問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
(3)カリギュラ効果
ぼうっとしながら、言葉少なにたどり着いた今夜の宿で、待ち構えていたようにさっそくトラブルが発生した。
旅にトラブルは付き物だ。
「ダ、ダブル!?」
「申し訳ありません。実は本日宿泊のお客様にお部屋の取り違えが多数ございまして、ご予約のお電話頂いた際にこちらで入力しているシステムに不具合があったことに気づいておりませんで、誠に申し訳ございません。できる限りご希望に沿う形をとらせて頂いておるものの、現状、お泊まり頂けるお部屋がもう……」
チェックインのため、荷物を手に立ち寄ったフロントで、冷や汗を流しながら係の人が言うには、提供できる部屋が手違いによりダブル一室しか残されていないというのだ。
小綺麗だがそう大きくはないホテルで、どうも冬季期間のため諸々規制が入る直前の土日とあってこの辺りはどこも混みあっているという。
「ど、どうしましょう、さくらさん。僕、ちゃんとツインを予約したんですが」
「いやいやいやツインでも間違っとりますよ!」
東雲先生はそこで初めて気がついたのか、メガネの奥に驚愕を浮かべた。実家への挨拶を兼ねていたこともあり、恋人設定に引っ張られたらしい。
「……すみませんすみません、申し訳ない。あ、あの僕、床で寝るので」
「何言ってるんです、ダメですよ」
「で、でも、じゃあ僕、車で」
「この辺の気温舐めてんですか?」
「すみませ……」
今からキャンセルして実家に舞い戻るには厳しく、夕食の時間も迫っている。
とりあえず荷物だけでも置きに行って、部屋を覗いてみようということになった。実はそこそこいい大きさのソファがあるとか──などという淡い期待は打ち砕かれ、部屋がダブルベッドでパンパンで床で寝られるようなスペースすらない。
「……諦めて端と端で寝ましょう。体痛めたり、風邪ひいたりするよりいいですよ」
「……さくらさんて、なんでそんな思い切りいいんですか。警戒してって言ったばかりじゃないですか」
「だって他に方法あります? 立って寝るの? 明日は資料館とか神社を巡って、駅まで運転して帰るんですから、少なくとも東雲先生はベッドでちゃんと寝た方がいいですよ。そもそも、車の中であんなにキスしてないでもっと早くチェックインしてたら部屋あったかもしれないじゃん! 私も先生も同罪なの!」
東雲先生は完全降伏で土下座した。
「もし僕が、さくらさんに、キ……キス以上のことをしようとしたら、スマホの角で殴りつけるって約束してもらってもいいですか」
「……はい」
「さくらさんを傷つけるようなことは、絶対しませんので。同じ部屋……ハァ、こんな、狭い部屋の、お、同じベッド……同じ、ベ、ベッドに大好きなさくらさんとハァッ、ハァ」
「……今殴ったほうがいいですか……」
窓から遠くの木々を眺めて般若心経を唱えることで平静を取り戻した東雲先生とロビーまで降り、お互い何となくアルコールは飲まないほうがいい気がして静かな夕食をとった。
ユニットバスにお湯を溜めて、私が先にお風呂をいただき、その間、東雲先生はよくわからないがめちゃくちゃ筋トレに励んでいた。
聞けば、松坂さんから私がマッチョな男性が好みだという話を入手し、デスクワークと外食ばかりの毎日で弛んだ己の腹回りに気づき、一年前からトレーニングを重ねてきたのだそうだ。別段私にそんな好みはない。焼肉屋のお食事券欲しさに担がれたわけだが、筋肉がつくと体力がついて疲れにくくなり、執筆も不思議と進んで今ではルーティンとして定着しているという。
「加えていまは、雑念を払いたくて……いつもよりセットを多めに」
「は、はぁ……」
「……あの、パ、パジャマ……大きくて、その、か、かわいい、ですね。さくらさんが、かわいいんですけど」
