問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。

 (2)恋の吊り橋実験


 東雲先生の見た目を何とかしようと画策したのは、ひとえに、私の実家に東雲家の状況を伝えるつもりがなかったからである。
 うっかり婚約者設定になってしまったことが何よりの痛手だが、先生の実家が、あの東雲グループを統括する東雲さん家だと知れたら、面倒なことになるのは必至だ。大物を逃がすまいと入籍を急かされても厄介だし、そんな大層な人やめておきなさいと言われても、”落ち着く先が見つかるまでのゆるりとしたルームシェア”という大目的が達成できない。

 何せうちは、東北地方のド田舎の兼業農家だ。公務員になるか、地元の銀行に就職することが最高のステータス。辺鄙な田舎過ぎて、普通科の高校に通うことさえ難しく、私は県内の進学校に通うために市街地にある親戚の家に頭を下げて下宿をお願いしたくらいだ。父は、私が地元の県立大学に進むものだと頭から信じていたため、全国模試で上位を取ろうが教師が力説しようが関東難関大学への進学は大反対であって、いずれは家庭に入る女がいい大学に行って勉強して何になるという時代錯誤の考えだったが、親戚連中が長女が帝信と聞いてほめそやすと途端手のひらを返して、入学を許可してくれた。だが、帰省のたびに就職は地元でしろと説教され、トンズラこいて大学院に居座り、さらにはイギリスに飛んだ瞬間に親不孝者と認定されたものである。
 母は、お姉ちゃんはすごいねぇ誰に似たんだかと暢気なものだが、頑固な父を説得するのも面倒だし、長男である弟が結局地元で就職し、妹は去年同窓会で再会した同級生と授かり婚を果たしたので、浮いた話が一つも出ない長女にかまけている暇がなくなったものと思われる。

 さて、このクソ田舎丸出しの実家に、東雲家の真実を伏せた状態で、呪物メガネ珍獣の先生を連れて挨拶に向かった場合、私の中で、主にふたつのパターンが想定された。

 【想定パターンⅠ:ストレートな反対】
 私「こちらが東雲先生で、ほら、かわいいでしょ」
 先生「アッアッ……」
 母「うぅわ……お姉ちゃん、そりゃ趣味は人それぞれだとお母さんも思うげどね。あんた、結婚すんなら、いまちっとマシな話ねがったの? ゴウくん(義弟)は一重だけどしゅーっとしてるし、郵便局の人よ」
 父「すこしもしゃべらんにの、そんなんで大学の先生だぁ? おめは父ちゃんの言うごと聞がねがら、こんなことになんだわ! 認めねぞ!」

 【想定パターンⅡ:いらぬ心配】
 私「こちらが東雲先生で、実はこうみえてすごい人なんだけど」
 先生「アッアッ……」
 母「お姉ちゃん……なんでこんな、この人と結婚しねとなんないくらい、そだに困ってんの? 立派な仕事もしてんのに生活できねの?」
 父「だがら女が勉強なんかしたって金稼げねぇっていったんだ! うぢさ戻ってこ! 隣のショウちゃんと結婚したらいいわ! ショウちゃん自分で稼いで新しいトラクター買ったんだぞ!」

 親の性格、矯正を諦めた偏見、私の育成歴、過去の傾向から鑑みて、こうなる可能性が非常に高い。
 それゆえ、彼の土台を活かして、見た目だけでもスマートで美形の大学准教授という状態にして引き合わせることができれば、可能な限りスムーズに現状を突破できると判断したのだ。
 ちょっと整えすぎてしまった気がするし、激変後の東雲先生は会う人会う人に仰天され、女子学生から急に声を掛けられ追い回されるものだから、半泣きで心理の助教室に逃げ込んでくるようになってしまって、申し訳ないことをしてしまったが、こうするより他なかった。

 そうこうするうちやってきた約束の日の早朝──。
 私たちを乗せた東北新幹線は定刻通りに東京を発ち、最寄りの駅で東雲先生が予約しておいてくれたレンタカーによいせと荷物を積み込むと、ここからは私が運転して一路実家へと向かう。
 私も東雲先生も、先週東雲家を訪れたときと服装は同じだ。
 先生は車内でかなり緊張した様子で、ぶつぶつとずっと独り言を繰り返しており、話しかけても上の空とくれば、ハンドルを握る私の手にも自然と力がこもる。
 冬が来ればここは長く雪に埋もれる。長閑すぎる大自然に囲まれた道を進み、久しぶりに訪れた赤いトタンの大屋根の実家にレンタカーを乗りつけると、恐ろしいことに、家族どころか親族までもが待ち構えていたようで、玄関先から似たような顔がぞろぞろと出てきた。なぜ。なんで。怖い。
 先生が緊張するからやめて!

「この度は、お目にかかる機会をいただけまして光栄です。東雲一蔵と申します。さくらさんと同じ帝信大学で民俗学を教えておる身で、歳は三十六になります。まずは、大事なお嬢さんとお付き合いさせていただいておきながら、ご挨拶が遅くなりましたことをお詫び申し上げます」

 ──誰……?
 両親と対面し、深く頭を下げた後、落ち着いた低い声音で告げた東雲先生に、唖然とする私を除いてその場にいた誰もが見惚れた。

「す、すみません。この挨拶だけ繰り返し練習してきたのですが、緊張していまして……お恥ずかしい限りです」

 続いて気恥ずかしそうに笑った柔らかな笑顔に、ふんわりと和やかな雰囲気が満ちる。
 しっかりした体つきと長い脚、日本人離れした整った顔立ちに知的で落ち着いた空気をまとう東雲先生は、一瞬にしてその場の全員の心を掌握した。飼い猫を抱いた母も乳児を抱いた妹夫婦も、弟も、それからなぜかいる叔母や叔父たちも、あらまぁお姉ちゃんいい人見つけたね、イケメンだぁ、何あんたいい服着てんでないの、奇麗になってまぁ都会の人だわ的なことを口々に私に囁き、肘でつついてきた。
 その間、先生は渋面の父と何事か話し込み、何度か頭を下げているのが見えた。

