問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。


 東雲先生の実家は都内ではあったものの、あまり足を向けたことのない区域だった。
 手ぶらで行くわけにもいかず、実家のほど近くにおじいさまの好きな和菓子屋があるという話だったので私たちはそこでタクシーを降り、高齢であるというおじいさま用の手土産には柔らかな和菓子を選んだ。おじいさまのいる家は実家の離れにあたるそうで、そのすぐ隣に家族の暮らす母屋があるとこの男は直前になってぽろっと言う。介護士さんとかお手伝いさんとか出入りの人もいるというから、結局何人いてもいいように同じ店で高級カステラも買って包んでもらい、約束の時間が迫る中、あくせくしながら実家に向かった。

「こ、ここです」
「……え、こ……え?」
「ここ」

 珍獣が尾っぽを振って私に示した場所には、確かに達筆な文字で“東雲”と表札が掲げられ、車が出入りできるように広く門扉が開かれていた。玉砂利の敷かれた道の両脇には木々が首を垂れるように立ち並び、その奥に高級旅館か料亭を思わせる立派な風格のある家屋が顔を覗かせている。シンプルに、大きい──というか、大きすぎないか。

「し、東雲先生……」
「はい」
「実家? ここが実家?」
「はい。敷地内には親族の家もありますが、中心にあるあれが母屋なので」

 和菓子屋のあった通りから歩いてきたが、門扉から続く塀は思い出す限りずっと続いていたような気がする。この家の敷地が一体どれだけあるのか見当もつかない。
 三人兄弟の長男で、私と同じく弟と妹がいるという話は聞いていた。父親もまだ引退せず仕事をしているということだったが、へぇそうなんですかで流していい内容ではなかった。何者なんだ、東雲先生……。こんな家、絶対に使用人が何人もいるはずだから、手土産のカステラどう考えても足らんだろ。
 呆気に取られていると東雲先生は私を奥へと促しながら平然と足を進めた。ここを普通に出入り出来て、高級ブティックに尻込みするのは何故──?

「この家、曾祖父の代からいろいろと事業をしているんです。祖父も父も事業家としてはひとかどの人物だそうで、親族からは代議士なども排出しているものですから、政財界で東雲と言えば一目置かれるというのが母の口癖でして」
「待って……東雲って、東雲ホールディングスの東雲さんですか? ITとか半導体とかインフラとか、よくわからないけど色々やってて、国内に限らず海外にも大きなビルがいっぱい建ってる、あの……?」
「ああはい、それ……いま、弟がCEOというやつです」
「ひぇ……テレビで見たことある、かも」
「有名ですからね、東雲透二(しののめ とうじ)。経営手腕というんですか? そういうのもすごいらしいです。昔からイケメンで、何でも出来るスーパーマンみたいな奴だから」
「せ、先生も何かやってらっしゃるんですか」
「いえ、僕自身はなんの関わりもありません。……がっかり、しました?」
「ホッとしました。これでどっかの役員してるとか社長ですなんて言われたら、東雲先生が何者なのかわからなくなりそうで……先生は、先生でいて」

 途端に「そんなの初めて言われた」と彼は笑いだした。

「直系の長男のくせにこの通りなので、父は落胆しています……昔はいろいろと厳しく言われましたが、何をさせてもうまくできないし、東雲の跡取りとして挨拶のひとつもまともにできないようではダメだと思われたんでしょう。大学で民俗学を専攻してからは諦められたのか、家も出されて一切干渉されなくなりました。もう何も期待されていなくて、僕を認めてくれたのは、祖父だけです」

 離れはこちらです、と先生は石畳の小道を縫って案内してくれる。

「親にも親族にも申し訳ないことをしたと思っていますけど、いないものとして扱ってもらえる今は気が楽なんですよ。さっき言った通り、僕がいなくても完璧で優秀な弟がいるので、東雲家は安泰ですし、妹の結婚したお相手もすごい方ですから」

 視界が拓けると、趣ある平屋の玄関前にはエプロンを付けた年配の女性が立っていた。昔から出入りしてもらっているお手伝いさんだそうだ。
 中に通されると、病室を訪れたときのような特有の匂いする部屋には、庭を臨む窓辺の介護用のリクライニングベッドで体を起こして痩せた老人が酸素チューブを鼻に通され、微笑んでいた。
 どことなし、東雲先生の面影がある。

「──おお、一蔵」
「おじいちゃん、久しぶり」

 齢九十を越え、震える声は、それでもかくしゃくとして、おじいさまは私に穏やかな視線を向けるとゆっくりと頭を下げた。

「はじめまして。三池さくらと申します」
「東雲彌栄(いやさか)、といいます。この通りの有様にて、御足労願ってしまい、申し訳ない」

 私もまた深く礼を返し、お手伝いさんに手土産を渡すと東雲先生の立つおじいさまのベッドのそばに足を進めた。

「ご挨拶の機会を頂戴できて、ありがたいことと思っています。今日はとても良いお天気ですが、お加減はいかがですか?」
「とてもいい。ありがとう」
「あ、あの、さくらさんは僕と同じ大学の先生なんだ。認知心理学という学問で、人の記憶とかものの捉え方とかを研究されてる」
「ほお、難しいことを。おれは忘れる一方だ」

