問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。

五章 ルービンの恋愛尺度


 (1) 好意感情と恋愛感情


 木曜日。
 学食横のカフェスペースの端でランチプレートをつつきながら、院生の松坂さんはショートカットの毛先を細かに揺らして笑っていた。

「──まさかそんな面白いことになってたとは知らなかった。何でもっと早く教えてくんなかったんスか、水臭いなぁ」
「焼肉券欲しさに人のこと売る後輩に、余計なこと言いたくなかったに決まってんでしょ」

 私は思い切って松坂さんに、東雲先生の家に間借りしていることや、色々あって婚約者設定になってしまったこと、そしてつい先日自分の祭壇を見つけてしまったことを打ち明けた。
 祭壇の盗撮写真の中には不思議といくつか見覚えのあるものがあり、出処が彼女ではないかと思ったためだ。

「とにかく、これ以上あの人に写真もデータも情報も横流しするのはやめて」
「はーい、わかりました。いいカモだったんスけどねぇ、あのセンセ」
「カモるな」
「サーセン。まぁあたしの出番もいらなくなりそうな気配だったんで、潮時だろうなとは思ってたんスよ」
「何それ」
「あれぇ違った? んで、結局まだ仲直りしてないんスか?」

 ちらりと窺う彼女の視線に思わず目が泳ぐ。
 あの日以来、私は東雲先生を避け続けてしまっていた。自分が祭壇に祀りあげられていたこともわけがわからなかったし、本人が日常的に横にいるのに仕事に詰まって拝むのが祭壇というのが何より理解出来ず、ずらりと並んだ蒐集物にゾッとするものを感じて、東雲先生と顔を合わせられなかった。
 夜は必要のない残業や深夜まで開いているファミレスで時間を潰して出来るだけ遅く帰り、朝も早く出るか先生が出勤したのを見計らってから動き出す。やりとりは必要最低限のメッセージのみ。食事は冷蔵庫の作り置きを食べてもらって構わないと連絡しておいたが、覗いてもあまり減る様子がなくて、大変自分勝手な話だがそれも何だか腹が立った。先生も何やら作家業のほうで急に立て込んでしまったらしく、ろくに言葉を交わすこともないまま今日で五日目。

「……だって、普通に考えて、数々の犯罪の証拠が出てきたのに、わーすごーい知ってましたけどやっぱりストーカーだったんですねーじゃこれは水に流しますかーって出来る?」
「ムリっスキモいし」
「でしょ?」
「でも、話聞いてるかぎり、三池センセ、あちらさんに弁明の機会与えてませんよね? 完全シャットアウト」
「……べ、弁明って」
「あたしの知る三池センセってのはやさしー先生なんで、レポートの提出期限を大幅に過ぎた学生であっても、どうして遅れたのか必ず理由言わせるじゃないスか。どんなくだらん言い訳でも必ず。それ聞いた上で単位落とすでしょ?」
「それ優しいかい? あと、成績評価の基準はレポートだけじゃないからね」
「東雲センセに理由言わせないのはなんでなんスか?」
「理由なら聞いたよ。気持ちを落ち着けるための場所だとかなんとか」
「そうじゃなくて、なんでそこまでするのかってほう。祭壇なんてドン引きだけど、どれだけ三池センセに執着してるとか、好きだとか、愛してるーとか聞いたら許しちゃうから聞きたくないんじゃないんスか?」
「そんなわけ……ないでしょ」
「さァどーだか? だって今までだって柱の影からジーッと見てきて、ちっさい声で、アッアッアノッミーケセンセ、って鳴く妖怪シノノメ相手でも、センセって困ってはいても嫌ってはなかったから。付き纏われてもぬるい笑顔であの生き物変わってンなぁくらいの寛容さを示せるなんて、さすが三池センセってのは海より心が広いんだなぁと思っていたんスよ。ああ、でも来栖センセのことは露骨に嫌いって顔に書いてありますよねえ。おや? 万人に心が広いわけじゃないのかァ?」

 苦く笑いながらそっと顔を拭った。

「人間なんだから好きも嫌いも合う合わないもあって当然っしょ。東雲センセとは傍から見ててもお互い気が合って仲良さそうですし、スーパーで一緒に買い物してたなんて目撃情報も出回って、付き合ってんだろうって勘ぐってる奴らがそこらじゅうにいます。東雲センセが激変したのだって、三池センセの仕業なんスよね?」
「いやまぁ……それは色々あったから。でも、東雲先生自身も、最近はちゃんとしようと色々してたよ。服装とか、パンパンのトートバックもひとつになったし」
「お? つまりあちらさんも、三池センセのために変わろうとしてたってことっスよね。イイハナシダナー」
「別に私のためじゃ」

 言いかけて、いつだったか私の隣にいておかしくないようにしたいと言っていた彼を思い出した。

「いまや知的な大人の色気漂う美形の准教授東雲センセーは女子の注目の的っスよ。閑古鳥が鳴いていた講義は聴講生で溢れかえり、休み時間も無駄な質問で身動きがとれず、一体どうやってここを振り切って心理学科助教室に逃げ込もうかと東雲センセの繊細な心は必死だそうで。しかし、どういうわけか、この数日は憔悴した様子でキャンパス内を幽鬼のごとく彷徨っているとのこと。妖怪復活ッスかねえ」

 まるで見てきたように彼女は言う。

「ちゃぁんと捕まえとかないと、本当に逃げられちゃいますよ。あるいは他の誰かに食べられちゃうかも」
「……だって、そんな……私のじゃないし」
「三池センセには珍しくデモデモダッテになってんじゃん。しちゃえばいいじゃないスか、自分のに。いい大人同士、どうみても好きなんだから」
「はあ?!」
「かの心理学者ルービンが設定した恋愛尺度によれば、単なる好意とロマンティックな愛情は質的に異なると説いてます。対象に対する親愛、依存といった欲求、その人だけを求める排他性、その人に夢中になって熱意を覚え、相手の幸福を支援しようとする傾向。程度の違いはあれどこれらが合わさった感情は、単なる好ましさや尊敬の気持ちとは異なるってわけッス。さて、恋愛ベタの三池センセが、彼の君に抱く思いはどーれだ」

 目を細めた松坂さんがコーヒーのペーパーカップに口を付けたところで「いた! 三池先生!」と駆け寄ってくる声があった。顔をあげれば、息を切らしてやってきたのは東雲研究室の学生だった。

「あ、あのっすみません、ぼ、ぼぼ、僕、あの、し、しのめ、あ」
「うん、東雲研の三年生だよね。どうかした?」
「は、はい! あの、いま、東雲先生が倒れて──」

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