問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
東雲先生は玉砂利の上に見事な土下座を決めた。
「け──結婚するという体で、何卒お願い申し上げます」
「これは彼女じゃないでしょう。結婚を前提とした相手のことを婚約者といいますが?」
「おっしゃるとおりでございます。返す言葉もございません」
ごち、と鈍い音がして顔を上げた先生の額からぱらぱらと砂利の粒が落ちていく。
「本当に、本当にすみません……三池先生と暮らしたいなんて、こんな烏滸がましいことを願ってしまったばっかりに……結婚なんて、う、嘘まで」
うわ……まさか、本当に泣いているのか。
赤い顔で鼻をすすった東雲先生に、私はため息をひとつ吐き出すと、しゃがみこんで額の砂利を払ってやり、バッグからハンカチを取り出して赤い鼻に添えた。
ほら、と言えば、珍獣が鼻をかむ。
東雲先生はそのまま受け取ったハンカチで目元を拭った。
「祖父は、自分でも言っていたように、そう長くは、ないんです。頭はああして歳の割にはっきりとしていますが、体は持って一年くらい、らしくて」
「そうなんですか……」
「……僕、両親からアメリカの大学に行け、経営か商学系しか認めないと言われて、大学は全部奨学金で通ったんです。家も追い出されて、入学してしばらくは貯金で食いつないで家賃を払ったりしてたんですけど、それも尽きて、アパート出なきゃいけなくなって……しばらくは、見つからないように学校で寝泊まりしてました。僕も、三池先生と似たようなことしてたんですよ。バイトしようにも、本を読んでいると時間忘れて、遅刻ばっかりで、人ともうまくやれずにすぐクビになったりして……。友達も少なくて。世間知らずのうえに生活能力もない。何してもダメ……恥ずかしい話ですが、祖父が助けてくれなかったら、野垂れ死んでいたと思います」
「よかったですね。死ななくて、頑張って先生になれて。小説家にもなれた」
私は、茫然とする東雲先生の赤い鼻先を人差し指で押し、口元で軽く笑って見せる。
「ということは、おじいさまのおかげで日陰教授のシリーズを読めてるようなものですから、私も感謝しないと」
「三池先生……」
「安心させてあげたかったとか言うんでしょう? どうせ」
「は、はい……」
立ってと促し、立ち上がった彼の長いひざ下を払う。
「私も抜かっていました。先生も私もいい歳なのに、揃って実家に挨拶に行って結婚の話題にならないわけがないんですよ。こうなると、彼女のふりも婚約者のふりも、そう変わらない気がしてきました。乗りかかった船です。おじいさまには申し訳ないですけど、入籍はやっぱり結婚式の後にするという体にして、結婚の準備を進めたいけど仕事が忙しくて時間が掛かっている設定でいきましょう」
「いいん、ですか」
人は往々にして”一貫性の原理”を持つ。自身の行動や、発言、態度、信念などを一貫したものとしたいという心理だ。これは、一貫していたほうが行動の意思決定が早くなるし、他者からの信頼が高くなる傾向にあるためと考えられている。
そして、この原理によって、人は一度何かの要求を受け入れてしまうと、それよりも大きな要求が提示された場合──例えば、彼女のふりの次に婚約者のふりをするといった過度な要求であっても受け入れてしまうことがある。こういった交渉の手法を、フット・イン・ザ・ドア・テクニックと称した。
「私も鬼ではないので、あんな涙を流しながら喜んでくれている人を前にして、ルームシェアしたいだけですから結婚はしないですねとか言えませんよ……」
「あ、ありがとうございます!」
「孫想いなおじいさまですね」
「はい。はい、そうなんです。僕、どうにか祖父に恩返ししたくて、でも祖父は僕がいい人を見つけて幸せになってくれたらそれでいいとしか言わないし。三池先生を紹介できて、ようやくひとつ、祖父を安心させてあげることができたと思います!」
「そうであれば、私も彼女役やった甲斐がありますよ。後ろめたかったけど」
「三池先生って、本当に肝が据わってますね」
「お褒めに預かり光栄です」
東雲先生は照れたように笑って、低く穏やかな声で改めて「ありがとうございます」と言った。