「え……」
「すいません止まらなくなりそうなので、僕も失礼してお、お風呂を頂いてきます!」
このホテルのアメニティであるパジャマは、しっかりした生地で思いのほか着心地がいい。眼に異様な光を燻らせながらバスルームに消えていた東雲先生の言葉の通り、ボタン四つでとめる上着もズボンも緩かったが、フリーサイズのパジャマなどこんなものだろう。
──か、かわいい、ですね。
──僕も生き物の中で、さくらさんが一番かわいいと思っています。いまは、それでいいことにしましょう。
東雲先生の言葉を思い出し、急に顔が熱くなる。
小さなテーブル脇で猛然とスキンケアをして、洗い髪を乾かし終わると、知らず右の指先が唇に触れていた。
先生とキスしてしまった。
嫌じゃなかったし、私からも求めてしまった。先生とのキスは不思議と気持ちがよくて、頬を撫でられると安心して身を任せることができた。
はにかんで、目尻に嬉しさを滲ませる東雲先生がかわいくてしかたなかった。
好きだと思う。
だが、私には彼を好ましく思うこの感情が、それこそ結婚したいと思うくらいの恋愛感情なのかがわからない。焦がれるような気持ちではなく、先生と一緒に生活していて、伏した目元の色っぽさや筋の浮いた大きな手にふいにどきりとする時はあるけれど、それ以外私の心は先生の隣にいても春の野原か凪いだ海かくらいに穏やかだ。
好きな人ならたくさんいる。友達も、お世話になっている人たちも、学生たちもかわいいし、家族も大切だし好きで、変わった生き物も好きで、猫は大好きだ。
なのに、恋愛となった途端、この人たちと目の前の相手への気持ちの区別を求められる。きっと、同じ好きではないはずだから、と。
──え? 同じにしか思えないよ?
小中学生の時は、同級生の友だちとかっこいいアイドルに夢中だった。みんなの言う好きと私の好きにそう大きな違いはなかったはずだ。周りの男の子が好きという子もいたが、へーそうなんだと思ったくらいで、高校は親戚の家に下宿をしていた肩身の狭さから友達と遊び歩くようなこともほとんどなく、放課後も休日もガリ勉で過ごした。
上京して、大学生となると周囲が一変したのだ。
恋愛を謳歌するのが当たり前で、彼氏いるのとか彼女いるのとか、そんな会話が前提となって、誰かと付き合ったことがないと打ち明けるともったいないと言われた。
『さくら、かわいいのにもったいないよ。恋人なんてすぐ出来るって』
すると本当にそれから間をおかず、仲良くなった同級生の男の子から告白された。
中高生の時も告白された経験はあったが、わざわざこんなことしなくても友達なんだからそれで良くないか、と尋ね返すと、傷ついたみたいな顔をされて私が悪者になった覚えがある。
大学生になっても同じことを繰り返すのはきっと良くない。もう子供ではないのだし、何事も経験で、嫌いじゃなければ付き合ってみるのもいいかもしれないと考え、彼の告白を受け入れたのだ。
でも、失敗だった。
仲良くしていたはずだが、キスされた瞬間、その男の顔が気持ち悪いと思ってしまい、その先には進めずに別れた。手馴れた様子のサークルの先輩とも付き合うことになったが、男女交際の上で性愛に発展できないことは許されないようで、付き合ってんだからいいだろとか、ちゃんとやってくんないと別れるとか言われ、色々やらせるだけやらせたくせに「その辺の女より顔かわいいし尽くしてくれるけど、なんか、おまえつまんねーわ。おかんじゃねーんだからさ」という理解できない理由で別れた。
もしかしたら性的嗜好が違うのかと悩んで同性ならどうかと考えてみたが、好ましく思う相手の子とどれだけ親しくなっても性愛の欲求を伴わない。これはかなり楽だったが、要するにただの友人であると気づいた。
