問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。


「──すっごいぃ! ありがとう、リョウちゃん!」
「化けたわよぉ。ま、元がよかったから時間もかかんなかったけど。もうアタシじゃなくちゃ満足できないカラダにしておいたから。ねっ、セ・ン・セッ」

 ここは、都内にある人気のヘアサロン。
 新規なら予約をとることも困難だそうだが、トップスタイリストでもある店長とは個人的な知り合いでもあり、相談して無理を聞いてもらったのだ。
 目の前の長身の男から言葉と共に飛んだウィンクに、苦行から解放されるや私の元に飛んで帰ってきた東雲先生は激しく肩を震わせ、私の背中にひたりと大きな身を寄せた。傍で見ていた限り別段普通のカットだったと思うが、相手の言動が独特なのと圧倒的コミュ力に翻弄され完全に怯えている。

「頑張りましたね、東雲先生」
「みっ、みっ」
「はいはい」
「みっ三池せんせ、あっ、あの人……」
「いい人でしたでしょう? 先生が、アとかエとかしか言わなくても、流れるように話が進んで楽しい時間だったと思います。一度リョウちゃんに髪切ってもらうと、本当に他の人じゃなんかイマイチだなぁって気になりますから、ね?」
「で、あ」
「先生、かっこいいです。すごく」
「へっ──」

 本当に、髪型ひとつでここまで変わるとは!
 今までモサモサした髪で顔周りが隠れ陰気な雰囲気だったところを、土台のよさをしっかりと活かして、こんなにオドオドしていても、見た目だけは知的で洗練された男になっている! メガネも似合う!
 自然な分け目から流された前髪の間から額が覗き、これだけでも先生の整った顔立ちが引き立つというのに、サイドや後ろはすっきりとしていて清潔感があり、伏した拍子に前髪が目元にかかると途端に色っぽさを感じる。ついでに眉も整えてもらったが、こんな、こんな美形──

「か……かっこ、いい?」

 戸惑いを浮かべるその表情さえも普段と違って見えるのだから当然だ。「はい」と答えれば、東雲先生は真剣な眼差しで私を覗き込む。

「ほ、本当、ですか?」
「本当ですよ」
「……三池先生の、こ、好みにあう、感じになりましたか?」
「わ、私の……?」
「はい。そうじゃないと、意味がないので」

 ──ど、どういう意味……どうしよう。まずい。やり過ぎた。その目で見ないで……。

「わ、私だけじゃなく、もはや全人類の好みっていうか……」
「好き、ですか?」
「は、あ……非常に、よ、よいと感じ入っておる次第で……」

 東雲先生以上にしどろもどろである。急に轟音をあげて鳴り出した鼓動を聞かなかったことにして、私はリョウちゃんに助けを求めるように視線を向けた。

「あっらぁ。そういうの珍しいじゃない? さくらちゃん」
「な、なにが。あの、ともかくも本当にありがとう、リョウちゃん。忙しいのに無理言ってごめんね。お礼絶対するから」
「いいのよ、さくらちゃんの頼みなんだし。この店持つとき、さくらちゃんにどれだけ世話になったか考えれば、このくらいどうってことないもの」

 彼が言うと、東雲先生は「ち、知覚心理学を応用した空間デザインを専門とされている方を、ご紹介されたとお聞きました。お、お店を広く快適に演出する知覚効果を取り入れていると」とやや興奮気味に言葉を続けた。

「なぁんだ、センセったらちゃんとアタシの話聞いてたんじゃないの。それとも、さくらちゃん絡みのことじゃないと記憶残ってない感じかしら?」
「エッ、アッ」
「いけずねぇ、ンフッ見れば見るほど見た目だけはイイ男。中身も矯正してやろうか?」
「ヒャ」
「あんまりいじめないで、リョウちゃん」
「冗談よ。気にしてたみたいだから、さくらちゃんはアタシの妹が大学時代に世話になってた先輩だってことも伝えておいたわ。妹に紹介してもらって、さくらちゃんはアタシがアシスタントの頃からの大事なカットモデルちゃん。今もご贔屓のお客さんよ。ま、だから彼女の髪なら恋人よりも触れてるかも」

 意味深な発言に、東雲先生はなんだかムッとしたような顔つきを見せた。今まで呪物メガネとモサついた髪型のせいで表情が分かりにくかったせいだろうか。
 こんな顔もするのか、と意外だった。
 するとそこでリョウちゃんはスタッフから呼ばれ、「またねぇ」と手を振りながらも慌ただしく他の対応に向かっていった。
 会計を済ませ、恐縮しきりの東雲先生と共に店を出る。

「苦手だったのに無理させてしまってすみませんでした」
「いえ、ありがとうございます。こうでもされないと美容室なんて行きませんでしたし。や、やっぱりプロの方は違うなと気付かされました……。三池先生のご両親に会うんですから、ちゃんとしようとは思っていたんですが、恥ずかしながらどうちゃんとしたらいいのかも、わからず」
「あ、べ、別に今までの東雲先生がダメだったというわけじゃないんですよ」

 我ながらおかしな取り繕い方をしている気がしたが、駅に向かって歩きながら、東雲先生は「気を使わなくていいですよ」と苦笑する。

「さすがに無頓着過ぎました。あれでどうにかなろうとしていたなんて烏滸がましい。なんだか、メガネも髪型も変わって視界が普段と違うせいか、考え方まで変わった気がします」
「そ、そうですか?」
「かっこいいなんて、三池先生に言ってもらえて、ちょっとだけ……じ、自信がついたというか。ちょっとだけ、ですけど。と、隣にいて、変じゃないように、努力してみようと思えて──」
「隣?」
「せ……先生の、と、隣です。三池先生の、さくらさんの、隣」

 胸のあたりがぎゅうと苦しいほどに縮こまっていく気がした。
 顔が熱い。

「い、今も隣にいるじゃないですかアハハ」
「で、ですね。すみません、変なこと言って。そういえば、今日って、もしかしてこれから家に帰ってカレーですか?」
「そうです。朝、準備してたし匂いでバレバレでしたよね」
「ぼ、僕、三池先生のカレー、すごく好きなんです! おうちカレーって言ってましたよね? 初めて食べさせて頂いた時、衝撃的で、あの後カレーの口になる度に学食のカレーとか大学の近くにあるインドカレーの店にも行ってみたんですかどうも違って、でも僕には何がどう違うのかもわからないといいますか、おうちカレーって三池先生の独自調合という意味合いですよね。ですから門外不出の特殊製法があるのだと思いますが、ともかくもぜひまた先生のカレーの日が来てくれないかなと実は期待していて」
「早口早口。門外不出でも特殊でもない普通の作り方ですから。食べたいものあったら、遠慮しないでリクエストしてくれていいですよ。結局、食費だってほとんど先生に出して頂いているようなものですし。自分が食べたいものを作りたい時ももちろんありますけど、一緒に食べてくれる人に向けて作るのはやりがいありますから」
「ほ、本当に? 週三カレーとかでも許されるんでしょうか」
「週三は多いな」
「多いですか……」

 東雲先生は、あからさまにしゅんとした。
 ──かわいい。
 セーター毛玉だらけなのにかっこいい。トートバッグパンパンなのにかわいい。
 どうしよう。前々からちらほら思ってはいたけれど、この人、かなり──かわいいかも。


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