問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
四章 吊り橋効果
(1)ラポールの形成
予想した通り、私の親は、そんな相手がいるならすぐにでも顔を出しなさいと言ってきた。お父さんがうるさいから、と。いつでも良いと意気込む東雲先生と予定を合わせ、急遽翌週の週末には、東北の田舎町にある私の実家に訪問することが決まった。
地名を告げると、東雲先生はしばらく家の中をうろうろ歩き回った挙句、ついでに立ち寄りたいところがあるのでホテルとレンタカーの手配を任せてもらえないかと言う。フィールドワークか取材としていずれ行きたいと考えていた場所の近くだったそうで、ボロが出る前に仕事を口実に実家を早々に立ち去れるのはありがたいから了承すると、途端にそれまで何だか本気で結婚に前のめりだった勢いが、普段のモサモサ珍獣に戻って、彼は自室に下がっていってしまった。彼の頭の中で、私の実家への挨拶よりも、フィールドワークのほうに比重が割かれたのだろう。
別にそれで構わない。ぼんやりしておいてもらったほうが、私には都合が良かった。
なぜなら、──私は私でやらなければならないことがある。
「東雲先生、一緒に行ってほしいところがあるんです。お忙しいとは思うんですが、明日と、それから明後日もなんですけど、私に時間もらえませんか?」
背の高い彼を下から覗き込むようにして言えば、大抵の要求が通るような気がした。
翌日の講義終了後、律儀に正門の前で待っていた彼に手を振って駆け寄り、「いきましょ」と微笑んでやると、東雲先生は行先も聞かずただただ尾っぽを振ってついてくる。私を疑うということを知らない。
連れていかれた先が洒落たメガネ屋であることに気付いて、はっとした彼を店員に預けて、視力測定をさせ、その間に私は、知的かつ呪物にならないフレームの候補をいくつか選択した。
「み、三池せん──」
「これで。さっきお願いした曇りにくいレンズでお願いします」
「畏まりました。レンズの在庫がありますので、一時間少々で出来上がります」
「助かります。さ、ご飯食べに行きましょうか。先生」
ひぇとか、なぁとか声にならない声で啼く珍獣を連れて、近くで夕食を済ませ、再び店に戻って仕上がった新しいメガネの調整をする。
「え、うそ、かっこよ……す、素敵ですぅ! 本当にお似合いですねぇ!」
ときめく店員を前に、ほらな、と私は訳知り顔で腕を組んで頷いた。
野暮ったくならない程度の細くて暗めの鼈甲フレームの上にかかるようにして、困惑しても形の良い彼の眉が見える。黒のメタルフレームと迷ったが、普段の東雲ルックを想定するとこちらのほうが浮かないと判断した。
切れ長で掘りの深い印象的な目元がクリアなレンズの奥にはっきり見えて、視線が合うと一瞬どきりとするほどだった。
「素敵です、東雲先生」
「み、三池先生……!」
「先日、プレゼントして頂いた服には比べ物にもなりませんが、私からも何かしらお礼がしたいと思っていたんです」
「あ、い、いやそんな、わ、悪いです」
「贈ったものを身につけてもらえるのって嬉しいですね」
顔を赤く染める東雲先生に、私はちょっとした恥じらいを頬に浮かべて両手の指先を合わせた。
「明日もお付き合いいただけますか?」
「はい! 喜んで!」
──チョロい。
翌日の業務終了後は、バッグを手に助教室を出たところで目の前に来栖先生が立っていた。
「ミケちゃん、悪いんだけど頼みたいことあってさぁ」
「すみません、今日ちょっと急いでまして。用件メールで送っておいていただければ、明日対応しますので」
「ええ、でも明日の一限で使いたいやつでさ」
「明日の一限のものをいま言われても困ります。定時過ぎてますし。私も同じ教員の立場ですので、来栖先生もご自分で出来る限りの対処をしてください。どうしても手に余ったものに関しては明日、朝一でやりますからメールを」
「でもぉ」
交わそうとしても、私が右に動けば来栖先生は左に、左に動けば右に動いて道を塞いでくる。
腹の奥で苛立ちが湧く。
「そもそもなんで急いでんの?」
「は?」
「もしかしてデート?」
余計なこと聞いてる暇あったら用件メールするか自分でやれ。
するとちょうどそこで、廊下の奥から東雲先生がやってくるのが見えた。先生は私の視線に気づくと、戸惑って足を止め、肩にかけたパンパンのトートバッグの紐をキツく握って来栖先生と私を交互に見やる。メガネが変わった分、視線の動きが手に取るように分かった。
──逃げるか、と思ったところで、意外なことに東雲先生はつかつかとこちらに近寄ってくると、
「あ、あの、お、お話中すみません」
と来栖先生に声をかけてきた。
「ああ、えっと──」
「み、民俗学の、東雲です。み、三池先生に本日取材協力を依頼しておりまして、予定の時間が迫っているのですが」
「取材?」
「は、はい。心理学の知見が必要なテーマでして、今度ぜひ、こ、高名な来栖先生にもお伺いしたいと考えているので、また改めて依頼させて頂ければと」
「あー構わないけど、そういうことならマネジメント通してもらって」
「承知しました。さすが来栖先生ですね、僕の母も来栖先生のこと褒めちぎってました。で、では、三池先生、あっち、あの、お約束の件お願いします」
「はい!」
助教室に鍵をかけ、「お疲れ様でしたァ」とお来栖先生の前をそそくさ退場する。揃ってエレベーターに乗り込んで扉が閉まると、私は東雲先生とハイタッチを交わした。
「ありがとうございます、先生! さっすが」
「き、緊張しました。三池先生みたいに出来たらいいなって」
「出来てましたよ」
照れて頬を掻く東雲先生と目が合うと、お互いに気恥ずかしさを覚えながらも、温かな気持ちに包まれる。
「あの、三池先生、今日はどこに行くんですか?」
「着いてからのおたのしみです」
「お、おたのしみ?」
「はい」
にこりと笑えば、東雲先生もつられて笑う。
それから一時間もしないうちに、苦手とするヘアサロンの椅子に縛り付けられることになろうとは予想もしていない顔だった。