もしや恋愛に向いてないかもと思い始めて、言い寄られても交わすことを覚え、勉強も研究も楽しかったし学生時代は普通に友だちと満喫した。
二十代も半ばになって、周りの知り合いが軒並み就職してしまうと彼らは落ち着いた恋愛をして結婚したり、子供が産まれたりするケースも出始める。友人同士の結婚式で再会した学部生時代の同期は大手のメーカーに勤めており、博士課程でいまだキャンパスにいた当時の私からすると大人の男に思えた。スーツが似合って、溌剌として、金銭的余裕もあって、話題が豊富で、誘われて何度か会ううちに酒に酔った勢いでセックスしてしまった。
好きだ好きだと言われて付き合うことになり、正直猫のほうが圧倒的にかわいくて好きだと思っていたが、当時友だちと飲む度に恋人がいないという話題を出されることが苦痛で、それから逃れられるのならばありがたいと考えた。嫌いではないのだし。結婚してもおかしくない年頃なのだし。
きっと付き合う中で、気持ちも育まれるはず。
彼との触れ合いは決して気持ちいいとは思えなかったが、体はそれなりに反応し彼はいつも悦んでいたから求められれば応じて、半年ほど交際した頃に渡英の予定があることを伝えた。リサーチグループに加われば、そう簡単に帰国できない。まずは一年の予定でいると伝えると、彼は私のことが好きだから一年くらい待てると言ってくれた。相変わらず猫のほうが好きだったけど、猫を飼うことは出来ないし、人間で我慢するのが大人だと思い、まとまった休みが取れる時は必ず帰国すると約束してイギリスに渡ったものの、次第に連絡しても仕事が忙しいと返信がなくなり、そうこうするうち彼からこの度子供を授かって結婚することになったと報告がきたわけだ。
さくらのこと好きだったけど、待てなくて、こんなことになってごめんとネット通話で謝罪を受けた。
びっくりした。
私のことが好きだったら、他の女と避妊せずセックスしなくなーい?
恋愛感情がわからない。私にはきっと欠陥があって、致命的に向いていないのだとようやく気がついた。
相手が特別好きかどうかもよくわからないなら、恋愛も結婚もしないほうが裏切られないし傷つかなくて済む。
東雲先生から好意に似たものを寄せられていると気づいていたが、彼は奥手で、近づくと泡を食って逃げる珍獣だったから気楽に思ってしまっていた。
キモ……と思っていたはずなのに、彼がまごついて困っていると見過ごせなくて、世話をしてしまった。彼が緊張に何かを握りしめていると手を取ってやりたくなる。喜んでもらえると嬉しい。楽しそうな顔をみると嬉しい。図体のでかい年上の男なのに、かわいいと思う。
けれど、これを異性としての恋愛感情と帰属していいのだろうか。
「はぁ……」
「だ、大丈夫ですか?」
長々溜息を吐き出したところで、バスルームのドアが開いてパジャマ姿の東雲先生が顔を出した。
濡れた髪がかかる目元が私の様子を心配そうに窺っている。
「大丈夫です。すみません、朝からずっと移動したり色々あったので」
「疲れましたよね」
立ち尽くす東雲先生を見上げ「座らないんですか?」と尋ねると、先生はへどもどしながら距離をとってベッドの端に腰を下ろした。
「……先生」
「なっ、なんでしょう」
「髪、濡れてますよ」
「アッ、ハッ、はい」
返事をするや否や、首にかけていたタオルで豪快に頭を拭いて、手ぐしでガサガサと指を通す。
「……先生、よもや終わりのおつもりで?」
「ダ、ダメですか」
「リョウちゃんがキレますよ。せっかくの色男、台無しにするつもりかって。世界が色褪せるらしいですよ」
「えぇ……」
困惑する先生を笑って、片付け途中だったドライヤーを手に取ると自分が腰掛けていた場所を明け渡した。
「乾かしますから、ここ座ってください」
「か、乾かすって、さくらさんが?」
「はい。先生の髪、短いからすぐです」
「そんな! 今日一日の幸福量が多すぎて、し、死んでしまいます」
