって先生、いいって!」
「そ、そう、ですけど……」
引き続きメッセージを追えば、同棲するにあたり祖父に挨拶に行くから、それ用の服をプレゼントしたいので店を紹介してほしいと尋ねる兄に、妹は<写真ある?>と要求する。
すると間を置かず、キャンパス内にいる普段の私らしき人物の、遠目からの全身、別な日の斜め横を向いたバストアップ、トリミングされたような笑顔の写真が続けざま送られていた。<三枚目は特にお気に入りです>などといういらぬ感想付き。
<わぁかわいい! 若くみえるけどまさか教え子に手出してないよね>
<同僚の先生です。三池さくらさん。美津と同じ年です。とても素敵な方だから、かわいいと言いたいのですね。木花之佐久夜毘売もかくやと感じ入るほど、笑顔が美しく、僕のようなものにも分け隔てなく優しい性格をしており、畢竟、女神です。料理上手で、すべての手際が良く、当大学の心理学科助教としてお勤めであり頭脳明晰で機転が利き、やはり女神という言葉が一番ふさわしいです>
<よかったねぇ。ちょっと何言ってるかわからないけど、まさかお兄ちゃんに惚気聞かされる日がくるなんて。お店任せて! URL送るね。私からも連絡入れておくから、行けばわかるようにしておくよ。割引してもらえるようにお願いしてみる!>
妹・美津さんはとてもいい人のようだ。
異様な兄への対応も手慣れたところがある。
「……東雲先生。褒めすぎですよ」
「そ、そんなことは」
「先生」
「はい。何でしょう」
私は東雲先生の胸にスマートフォンを突き返しながら、にこりと笑った。
「ひとつお聞きしたいんですが、この写真、どうされたんですか?」
「えっ……あっ……」
「覚えが一切ありません。そもそもこの撮り方、盗撮っぽくないですか?」
「ヒッ……」