問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
(2)ステレオタイプ的脅威
力強く抱き着いて眠る東雲先生を慎重に引きはがしてベッドから這い出し、家のことを片付け洗い物を済ませる。
起きて何か食べられるようなら、うどんとか消化に良さそうなものをすぐ用意できるよう準備しておこう──と、考えていたところで玄関のチャイムが鳴った。
すでに日が落ちて、誰かの家を訪問するには遅い時間だ。インターホンなどと言うものはこの家には存在しないので、濡れた手を拭きながらエプロンを掛けたまま玄関の灯りを付け、少し戸を開けて表を伺う。すると「突然お邪魔して申し訳ありません」と名刺を差し出しながら、白いコートを着た小柄な女性がぴょこんと頭を下げた。
「ちょっと迷って時間が掛かってしまって、丸川書房の酒井と申します! こちら一ノ倉先生のお宅と伺っておるのですが、先生はご在宅でしょうか」
丸川書房と言えば大手の出版会社で、東雲先生が作家として執筆している日陰教授シリーズを発行している版元だ。
「ああ、ええ、いるのはいるんですが、今少し体調を崩していて寝込んでおりまして」
名刺を受け取ってそう答えると、彼女は黒目がちな瞳を丸くして「そうなんですか!」と驚いた顔を上げた。
「ど、どうしよう、実は、今朝からずっとご連絡差し上げているんですが、連絡がつかなくて、今日締め切りだった原稿をまだ送っていただいていないんです。先生はこれまで一度も締め切りを超過したことがない方でしたので、もしや何かあったのかと思って、上の者と相談してお宅まで伺いまして……」
「そうでしたか。すみません、原稿のことは私も聞いていなくて」
「あの、ハウスキーパーさんですか?」
「……私?」
エプロン姿で玄関から出てきた私は、いま、どういう立場になるのだろう。
同居人ではあって、先ほどお互いに気持ちは確認したような気がする。すると、それでたちまち恋人という関係が成立するのだろうか。結婚まではまだきちんと考えられていないような気がするし──
なんと答えたものかと変な間が空いてしまったところで、どたばたと階段を駆け下りてくる音がして、振り返ったところで東雲先生は裸足のまま玄関のたたきに飛び込み、私に抱き着いてきた。
「うわ、ちょっと先生!」
「さくらさん、なんでいなくなってるんですかぁ、起きたら暗いし寒いしいないし」
「先生、先生ダメ、落ち着いて。お客さんですよ!」
「……え? お客さん?」
剥がれかけたジェルシートを額から垂らし、東雲先生はそこでようやく玄関先で驚く女性に目を留めた。
「あれ、さ、酒井さん? どうして」
「先生から原稿が送られてこなくて、連絡も取れなかったっておっしゃって」
「えっ!」
*
「申し訳ありませんでした」
「いえ、具合を悪くされていたなら仕方ありませんし。拝見しましたけど、そんな中でこれだけのものを仕上げてくださったなんて、さすが一ノ倉先生です。今回、急がせてしまったのは完全にこちらの都合でしたし、編集長もさすがに甘えすぎたと言っておりましたので、問題ないですから」
暖房を効かせた居間で、一ノ倉しの先生ことスウェット姿の東雲先生は座卓に額がつく勢いで頭を下げていた。原稿ファイルをメールで送ったつもりが、意識が朦朧とする中だったために未送信の状態だったそうで、東雲先生は慌てふためきながらすぐさま再送し、謝罪を繰り返していた。
どうぞ、と茶托にのせた温かいお茶を勧めると、酒井さんは軽い会釈をして「ありがとうございます」と可愛らしい声で言った。艶やかな黒髪に黒目がちで可愛い顔立ち。そして清楚な感じがする。大手出版社の編集者ということは、頭も切れるのだろう。
部外者の私がこの場にいるのもおかしいかと思い、お盆を抱えて立ち上がろうとすると、ふいに先生がエプロンの端を掴んできた。縋るような目つき。担当編集が相手だろうに、人見知りを発動してどうする。
「私、向こうで夕飯作っていますから、何かあれば呼んでください」
「あ、は、はい……」
会釈して立ち上がり、居間と台所を区切る花の模様がついたガラス扉を閉めながら、私の耳は「一ノ倉先生、対面でお目にかかかるのは久しぶりですけど、なんだか雰囲気がずいぶん変わりましたね。髪型変わったからかな、とっても素敵になられて、びっくりしてしまいました。すごーい、やったぁ」という黄色い声を拾った。やったぁ、か。まだ熱があるだろうから、できれば早く切り上げてやってほしいが。
案の定、疲れたのか、夕飯を食べてしばらくすると、先生の熱はまた上がってしまった。
汗をかいたと風呂に入ろうとするのを止めさせて身体を拭き、ぼんやり歯を磨く傍らで熱さましのジェルシートを交換して、解熱剤を飲んで寝るように促すとすぐに深く寝入ったようだったが、なんとなく心配で、その晩は先生のベッドの横にマットと布団を敷いて私はそこで眠ることにした。
