問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
「さくらさん、見てください! あれが、吊り橋です! 来週には外されてしまうんですよ」
いやあ冬季期間になる前に来られてよかった、と先生はいつになく快活な様子で言う。
山歩きができる格好を準備させてほしいと言われており、実家を出る前に余所行き一式から先生が準備してくれたジャンパーやら何やらに着替えさせてもらったが、湖周辺を散策するトレッキングコースで本当の山歩きをさせられるとは思いもよらなかった。フィールドワークに慣れた様子の先生は、私のペースを見ながらも、この湖に関する蘊蓄を終始楽しそうに解説してくれた。
小学校か何かの地域学習で私も習った覚えがあるが、この湖にはかつて火山噴火の影響で水害に遭った村がひとつ沈んでいる。地質学的調査も進められているそうだが、東雲先生もまた村に待つまわる話や、その伝わり方に興味がり、村の歴史を伝える資料館はもちろん、村に関する伝承や歴史的史跡、碑石などを自分の脚で歩いて見たかったらしい。
今日は取り急ぎ観光名所となっている湖周辺を眺めて回り、コース中盤で湖を渡るようにして掛かっている吊り橋を通って、石碑を見てホテルに向かうということだった。
「さくらさん、どうされました?」
「え……あ……」
普段と立場が逆転し、私は震える声でゆっくりと揺れる足元に視線を向ける。
「あの、私、こ……ここで、待ってたら、ダ、だめですか」
「もしかして、苦手ですか」
「す、すみません。私、別に高いところとか大丈夫なんですが、吊り橋を通ることは初めてで、なんか……見た感じダメそうで」
きっと眺めがいいことはわかるのだが、東雲先生がいる中ほどまで行こうにも、足が竦んで一歩も踏み出すことができない。幸い、時間帯のせいか周りに人はおらず、私が立ち尽くしても通行の妨げにはならなかった。
先生は青い顔をしているであろう私のもとへ、何事もない様子で戻ってくると、手を差し出す。
「手をつないでいても無理そうです? 怖いようならもう引き返して、ホテルのほうへいきましょう」
「え、や、で、でも。先生の見たいものが」
「いいんですよ。ここは僕がというより、さくらさんと一緒に観たかった場所なので」
小さく微笑んだ先生の手を私は掴んだ。
その顔はズルい。
「掴まって。大丈夫ですよ。僕がついていますから」
ぐらりとする浮遊感に緊張しながらも、先生にしがみつくような恰好で一歩ずつ進んでいく。眼下に広がる湖は澄んでいて、ちょうど木々が切れる合間から、紅葉と共に晩秋の青い空を映した湖面が一望できた。
「す、すごいですね。きれい」
「でしょう。写真では見たことがあったんですが、実際に自分の目で見ると、風も匂いも細かな光の加減も少しずつ変わって、言葉に尽くせないものがあります」
私を引き寄せる先生の腕の力が強くなる。
見上げると、切れ長の目が優しく穏やかに、どこか照れた色を乗せて私を見つめていた。
「ドキドキ、しますね。こういうの、吊り橋効果って言うんでしたっけ」
「あ、は、はい」
私は先生との距離が近すぎてドキドキしている気がする。
「あの、さくらさん」
「は」
「す……すぐに返事が欲しいわけではなくて、て、提案というか、よかったら考えてみて欲しいということ、なんですけど」
「な、なんですか」
不安定な吊り橋を渡る際の、緊張による心拍の変動を特別な感情に誤って帰属する──すなわち、勘違いすることを、錯誤帰属と言ったり、一般にもわかりやすく吊り橋効果と言ったりする。ただ、ただ、だからその、一九七四年に行われたダットンとアロンの吊り橋実験の内容を精査してみると、実験の対象者として選ばれた相手がランダムとは言い難かったり、恋愛感情を覚えたかどうかを検証する内容ではなかったという話でもあって、要するに、だから、私はドキドキして頭がぐるぐるしていた。
「誰ともするつもりがないようなことを言っていましたけど、ぼ……僕と、本当に結婚してくれませんか。さくらさんが、──好きです。あなたが好きで、もう、気持ちを抑えきれない」
「な、え? け、結婚?」
「はい。ルームシェアのための嘘ではなく、ちゃんと、ほ、本当に結婚してください! 僕の何もかも、もてるものすべてさくらさんに差し上げます。だから、あなたの人生に僕が、僕が夫として関わることを許してください! お願いします!」
東雲先生は唇を結んで耳まで赤くする。
いや、そんな言っちゃったみたいな顔されても。
「な、なんで」
「なんでって、僕、ずっと好きでした。わかってましたよね? でも、僕なんかがさくらさんとお付き合いできるわけがないと思っていて、それなのに、は、図らずもこう、一緒に住んだり、どんどん関係が深くなっていっているというか。あなたが、僕の存在を躊躇いなく受け入れてくれるから、同じ空間にいられたらいいと思っていただけの気持ちが、止めようもなく欲深くなって」
「や、あの、そ、そういうなんでではなくて、なんで今それ言うのかってほうの意味」
「……ロ、ロマンチックな場面で言ったつもり、ですが」
「ち、違うでしょ。すごい不安定な場面で言ってるし、私、ここで断ったら落とされるかもしれないし、要するに脅しじゃないですか!」
「そんなこと絶対にしません!」
「は、放してください」
「いやです。落ちますよ」
「脅してんじゃんホラァア!」
「だ、だから、落としたくないから放したくないんです!」
