問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。

 *

 緊張して眠れないかと思えば、疲れがあったのか、いつの間にかすっかり深く眠ってしまったらしい。
 目が覚めると見慣れないロールカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。

 ──そうだ、先生と実家に行って、湖畔のホテルに……。

 何だかすごく寝心地が良かった。いつも畳に布団だが、やはりベッドもいいものだ。ぼんやりする思考に浸りながら、私はもう一度目を閉じて腕に抱いた柔らかな髪を撫でた。

 ……え?

 ぎょっとして目を開け少し視線を下げると、東雲先生の黒い頭があった。私は先生を抱いていて、先生は私を抱きしめていて、何だったら私のパジャマは役割を放棄したのかガバガバの、胸がほぼ丸見えの状態だった。
 下着はどこに行った。
 先生は私の胸に顔を突っ込んで、安らかに眠っている。強ばった体で緊張が伝わったのか、東雲先生は形のいい眉をしかめて身動ぎをすると、私を枕のように抱き直して再び胸に頬を擦り寄せた。
 唇が肌に触れる。すると、先生はややあって口を開け、あろうことかあむあむと食いつき始めた。

「せ……!」
「……おーきい、だいふくですねぇ、さくらさ……」

 それは大福じゃない!
 まずい所を口に含まれ、触れた舌にびくんと身を固くした瞬間、長いまつ毛の先を震わせて、先生は目を覚ました。目を開けたものの、そこに広がる薄橙の光景が何なのか、すぐには理解できないようだった。
 そりゃそうだろう。夢の中では大福を食べていたはずなのだ。

「せ……せんせ……」

 軽く噛み付いたまま、ゆっくり視線を上げた先生の薄茶の瞳と目が合った。
 たっぷり二秒ほどの間があって、途端、東雲先生は慌てふためき悲鳴と共にベッドから転がり落ちた。

「す、すみません違うんです! 違わないけど違います!」
「何がどう違うって言うんですか!」

 私は壁際に飛び退って肌蹴たパジャマの前を押さえつけながら、先生を睨みつけた。

「ち! ちが、さくらさん、自分で脱いだじゃないですか!」
「は?」
「夜中に、急に起き上がって暑いって言って、脱いだの……覚えて、ないんですか?」

 ちらりと横を見れば、ベッドの上にブラジャーが無造作に置かれていた。おまえ、ここにいたのかと思うと同時に、確かに妙に暑かった記憶が蘇り、布団を蹴り上げ、上を脱いだような……。

「さ、さくらさん、すごく寝ぼけていて、パジャマはなんとか着てくれたんですけど、ボ、ボタン閉めてくれなくて、さすがにマズいので、ぼ、僕がひとつだけなんとか……」
「ご、ごめんなさ……」
「ボタン閉めようとしているうちに、さ……さくらさん、抱きついてきて、あ、あんまり柔らかくてふわふわでいい匂いで、こ、興奮し過ぎて……たぶん気絶を」
「ごめんなさいごめんなさい! 痴女じゃないんです!」
「わ、わかってます! ほんと変に暑かった時があって、そこはむしろ空調というか天の配剤に感謝と言いますか、い、いやち、違います! 僕のほうこそよくわかりませんが、寝ぼけて胸を、は、──食むなどという破廉恥極まりない行為をしてしまい申し訳ありません! きっと僕の中の鬱屈した疚しい気持ちが無意識に」
「大福って、寝言言ってました」

 部屋が途端しんとした。

「大福でもなんでも、さくらさんのおっ──、おっぱ……言えない! とにかく、キス以上のことをしてしまったのは事実ですから、あのっ! 今すぐ角で殴打!」
「しませんよ! 悪いの私だし!」
「いいんです……こんなふわふわでもちもちで幸せな朝を迎えられたのですから、人生に悔いはありません。どうぞ一思いに」
「できるか! 人生にもっとしがみついて! と、ともかく、このことはおあいこというか、そんな感じで忘れて頂けると助かります。誰かと一緒に寝て、こんなやらかすこと、ないんですよ。だから私、きっとどうかしていて、私こそ疚しかったのかもだし……」
「さくらさん……」
「せ、先生も、いつまでもそんなところにいないで立ってください」
「ひぇっ、い、いやそんなことできません!」
「もしかして、落ちた拍子にどこか痛めてたりとか」
「しないです、してない大丈夫。してないですけど、今は少し立ち上がるには支障があるというか、たっているので立てないというか……さくらさんの白い肩が見えて……」

 あ。

「……わ、私、先に洗面所お借りしますね」
「ど、どうぞ」

 先生が世界の恒久的平和について思いを馳せている間に身支度を整え、妙に仏のような穏やかな顔つきの先生と共に朝食をとってホテルを出た。
 東雲先生が見て回りたかった水没した神社や資料館は興味深かく、何事かぶつぶつ呟きながらメモを撮ったり写真を撮ったり忙しい先生の後ろをついてまわるのも悪くなかった。
 先生のそばは居心地がいい。
 恋愛感情として好きかどうかわからなくても、それは確かだとわかる。

 考えなくていい、いまは答えを出さなくていい。
 そう言ってくれる東雲先生の優しさに付け込むことは罪悪感を伴った。

 帰りの新感線では、ふたりとも気づけば肩を寄せあって眠りこけていて、私も彼も、特に昨日の出来事も今朝のことも口にせず、普段通りで、でもなんとなく今までよりは近くにいる気がする。
 はっきりしない曖昧な関係に甘えている。
 これにもまた私はひどい自己嫌悪と罪悪感を覚えた。

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