問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。

 *

 実家を訪れてからあっという間にひと月が経ち、あれ以来キスを交わすようなこともなく、年末に向けては学生指導に忙しくなることもあって、お互いバタバタしながらも穏やかな毎日を過ごしていた。

「──あのぉ! こちらにお茶ご用意しておきますから、休憩なさってくださいね」
「ああいや、奥さん、どうもすみませんねえ。気ぃ使ってもらって」

 高い脚立に登り松葉の剪定に勤しむシルバー人材センターのお爺さんたち用に温かいお茶を淹れ、縁側から声をかけると日に焼けた顔でそんなことを言われた。三ヶ月ごとに庭木の手入れをお願いしているそうで、彼らは別人のようになった先生に驚き、私の存在を気づくと急に訳知り顔になったわけだ。

「奥さんじゃありませんよ」
「まだ、なぁ。俺たちびっくりしちまったよ」
「で、先生は?」
「今ちょっと買い忘れたものお使いに行ってもらってて」
「なんだ、先生すっかり尻に敷かれてんじゃねえか」
「そういう家のほうか上手くいくだろ、あの先生だしよ」

 曖昧に笑って、改めてお茶を勧めると、私自身は掃除機を手に二階の階段を上がる。今まで掃除は一階だけだったが、このところは時々上がらせてもらって、家中ぐるっと掃除機を掛けるようになった。

 換気のために廊下や寝室の窓を開け、不在の家主の作業途中のデスク周りは避けて年季が入った掃除機を動かす。
 ここに住むなら、この掃除機と洗濯機は買い替えたいものだ。
 本が積まれた短い廊下に出たところで、私はふと、突き当たりにある納戸の鍵が開いていることに気がついた。
 何が入っているのか知らないが、ここはいつも南京錠が掛けられている。
 家の造りからして、おそらく大きさは一間。座布団や布団あたりをしまっておくための場所だが、鍵を掛けるという行為がずっと気になっていた。
 実はここも本棚になっていて、希少な書物が入っているとか。東雲先生ならばあり得る話だ。
 他人の家という躊躇いがあったものの、誘われるように細い把手に手を伸ばす。

 軽い音でベニアの戸が開くと、ぱっと中で灯りが点った。上下に別れた納戸の上段には、穏やかな灯りに照らされて、書き初め用の半紙に掲げられた墨文字が燦然として目を惹く。

 『三池さくら様』

 ──なぜ私の名前が。
 独特なこの筆の運びには見覚えがあった。東雲先生の筆跡だ。でかでか書かれた名前の横には、私、私、私、と様々な三池さくらの写真が所狭しと貼り付けられ、正面におかれた三方の上にまるで経典のごとく数冊の冊子──これは私の書いた論文だ、それが掲げられている。
 祭壇だ。これはたぶん、なんらかの祭壇。
 三方の周りには、チャック付きの透明ビニール袋に入れられた、無くしたと思っていたハンカチや、よく分からないけどしわくちゃの購買のレシート、捨てたはずの先生への生活上の書き置きやメモの数々。そして、自転車のサドルが置かれていた。

 ──そういえば、東雲先生って、こういうところあったな……。

 体温が急激に下がっていく。血潮が音を立てて引いていく。
 最近見た目も言動もまともっぽくなったせいで忘れかけていたが、盗撮されたと思しき無数の写真から、一年以上付き纏われてきたという動かぬ事実を思い出した。

「あ、さくらさん、こんなところにいたんですね。下で声掛けたんですけど返事がなくて、買ってきた牛乳、冷蔵庫に入れておきまし……た……」

 振り返った先にいた先生は、階段を上がりきったところで足を止めた。顔色が一瞬で変わった。

「そ、そこ……か、鍵」
「開いていましたよ」
「え、開い、あっ朝、拝んでる途中で声掛けられて忘れた」
「拝む?」
「や……あ、あの、し、執筆に詰まったとき、気持ちを落ち着かせる場所というか、お、思い出が」

 へえ、とまるで感情を伴わぬ声音が廊下にこぼれ落ちた。

「さ、さくらさん、僕は──」
「このサドルは?」
「サ……ドル」
「半年ちょっと前かな。私、学校への通勤に使ってた自転車のサドル盗まれたことがあったんです。もしかして、あれも東雲先生の仕業なんですか? 先生でしたか」
「す、みません……さくらさんの身近なものが、ほ、ほしくて」
「代わりに封筒に入った三万円が突っ込まれていましたが、それは?」
「サドル無かったら自転車乗れなくなるので、新しいもの買って頂こうと……で、でもさくらさん自転車通勤止めちゃって」
「気持ち悪いから止めましたよ。そりゃそうでしょ。誰に盗られたのかもわからないし、突っ込んであったお金で、ラッキー、これで新しい自転車買おうなんて考えるような能天気じゃありません。警察に被害届出して、お金は拾得物扱いにして、調書作るのにものすごい時間かかったんですから」
「ご、ごめんなさい」
「ごめんで済むかッ! 盗撮も窃盗も犯罪だし! 第一、私は! 偶像崇拝禁止です!」

 衝撃に口をはくはく動かすばかりの東雲先生の向こう、開けた窓から庭木の手入れをするお爺さんたちが「奥さぁん」と呼ぶ声がした。

「私、先生の奥さんじゃないし、このまま奥さんになるつもりもありませんから!」


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