 どうぞ掛けてと促され、東雲先生は近くにあった椅子を寄せてくれた。おじいさまは腰を下ろした東雲先生をちらりと見やると、不意に悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「よかったな、一蔵」
「お、おじいちゃん……」
「本の虫はこのまま本と夫婦(めおと)になるんじゃないかと心配したが、とても素敵なお嬢さんを巡り合えたらしい」
「し、紙魚(しみ)は本を食べるのであって、繁殖対象にしているわけではないから……」
「このとおりだ。ご迷惑をおかけしてはいないかな、さくらさん」
「このとおりで、とても面白くて、立派な方だと思いますよ」

 我ながら白々しい言い方だと思ったが、感激したように目を輝かせる東雲先生に曖昧に笑いかけると、おじいさまも笑って、しかし急にごほごほと咳き込んだ。すぐに先生が痩せた背中を擦ると次第に落ち着いてきて、お手伝いさんがお茶と和菓子を乗せたトレーを手にしながらばたばたと駆け込んでくる。

「大丈夫ですか、大旦那様。いま、お水を」

 わずかに水を含んでしばらくすると落ち着き、「見苦しいところを見せて申し訳ない」とおじいさまは青白い顔で言う。

「年寄りなもので、……先が長くない。わがままを言って、家で過ごさせてもらっているわけです」
「どうぞ無理をなさらず」
「ありがとう。私の一番の心配だった一蔵が、紹介したい人がいるというので、今日はとても楽しみにしていた。だから、できることなら、もう少しだけ話をさせてください」
「ええ……でも本当に無理はなさらないでください。一蔵さんを余計に心配させてしまっては、おじいさまも本意ではないでしょうから」
「お優しい方だ。若いころの妻を思い出します。器量よしで、賢い人で。私は親の見合いを押し切って、彼女に結婚を申し込んだ。後にも先にも一度きりの大恋愛でね。一蔵もどうかそんな人と巡り会えたらと」

 お茶を頂きながら様子を見る限り、東雲先生はおじいちゃん子なのか、おじいさまにかなりの信頼を寄せているようだった。おじいさまのほうもまた、少し変わった孫のことが気にかかっていたのだと思う。

「──そ、それで、本題が遅くなってしまったのだけど、いま僕がおじいちゃんから借りてる大叔母さんの家に、さくらさんも一緒に住めたらと、お、思っていて」
「構わないが、古いし手狭じゃないのか? 先のことを考えれば、今風の便利な家を建ててもいいだろう。土地ならいくらかあるのだし、必要なら生前贈与を」
「い、いや、そこまでのことではないから」
「無責任なことを言うな。他所のお嬢さんを迎えるのに、幸せな暮らしを約束しないでどうする」
「そ、それはそう、なんだけど、さくらさんも仕事があるし、家となると、ば、場所とか立地とか」
「まぁゆくゆくは子供のことも見据えれば、確かに環境は考えたほうがいいが」

 ……うん?

「一蔵もいい歳だ。そのあたりのことはおまえなりの考えもあるだろうから、年寄りは何も言わん。取り急ぎあの家で暮らして、準備を進めるということだな」
「う、うん。そんなところ」
「それで、入籍や式はいつの予定なんだ」

 んんん?
 ぴくりと目元が反応したが、私は努めて平静を装って、訂正してくださいねと目で訴えながら東雲先生に視線を向けた。

「ち……」

 そう。違う。違うと言え。我々は共同生活者だ。致し方なく彼女を装っている。破局を前提とした同棲である。

「近々……」
「そうか。日取りもあろうからなぁ。おめでとう、よかった」

 ──近々……?

 近々って何だ。目を向けた東雲先生の瞳が動揺にガタガタ揺れている。
 おじいさまは、内心驚愕する私など知る由もなく、よかった、と声を滲ませて頷き、次第に涙を浮かべて老いた目元を何度も拭った。皺だらけの皮膚のたるんだ乾いた手が、私の手を取って「ありがとう」「一蔵をどうかよろしく」と頼み込む。

「一蔵のことだけが、心残りだったのです。これには私やせがれのような商才はなかったが、別な才能があった。それを伸ばしてやりたくて、好きなことをしろと背中を押したのは私だったが、それゆえ親からも見放され、苦しい想いをさせてしまった。だが、一蔵のことを見つけてくださったのが、あなたのような方であれば、私はもう何も言うことはない。ありがとう……一蔵を見つけてくれて、ありがとう」
「え、ええ、あぁえぇそんな……は、はい……」


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