 手土産を渡したのちは、早めの昼を取るということになり、電話では聞いていたものの母と叔母たちが協力して郷土料理と家庭料理でもてなしてくれた。
 気合い入りすぎだろうと思ったが、先生は何でもおいしそうに食べて、方言がきつくて聞き取りにくいだろうに、無遠慮に話しかけてくる彼らの話に懸命に答え、何度も頷いては笑顔で相槌を打ってくれた。
 何も否定せず、私の育ってきた場所と育ててくれた人たちを、ただ受け入れてくれた。

「──大丈夫ですか、先生。無理して疲れてません?」

 庭を見せて欲しいといった東雲先生について表に出た私は、興味深くあたりに視線を向ける彼の背中に声をかけた。

「大丈夫ですよ」と振り返って先生は言う。「ご両親を前にすると緊張はしますが、ここでさくらさんが育ったと思うと、興味があって。だから無理はしていません」
「方言聞き取れてます?」
「はい。ご家族と話されてると、さくらさんもその……ふ、普段と違って、方言が」

 うげ……。

「……聞かなかったことにしてください」
「かわいらしかったです! とても!」
「言わないで。コンプレックスだったんです! 上京して、必死でイントネーション直したんですから!」
「なら、努力の成果ですね。さくらさんの話し方は聞き取りやすいし、耳に心地よいので」
「もう……もういいです。と、ともかく、ありがとうございました。先生が頑張ってくださったおかげで、同棲の話も何もどうぞどうぞって感じでスムーズでしたので、ミッション完了ですよ。父はもう少しごねるかと思ってましたけど、案外何も言わなかったし」
「とても心配されていたみたいでしたよ。さくらさんのこと」
「まぁ何ひとつ言うこと聞かない親不孝ですからね……」

 先生はメガネの奥で目を細めた。

「僕たち、そういうところは似てますね。だ、だから、先日のさくらさんを参考に、お父さんにはさくらさんがしっかりと自立した、僕の憧れの人だと伝えたんですよ。あなたの娘さんはすごい人なんですよって。でもひとりで頑張り過ぎるところがあるから、僕が誠心誠意できる限りのことをして、この先どんなことがあろうと、さくらさんの幸せを約束すると伝えたら、まずは様子を見てやると言って頂けました。よかったです」
「先生……」
「嘘じゃありませんよ。どんな形であろうと、僕は、──僕なりのやり方であなたの幸福追求をするつもりなんです。そうしたら、僕も幸せになれるから」

 悪戯っぽく微笑んだ東雲先生は、そこでやおら庭の隅に目を向けると、「ああっ、こ、こういうの。いいですね、屋敷神だ!」と止める間もなく昔から庭にある小さな祠に駆け寄っていった。

「中に狐の神像がありますね。さくらさん、さくらさん、この祠のことなんて呼んでました?」
「おりなりさん? 稲刈りの後と、年末には油揚げとかお寿司とかおいて、家族みんなで手を合わせるんですよ」
「そうなんですか。すばらしい。日常生活の中に信仰が馴染んでいる。きちんと掃除されて、ご両親がこのおうちを大事にされているのがよくわかります。家の敷地内で祀っているケースを屋敷神と言うんですが、屋敷神には、稲荷社が一番多くて、東雲の家にもあるんですよ。僕、こういう祠の造りや祀り方にも興味があるんですが、この家の祠は比較的新しいですから、さくらさんのお家は信心深いみたいだ。稲荷信仰自体は古いものですが、広まったのは江戸時代以降のことで、元来は五穀豊穣を司る農業神、時代が下がるにつれカバーされる範囲が広くなって商売繁盛から家内安全まで網羅してくれるマルチ神になっていって日本においてはメジャーな神様のひとつなんです。ただ、こういった人家の屋敷神としてあるケースは、民俗的稲荷信仰というもので、神道的な稲荷とはまた少し違って、土地そのものとの結びつきが非常に強い性格、が──すみません……僕、また聞かれてもいないことをペラペラと……」
「いいえ、面白いですよ。私、小さい頃は罰あたるからお稲荷さんに触るなってしょっちゅう言われてました。弟なんか、昔その辺でおしっこしたらおちんちん腫れたことがあって、おなりさんのバチが当たったんだって大騒ぎ」
「本当ですか! おもしろいですね、弟さんかご両親に、は、話聞けるかな」

 わくわくした様子の東雲に思わず頬が緩む。

「先生。そろそろここを出たほうがいいんじゃないですか? 予定していた時間、過ぎちゃいますから」
「あ、そ、そうですよね……あ、あの、本当にさくらさんも一緒に行ってしまっていいんですか? ここなら猫ちゃんもいますし、せっかくのご実家なのに」
「猫は惜しいですけど、このままここにいて、いろいろ突かれてボロが出るよりいいと思いますが」
「た、確かに……」
「それに、なんだか先生楽しそうなので。これから見に行く先も、先生の目を通して見るとただの観光地でもなくなりそうだし、私も興味あります。だから、連れていってください」

 実家への滞在は昼までとして、ここからそう遠くない場所にある湖へ向かうことが、今回先生のもう一つの目的だった。
 今回は仕事もあり急なことだったので、次回改めてゆっくりお話をする機会を頂きたいというようなことを、東雲先生はさも残念そうに言って、娘よりもイケメン大学准教授との別れが名残惜しい面々に礼を告げ、私たちは湖に向けて車を発進させた。


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