問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。

 *

「……すみません」
「私はいいから、謝るなら、心配かけた研究室の子たちに言ってあげてください」

 ベッドの上で身を起こし、東雲先生は熱っぽい荒い息を吐き、俯いた。
 少し眠ってマシにはなったようだが、具合はかなり悪そうだ。

 東雲先生が倒れたと聞かされ、学生に引っ張られながら先生の研究室に駆け付けてみれば、本を積んだソファに倒れ込む彼は青白い顔で高い熱を出していた。
 居合わせた東雲研の学生たちはこの事態にどうしたらいいかわからず、東雲先生が信奉する私に助けを求めてきたと言う。信奉って何だ。
 先生は朦朧としながらも意識はあり、ともかくもここでは寝かせることも出来ないから、謝罪の言葉を繰り返す彼をタクシーに押し込めて私は苦労して家に連れ帰ったのだった。
 呻く先生を寝室のベッドに寝かせ、あれこれ準備して、学校には休みをもらおうと連絡を入れると、すでに松坂さんが学科長である我妻教授に話を通しておいてくれたようで、教授から文化人類学の学科長に連絡しておくからちゃんと東雲先生の面倒をみておけと言われてしまった。そういうことになってんならちゃんと報告しろ、とチクリとした言葉を添えて。

「少しは食べられそうですか? 薬飲むにしても何かお腹に入れてからのほうがいいですよ」
「は、はい……」

 膝の上に塩気を効かせた鮭と青菜のお粥とプリンの乗ったトレーを乗せると、熱さましのジェルシートを額に貼った先生が揺れる視線で私を見つめた。

「……プリン?」
「さっきコンビニで栄養剤とかその熱さましのシート買うついでに。いまは無理そうなら、元気になってから食べられるように冷蔵庫に入れておきますから」
「食べます! 食べます……さくらさんの顔見たら、お腹、減ってきました」

 お粥を一口食べて「おいしい」と力なく笑った先生は、私が水と薬を持って戻ってきたときには粗方食べ終えてプリンに手を伸ばしていた。熱のせいで力がうまく入らないのか、なかなか蓋が開かないようで、私は傍らに腰を下ろすと代わりに蓋を開けた。
 スプーンを取って一口分掬って差し出すと、先生はぽかんとしている。

「どうぞ」
「え、あ、で、でも」
「病人特権」

 おずおず開いた東雲先生の口にスプーンを入れて、顔を覗き込んだ途端、先生の目じりがじわと滲むのがわかった。

「す、すみません」
「横になりますか? つらいですよね」
「ち、違うんです……目の前に、さくらさんがいるなって思ったら、急に。すみません、情けなくて、気持ち悪い男で」

 メガネを持ち上げて先生は強引に目元を拭った。

「……先生のメガネ、また曇ってますね。久しぶりに見ました」
「すみません、せっかくさくらさんに頂いたものなのに」
「頭もぼさぼさだし」
「すみません」
「ご飯、あんまり食べなかったんですか?」

 問えば先生はややあって頷いた。

「……冷蔵庫に作ってくださった料理があるのはわかっていたんですけど、僕が頂くのは図々しい気がして、少しだけ食べて……でも、独りで食べるの、なんだかすごく、さ、さみしくて。タイミング悪く作家のほうの仕事が急に立て込んでしまったんですけど……どうしてか、す、進まなくて、眠れなく、なってしまって……」
「私のせいですね。ごめんなさい」
「違います! さくらさんのせいではないです! 僕が……僕が、いけなかった……分不相応な願いを持ってしまったから」

 東雲先生はそう言って「最初は、拝むだけでよかったんです」と寂しそうに、ぎこちなく笑った。

「さくらさんのことは着任された頃から文学部の連絡会議とかで見かけていて、心理には可愛い人がいるんだなって思ってました。明るくて、気が利いて、能力があって。笑うと花が咲いたみたいに見えた。……そういう人とはそもそも住む世界が違うし、僕のことなんか視界にも入っていない、入っていたとしてもぼんやりした影みたいなもんだろうって思ていたんです。でも、馬鹿にされた僕のことを庇ってくれたあの日、僕の世界は変わってしまった。大げさじゃなく、はっきりわかりました。──さくらさんは、僕のこと、ちゃんと知っていてくれた。妖怪って名前がついた瞬間に形を持つんですよ。それと同じで、あなたが僕を認識してくれたあの瞬間から、僕は僕という曖昧だった存在をようやくはっきりさせることができたんです」
「……先生は、以前からきちんと功績を認められて、作家としても活躍されていたじゃないですか」
「流されていたんです。生きることが下手すぎて溺れないように必死だったので、途中途中で手を取ってくれた人たちに、ちゃんと顔向けも出来ていませんでした。さくらさんに気付いてもらっていたとわかって、初めて僕は別に溺れてなんかいなかったんだと気づきました。世界が違うと思っていた人に認識してもらえる程度には、僕は何事かが出来ていたらしいって。初めて自分を認めることが出来た。あなたに憧れて、知りたくなって、知れば知るほどとても素敵な人だから、すれ違ったり、挨拶を交わしただけで一日が充実しました」
「それであの祭壇になるんです?」
「き……気づいたら、ああなってた」
「片付けてくれたんですね」

