問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
そこからしばらくは楽しくやっていた。
女の二人暮らしって気楽でいいね、なんて言いあって。これを機に婚活すればと言い出す友達もあったが、私には結婚願望どころか恋人を作るつもりもなかった。
将来は、ひとり悠々自適に猫と一緒に暮らす。
不動産屋は何軒か覗いてみたものの、新しい住まいは希望する立地や条件ではなかなかいい物件が見つからなかった。
肩を落とすと、ルームシェアを受け入れてくれた彼女は、大変だったんだから急ぐ必要ない、さくらとは気が合うし、ずっといてもいいよと優しい言葉を掛けてくれた。
だが、弱り目に祟り目とはよく言ったもので、基礎化粧品の減りが異様に早いと気づいた時にはもう遅かった。
再発行の手続きが済んだはずの預金通帳が見当たらない。
友人という名のもとに他人を信用しすぎて貴重品の管理が甘かった。家主の留守中に家探しし、何故だかベッドのマットレスの下から発見された通帳からは覚えのない金額、しかもかなりの額の引き出しが多数あることが判明した。安直な暗証番号にしておいた己を呪いつつ、ついでに調べてみれば、普段使っていなかったクレジットカードの利用明細もおかしなことになっていて、結果、四百万近くを使い込まれていた。
ほとんどが彼女の消費者金融の借金返済に充てられ、ストレスから買い物癖がある彼女の物欲を満たすことと、彼女のパチンコ大好きな恋人へのお小遣いとして消えたらしい。リモートだから出社しなくていいんだと言っていたが実は無職で、家賃も滞納しており、彼女にはかなり前から再三の通告と退去通知が届いていた。
泣いて謝られたところで金は戻ってこない。男と別れると言われてもどうでもいい。
弁護士を入れるような気力もなく、私はとりあえず、使った金を必ず返す、あとで弁護士入れるかも的な誓約書をネットで調べて作成したくらいで、それに署名と捺印をさせて彼女を一度実家に送り返し、状況を告げても平謝りだけで金を返すことはできそうにない痩せた彼女の親に生ぬるい顔を向けるしかなかった。
火災から約二ヶ月が経過し、ステータスが、三十二歳、独身、彼氏なし、家なし、金もなしとなった。
体が元気で職がある。それだけでもいいじゃないか。
今日は華の金曜日。ちょっとリッチに朝食付きのビジホに泊まっちゃおうかな。猫カフェ寄って猫吸ってから漫喫で過ごすのもありだし、学生時代を思い出しながらまた寝袋で床に転がるのも悪くないかも。
わだかまる認知的不協和を無理やり解消し、少ない身上道具一式が詰まったキャリーケースを引きずりながら、小綺麗な私大での講義を終えて正門を出ようとしたときのことだった。
「み、三池、先生っ!」
名を呼ばれて足を止めると、門柱の脇に潜んでいたらしい背の高い男がぬるっと現れた。
長身を台無しにする猫背にもっさりした髪型、目元が見えないほど曇った眼鏡、シャツに毛玉のついたベストとスラックス──という何年前から変わっていないのだろうと思わせる出で立ち。行商かと突っ込みたくなるほど、パンパンに書籍から何からが詰まったトートバックを右左の肩にかけている。
うわぁ出た。今日も出たか。
「ああ、東雲先生……お疲れ様です」
「お……お疲れ様です。いま、お帰りですか、き、奇遇ですね……」
「アハハ……ですねえ」
明らかに待ち伏せしておいて奇遇も何もない。
するするっと私の横に並んで、なぜだか照れた様子の仕草をするこの男は、同じく帝信大に籍を置く民俗学の准教授で、東雲一蔵といった。
私はこの私立大学で、火曜と金曜に基礎心理学と認知心理学の概論講義を持っているが、東雲先生もまた金曜日に一般教養の民俗学講義を受け持っているという。彼の担当するコマは午前中のはずだが、どういうつもりか、いつも私の講義が終わる夕方まで仕事をしながら図書館に居座っているらしい。
何を気に入られたのだか、私は、学内で学生たちから薄暗いところに出る妖怪と呼ばれる、このモサくてダサくてキモさ溢れる同僚に、まとわりつかれるようになった。