私もなんだかんだ絆されている気がする。
さっき離れのお手伝いさんに母屋の方への手土産も渡してしまったし、今日約束をしたのは祖父だけだから実家自体には顔を出さなくてもいいと先生は言う。
どうせいないだろうから、と。
出さなくてもいいか、出したくはないか。まぁ私としてはこれ以上嘘を重ねるのもなんだから、ひとまず帰ろうかということになった。
「あ、あの……み、三池先生」
「はい?」
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ。──私、東雲先生といるのわりと楽しいですよ。博識だし、仕事ちゃんとしてるし、教えたらご飯も炊けるようになったし、洗濯機も回せるようになったじゃないですか。優しいし、お箸の使い方上手で、おじいちゃん思いで私のことも助けてくれた。おまけに、東雲先生は一ノ倉先生でもあるんだから。確かに変な人ですけど、だからと言って、何にしてもダメなんて自分を卑下しないでください」
「三池先生……」
「お世話になるのは私のほうです。あ、でも、東雲先生にもし彼女とか出来たらそそくさーっていなくなりますから、その辺は遠慮せずいい感じになりそうなケースがあればすぐ教えてくださいね」
「な、ないです、そんなこと! 僕は、三池先生しか──、というかむしろ……三池先生のほうこそ僕なんかと一緒にいて、ほ、他の方とのお付き合いとか、それこそご結婚に支障が」
「ないない。私、するつもりないんですよ。よくわからないので」
「え──?」
その時だった。
「ああっ、いた! 兄さん、帰っちゃったかと思ったよ」
振り返れば、ハイネックのセーターにカーディガンを羽織り、洗練された都会の男を思わせる優男が駆け寄ってくるところだった。
「透二、どうして」
「美津から聞いたし、あいつ心配して、見てきてほしいって言われたんだよ。それより、兄さんなんか今日違ってみえるね。服もちゃんとしてるし、猫背治した?」
透二と呼ばれた彼は、東雲先生に迫る長身で並び立つ彼らは面差しが何となく似ている。くるりと視線が向けられると、その目は柔和に微笑んだ。
メディアを通して顔を見た覚えがある。彼こそが東雲先生の優秀な弟、東雲ホールディングスの若きCEO東雲透二さんだ。
「初めまして、兄がお世話になっています。弟の透二です」
「み、三池さくらです。すみません、こちらに伺っておきながらご挨拶もせず」
「いえ。約束していたのは祖父だという話でしたし、お聞き及びかもしれませんが、兄と両親は少々難しい関係でして、どうぞ気になさらないでください。妹から話を聞いて、ぜひあなたとお会いしたいと思っていたんです。お帰りになる前でよかった」
──か、顔がいい……!
堂々としていながら、爽やかでなんと顔がいいのか。
東雲三兄妹はもしや美形揃いなのでは。にこりと人好きする笑みを浮かべた弟君に見惚れていると、不意に視界が東雲先生の背中で覆われた。
「だ……だめ……」
「ダメって、挨拶してただけだろ。兄さんこそ、ちゃんと紹介してよ。どんな人? 美津にだけ教えて俺に連絡しないとかひどいだろ。話したいなぁ、さくらさんかぁ。美人だなぁ。兄さん、俺にはなんでも譲ってくれただろ」
「この人だけは嫌だ!」
明らかにからかわれている。
透二さんが右に左に身体を振ると、東雲先生も私の視界を塞ぐように右に左に動く。
いよいよ透二さんが笑い出したところで、母屋のほうから「透二くーん」と女性が呼ばわる声がした。
「透二くん? そこにいるの? あのね、おじいちゃんのところのお客さんがカステラ下すったんですって。向こうの通りの和菓子屋さんの。安っぽいやつなんだけど、それはお手伝いさんたちにあげて、こんなふうに透二くんがお家にいるのも珍しいんだし私たちはどこかランチにでも──」
話しながらやってきた中年の女性は、私たちの姿を目に止めるとぎょっとして足をとめた。
「母さん。そういう品のないことを言いながら歩き回るものではないよ。おじいさまの客人はまだこちらにいらっしゃるのだから」
ぴしゃりと息子に言われた彼女は、振り返った東雲先生の名を硬い声音で呼んだ。
「……一蔵」
「母さん……」