 ちらりと見た廊下の隅の納戸はすっかり片付けられていた。

「……写真は捨てることができなかったのでしまってありますけど、サドルは物置の不燃物の袋に入れました。ハンカチはお返しします、あ、あの、論文の写しは手元に置かせてください。書籍として保管しておくので」
「はい。サドル泥棒は反省してください」
「すみません、本当に……どうかしていて」
「ほんとですよ。三池さくらはここにいるんだから、話したいこととか相談したいことがあるなら、直接言ってください。黙ってたほうがいいなら黙っているし、反応が欲しいなら反応します」
「……触りたくなって、しまったら?」

 先生はスプーンを手にしていた私の手首を取って、親指の腹でつと肌を撫でる。

「遠くから眺めて写真拝んでいるだけでよかったのに、気づけばさくらさんの目を見て話したくなって、好きで、そばにいると触れたいと思うようになってしまいました。僕の世界を作ってくれた神様だったはずなのに、僕はいつの間にか、その神様を性的な目でみる冒涜者です。異常な執着で、あなたを怯えさせてしまった。あなたにささやかでも幸せを捧げることが出来たらと思っていたのに、僕自身が脅かす存在になっていては意味がない。すぐにでもここを明け渡すとか、僕がどこかに行くとかできたはずなのに、なのに、離れるのが嫌で……結局迷惑をかけて、申し訳ない。もう、やめ」

 言い切る前に私から先生に口づけていた。かちゃん、と先生の膝の上に置いたトレーが傾いて音を立てる。

「やめたくないです」
「……さくら、さん」

 プリンをトレーに置いて、そのトレーをベッドサイドに片付けると、改めて先生の側で居住まいを正した。

「あの祭壇には正直、本当にショックを受けて、引きました。ドン引きです。盗撮とサドル泥棒は普通に犯罪ですから。前々からとんでもない人だとは思ってたけど、これほどだったかと。あと、ムカつきましたし」
「う、あ……え……」
「でも、自分でもおかしいと思うんですが、それでも東雲先生かわいいって思う気持ちがあんまり減らなくて。欠点が見えるとそういう気持ちって目減りしたり、消えていくものなのかなと思っていました。そうはいっても、簡単に許していい話でもないし、どうしたらいいかわからなくて。ここは元々東雲先生のお家なんですから、家を出ていくべきだったのは私で、それなのに、できなくて居座って」
「む、ムカついたというのは……」
「私じゃない私を拝んで、あそこ眺めて心落ち着かせてるとかムカつくでしょ。じゃあ、この家にいる私って何ってなる」
「そ、そうですよね! すみません!」
「東雲先生は私に夢を見すぎです。神様なんかじゃないですよ。普通で、むしろ欠陥だらけで、先生を困らせてばかりで……私のほうこそ、申し訳ないです。私、好意と恋愛の区別も結局よくわかってないのに、先生は、先生だけには今みたいに私からも触れたくてたまらない時があるんです。だから、一緒にいたいです。離れたくない。先生が、好き」

 搔き抱かれ、顎を掬われるようにして口づけられた。強引に割り込んできた舌は熱くて、私はベッドの上に膝立ちになって彼の頭を抱き込んだ。

「さくら、さん」
「先生、口の中熱い」
「はい……なんだかすごく、ふわふわして、夢みたいで、くらくら、しま、す」
「えっ! ちょ、先生」

 笑いながら力が抜けていく彼を慌てて支え、なんとかベッドに寝かせたが、手の甲で触れた頬や首の熱が高い。まだ薬を飲ませていないんだったと思い出して、へらへら熱に浮かされる先生に解熱剤を飲ませ、「添い寝してほしい」といきなり要求水準の高いことを抜かしてくる人をなだめることに私はとても苦労した。


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