私大の講義が終わるのを出待ちされるようになったのは、新規のシラバスが発表となった四月からだが、講義棟や学部の廊下で日々信じられないくらいの頻度ですれ違い、気づけば柱の影から陰気な視線を向けられるようになったのは一年ほど前からになる。複数の学科を内包し、それなりの大きさを誇る文学部棟において、心理学科と文化人類学科の民俗学教室では端と端ほど離れているはずなのに、後ろを向いて適当に小石を投げれば東雲先生に当たるような状態だった。
所属する学科も異なれば、片や助教、片や准教授。もちろん、同じ職場とあって、すれ違えば挨拶程度はするが、特に親しく会話を交わした覚えもない。
きっと私は彼の何らかの興味を偶然引いてしまったのだろうと思うが、当然まったく嬉しくない。
嬉しくはないが、同時に毛嫌いするほどの嫌悪感もなかった。
うわ、出た、キモ……と毎度心の中で思うものの、それは珍獣を前にしたときの感覚と似ている。
私とて多くを知るわけではないし、偏見かもしれないが、なんせ国公立大の教員など右を見ても左を見てもほとんど変人しかいないのだ。
尊敬する我が師も一般的に見れば熊かヒグマか変人の部類だし、当校の高名なる哲学の教授は大きな声で元気に独り言を話しながら廊下を行くのだし、授業の途中で何かを思いついて学生を放置する人もいるし、徹夜麻雀に明け暮れ学生から金を巻き上げられてすかんぴんになって泣く世界的に偉い人も見た。
この東雲という珍獣もまた、他の多くの教授陣同様、研究に没頭するあまり一般企業に就職するような器用さがなく、目の前の物事に取り組んでいるうちに大学から出られなくなってしまった不器用な天才の類なのだろうと思っていた。
要するに、私はこの類のキモい人を見慣れている。
「あ、あああ、あの、あのっ、み、三池先生は、こ、これからご旅行で、すか……」
絞り出すように言うから何かと思えば、べたついた指紋で虹色に反射する眼鏡の奥から注がれる彼の視線は私の引くキャリーケースに向けられていた。
「ああ、これ……いえ、そういうわけではないですよ。ただの荷物で」
「じゃ、じゃあ、これから戻られます? 大学」
「どうしようかなと思って」
こういう時、明確な行先は言わない。
なぜなら東雲先生が漏れなく後ろからついてくるからだ。
「あのっ! も、もし、こっ、このあと特にご予定がないようであれば、その……ぼ、僕と食事に……」
「あは、食事……」
「行っていただくわけには、まいりません、でしょう……か」
私たちの横を通り過ぎていった数名のキラキラした女子大生の明るい笑い声に、東雲先生の語尾はすぅと空気に溶けるように消えていった。
食事か。
金曜のこの時間、彼は意気込んで二回に一回は私の予定を聞いて食事に誘ってくるが、その誘いに乗った試しはない。
大学に戻って、今日も学食で三百円で収まるものを食べようと思っていた。だが、正直それも飽きてきたし、毎日毎食のように現れ安いメニューで凌ごうとする私を憐れむ調理員のおばちゃんが、白米ばかりを大盛にしてくれることにも何だか物悲しいものがあった。ぶっちゃけ肉とか食べたい。
「いいですよ。東雲先生の奢りなら、なぁんて」
「おっ! 奢ります! もちろん!」
「……え」
「あ、あのっ! これっ!」
何を思ったか、東雲先生はパンパンのトートバッグからこれまたレシートでパンパンの財布を取り出し、それをグイグイ私に押し付けてきた。
「えっ、いや、ちょっ、こ、困りますこんなところで!」
「い、いくらですか! いくら欲しいですか!」
「待って、なんか言い方おかしい。人も通るので、そういうことを大きな声で言われるのはちょ、ちょっと。というかご飯ですよね? 普通のご飯」
「は、はいっ! どうぞ! これ、み、三池先生の好きにしてください!」
「いやいやいや好きにって」
私たちを怪しんだ目で眺めて学生たちが通り過ぎていく。
「いいんです、う、嬉しいです! 夢みたいだ! ありがとうございます!」
──うわぁ、まずいこと、言ったかも……。
一歩また一歩と私との距離を詰める東雲先生は鼻息も荒く、ギチギチと音が立つほどに、大きなその手でキツく財布を握りしめていた。