「そんなことで人間は死ねないんだなぁ」
強引に促して座ってもらい、小さく体を丸めようとする先生を笑いながらドライヤーをかける。思った通りすぐに乾いてしまった。
「はい。おしまいです」
「あ、ありがとう、ございました。人にやってもらうって、気持ちいいですね」
わかります、と言うと東雲先生は背後にいた私を振り返って、
「……今度、さくらさんの髪、僕が乾かしてもいいですか?」
と見上げる。
普段私が見上げてばかりだから新鮮だった。
「ちゃんとやってくれます?」
「もちろん」
「じゃあ、お願いします」
はにかんだ視線と目が合うと気恥しさを感じるが、同時に自然と近づきたくなる。
彼の長い指が私の顎に触れ、身体が引き寄せられそうになったところで、先生ははっとして慌てた様子で顔を逸らした。
「ああ、あの、も、もう休みますか? まだ少し早い時間ですし、よかったら、あの、映画でも」
「は、はい、いいですね」
壁に備え付けられたテレビに、ネット配信サービスが入っていた。コンテンツのトップメニューに最近話題になっていたヒューマンホラーの映画があったので、手っ取り早くそれを観ることになった。
のだが──
東雲先生は映画の中盤から、ほぼずっと私にしがみついていた。
「……そんな怖いですか?」
「す、すいませ……情けない」
「自分でもホラー書いてるでしょうに。専門も妖怪なんだからホラーみたいなもんでしょうに」
「よ、妖怪はおもしろい奴なんです。滑稽だし洒落が効いてて。でもこういう、人間が怖い系は……悪意を感じるというか、自分の身に降りかかったときを想像してしまって」
「じゃ、なんでこれに」
「さくらさん、ホラー好きみたいだし、話題のやつなので観たいのかと……観たく、なかった?」
思わず吹き出して、私はリモコンを操作してテレビの電源を落とした。
「面白かったですけど、先生も一緒に楽しめるのを観たかったですね。今日の吊り橋からの景色と同じです。──もう寝ましょうか」
「あ……はい、そうですね」
上掛けに脚を入れ、私は壁側で先生は窓側となった。外したメガネをベッドサイドにおいていそいそと潜り込む東雲先生はだいぶ際に寄っているように見える。
「端に寄り過ぎて落ちないでくださいよ。私が壁につけば、結構スペースありますから」
「は、はい、さくらさん、ス、スマホ準備してあります?」
「凶器?」
「うん」
「用意しておけっておかしくないですか。襲いますって言ってるようなものですよ」
「ち! 違います! もしも! 備え! ……ぼ、僕は、そういう、ことは衝動や勢いじゃなくて、お互いの気持ちが確かで明らかな合意のもとがいいと思って、い、いるので」
「ピュアですね」
「……そりゃ、三十六の大魔法使いですからね。拗らせまくってますよ」
そう言って鼻の先まで上掛けに潜り込んだ先生にほほ笑んで、私もまた枕に頭を預けた。
「おやすみなさい、先生」
「……おやすみなさい、さくらさん。──あ、あの、少しだけ触れても、か、構いませんか」
「え……む、胸とか揉ませろという意味?」
「違う違う違う! なんでそうなるんですか! か、髪です、髪というか耳というか、頬? と、ともかくもその辺のことです!」
「あ、ああ、すみませんどうぞ」
「僕が言うのもなんですけど、さくらさんて、あまりいい男性とお付き合いされていたわけじゃなさそうですね」
伸ばされた先生の指の背が頬を撫で、耳の縁を掠めていく。
「……こんなに、かわいい人を大事にしないなんて考えられない」
輪郭をなぞり伝い降りた太い親指の腹が、私の唇をそっと撫でた。
「おやすみなさい」
キスしたいなんて思ったのは初めてだった。
今すればきっと何もかもなし崩しになる。禁じられると余計にその行為が魅力的に思えて、私はもそもそと壁の方を向いて、唇を噛んで強く瞼を閉じた。