夜中に先生が布団に潜り込んできて熱い手であちこち触れられ、私からはキスをたくさん返して、ふたりで抱き合って眠った。翌日の金曜日は、東雲先生は大事を取って休みを取ることにし、私のほうはさすがに出勤しなくてはならないから、後ろ髪をひかれながらも家を出た。よく寝ておくように言ったし、先生でも簡単に食べられるものを用意はしておいたし、さすがに良い大人なのだから心配しすぎるのもどうかと思っていたのだが──
「あ、さ、さくらさん! おかえりなさい!」
「あぁ、おかえりなさい。お邪魔しています」
通常業務も学生指導も、ついでに東雲研の学生のフォローもし、私大での講義を終えて、買い物をして急いで帰宅したところ、家には東雲先生のほかに、編集者の酒井女史がいた。
しかも彼女は私のエプロンを付けて、居間で先生に向けてビーフシチューぽいものを掬ったスプーンを掲げている。これはどういう状況か。
助かったとばかりに安堵の表情を浮かべる先生は、午後の頭にはすっかり熱も下がって回復したとスマホのメッセージアプリでやりとりをしていた。これなら大丈夫そうだとほっとして、家に向かう電車に乗った際に<買い物して帰りますね>と送ったものの、これは既読にならなかった。
「昨日、一ノ倉先生、とても具合が悪そうでしたから心配になってしまって。ご連絡差し上げたところ、彼女さん、今日はお仕事だということだったので、お食事とかどうされているのかなとかいろいろと考えてしまって思わず押しかけてしまったんです」
「あぁ、そ、そうですか……」
「そうしたら、レトルトばっかりだったから。冷蔵庫にもほとんど何もなくて、実は無駄になるかもとは思いながらシチューを作ってきたんですけど、持ってきておいてよかったなぁって。わたし、これ得意料理で。よかったら彼女さんも召し上がってください」
「ありがとう、ございます。すみません、これから用意しようと思っていたんですが、お手数をおかけして……」
鍋とおじやにしようかと思っていた。
そういえば、断れない男だったなと、おそらくは酒井女史の押しに負けた怯えの見える先生を横目に、私はとりあえず台所に荷物を置きに入った。
「さ、さくらさん、さくらさん」
追いかけてやってきた先生は背後をこそこそと伺いながら、あろうことか「すみません、こ、こういうとき、どうやって帰ってもらったらいいんでしょうか」と小声で口にした。
「えぇ……仕事の話とかじゃなかったんですか?」
「最初そう言っていたので上がってもらったんですが、話が違って、ど、どうしたらいいのか。僕、さすがに今の状態でビーフシチューはつらいものが」
でしょうね。
「彼女、関係性としてはどんな感じなんですか」
「こ、今年の春くらいからの新しい担当さんで、前の担当さんは男性でおおらかな人だったのでなんとかやって来られたんですけど、あ、あの」
「私相手だから忌憚なくどうぞ」
「苦手です……。僕のこと明らかに気持ち悪いって思ってるはずなのに変に距離が近いというか、妙なところがあって、だからやりとりはできるだけ電話かメールだけでお願いしてて、なのに昨日からまた急に!」
「先生の見た目が変わったから」
「たぶん……嫌なんですが、担当さんと揉めるのも困るんです。だから穏便に切り抜けたくて」
「……わかりました。先生、具合悪い設定でよろしく」
「え」
言うや私は「やだ、一蔵さん、熱あるじゃないですか」と声を張った。
酒井さんが驚いた様子で顔を出し、触れようとして手を伸ばすと先生はさっと私の後ろに下がり、よろめいて私の肩に腕を掛ける。
「す、すみません、さくらさんが帰ってきたと思ったら、安心してしまって」
「寝てたほうがいいですよ、一蔵さん」
「大丈夫ですか、先生! わたしが寝室までお送りします!」
「……い、あ、なんか、き、気分が」
「吐くならトイレ」
「はい!」
すみませんと言い残し、先生はそそくさと駆け出した。逃げ足が早い。
「先生ぇ!」と後を追いかけようとした酒井さんの前に立つと、「大丈夫です。あとは私が」と笑みを繕った。
「申し訳ありません、せっかくお見舞いにきてくださったのに、まだ本調子じゃないようで」
「いえ、わたし、先生の担当ですし、個人的にもわたしがしたくてしたことですから気になさらないでください。それより、昨日はハウスキーパーさんと間違えてしまって失礼しました。まさか先生の彼女さんとは思わなくって」
「一緒に暮らしているものですから、所帯染みてきたのかしら」
思わんか? 普通、同じ年頃の女が男の家からエプロン姿で出てきたら、妻か彼女と思わんか?
あらあらうふふと互いに愛想笑いで交わし、よかったら明日にでもどうぞとビーフシチューのずっしり入ったタッパーを渡されて私は彼女を見送った。
ふと気づけば柱の影から東雲先生がじっとこちらを覗いている。
「……お帰りになりましたよ」
「ありがとうございました。なんと言うか、ちょっと変わった方ですよね」
人のこと言えた義理か、と思ったが言葉は飲み込んで私はするする近寄ってきた先生に首を傾げた。顔色はもう良さそうだ。
「夕飯どうしますか? 柔らかめのお鍋と締めにおじやにしようかと思ってたんですが」
「食べます」