背中に拳銃を突き付けられているくらいの雰囲気で、お互い緊張しながら吊り橋を戻り、私はドカドカうるさい心臓をなだめながら、駐車場までのトレッキングコースを足早に引き返した。
「さくらさん」
追いかけて来る東雲先生が後ろから呼びかける。
無視して駐車場に辿り着き、ここまで乗り付けたレンタカーのドアに手を掛けたところで、ドアに押し付けられるように先生の腕に囲われた。
「……さくらさん、ごめん。急にこんなこと言って、本当にすみません。でも、伝えておきたかった。僕なんかとルームシェアして、そのためなら婚約者のふりしてもいいとまで言ってくださるくらいです。さくらさん、きっと僕のこと、口を利く変わった生き物程度に見ていますよね」
「そ、そんなことは」
「僕だって男ですよ」
振り返った途端、唇を塞がれた。
触れ合っていたものが離れて、彼の指先が私のこめかみから耳の縁を辿っていく。
「キスの仕方、あってますか。こんな歳にもなって、はじめてだから」
「せ、先生……」
「ずっとこうしたかった。あなたのことばかり考えてる。このまま本当に結婚してほしいけど、やっぱり僕の一方的な感情を押し付けるのはよくないですね。困らせてしまって、すみません。ならせめて、男と一緒にいると認識を改めていただいて、僕のこと警戒してください。……僕はさくらさんが狂おしいほど好きだから、あまり無防備でいられるとおかしくなりそうだ」
ぱっと身を放して距離を取ると、東雲先生は「僕が運転していいですか」とボタンを押してドアロックを解除した。
「あ、あの!」
顔を上げた東雲先生と目が合うと、私は開きかけた口を一度ためらいで閉じてからまた開いた。
「わ、私……私、東雲先生を変わっているとか、言えないんです。恋愛感情が、よくわからなくて。猫とか生き物を好きだなって思う感情と、人間の、特に男性を好きだと思う気持ちの区別が昔から、できなくて、だ、だから、今まで恋愛してもうまく行かなくて……もう誰とも付き合う気も、結婚するつもりもなかったんです」
「さくらさん……そう、だったんですか」
「で、でもその、失礼ですが東雲先生のことは、すごくかわいいと思ってしまうときが、あって、ですね……笑顔とか、喜んでいるところか、楽しそうなときとか、かわいくて。たぶん、私、いま東雲先生が生き物の中で一番かわいいです。ぎゅってしたいけど、でもいまここで、猫がサービスしてきたら同じようにぎゅっとしたいと思ってしまう。猫は特別大好きでかわいくて、でも先生も同じくらい、かわいいときあって。さっきも、今も、胸が苦しいくらいドキドキしているんですけど、でもこれがいわゆる恋愛のときめきなのか、私にはわからないんです。あんな緊張する状態で言われたから、勘違いしてるかもしれないでしょう」
「勘違いって」
「よくわからないのに、無責任に結婚なんてできません。恋愛の好きって何ですか? 性愛の対象として見ることができるかどうかですか? 私、東雲先生とだってセックスできますよ。でも、そういうことできれば好きってことでいいのかわからない。特別なことじゃないんですか? 好きな人って特別だっていうのは少女漫画の見すぎ? だって、好きだから私がイギリスから戻ってくるまで待ってるって言ってたはずの彼は、一年も経たないうちに全然知らない人と子供作って結婚したんですよ。そんで、その話聞いて、僕はさくらのこと好きだよって近寄ってきたイタリア人の男は、ただアジア人の女とセックスしたいだけでした。一回寝たら、好きだけどガールフレンドにはできないからセフレでどうかって言われた。それって、私のこと好きでもなんでもないじゃないですか! 先生はそれとどう違うんですか」
視界を東雲先生の胸で埋められ、かき抱かれた頭をジャンパーに押し付けられた。
「すみません、僕がつらいことを思い出させてしまった。もっとゆっくり、お話聞いておけばよかったですね」
「……私、きっと人間的に欠陥があるんです。恋人だった男より猫のほうが断然好きだったし、でも猫とセックスしたいわけじゃなくて、嫌いじゃないのに好きかどうかわからないんです……みんな自然とわかることが、東雲先生だってわかってるのに、私はわからない。ごめんなさい、応えられなくて……ごめんなさい」
「無理に考えようとしなくて大丈夫ですよ。謝らないで。僕だって、さくらさんと出会って初めて知った感情だから」
髪を撫でる大きな手が心地よい。
「さくらさん、ふたつ質問があって。もし答えられるようなら、答えてほしいんですが。僕、まだかわいいですか?」
「……はい」
「どの辺がとか聞いてもいい?」
「全部」
「わ……じゃあ、その、もうひとつ。さっき、キスしたの、嫌でした?」
考えて、嫌ではなかったので首を振った。むしろ──。
「関連しての質問なんですが」
「ふたつじゃなくないですか」
「す、すみませ……」
「いいです。なんですか」
「もし、キスしてきたの僕じゃなくて、来栖先生だったらどうですか?」
「どうして来栖先生が?」
「なんとなく、思い浮かんだので。同僚という立ち位置は同じですし、歳もだいたい似てるのと、彼、さくらさんに言いよっているイメージがあって」
脳裏に来栖先生の能天気な笑顔が思い浮かんで、やたら腹が立つ。
「……すごく嫌です。それははっきりわかる」
露骨に顔に出ていたのか、東雲先生は苦く笑って、腕の力を緩めると私を覗き込んだ。
「僕となら、またしてみてもいいですか?」
誘われるように背を伸ばし、踵が浮く。先程より長く、唇を食むように重ねあったところに熱を感じる。
「僕も生き物の中で、さくらさんが一番かわいいと思っています。いまは、それでいいことにしましょう」