問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
よく分からないが一応同棲中の女ですよアピールもしたし、さすがにあの態度を取れば気の弱そうな相手とは思われないだろうから牽制にもなったはず。
そう思ったものの、酒井さんという人は、大人しそうに見えて存外強かな女だった。
来る。
近くまで寄ったからタッパーを返してもらいに来たというのはまだわかる。お礼としてちょっとした菓子折りを渡せば、お礼のお礼を持ってきて、それ以外にも東雲先生のスマホに頻繁に連絡があり、彼女は何かにつけて用事を作り、ことある事に家を訪れた。
仕事の途中だろうに、なかなか帰らないから別に豪華でもなんでもない普段の夕飯を振る舞うことになったし、加えて彼女はそこに私がいようとも私などまったく目に入っていない様子で先生にのみ話しかけ、先生は返答に困って私に向かってぼそぼそ話すものだから、聞かれてもいないのに私が通訳するという絶望のトライアングルを経験した。
後片付けの途中わざとらしく倒れ込んできた酒井さんに胸を押し付けられて先生は一日落ち込み、恋人に誤解されるようなことは謹んでもらいたいと勇気を振り絞って願い出れば、そんなつもりはなかったと泣いて謝る彼女に真っ青になってまた落ち込んだ。果ては、私から突然家に来られても先生が不在の時もあるので困ると丁重に告げれば、大学に押しかけてくる始末で、先生は一部の人に作家をしていることがバレてしまって頭を抱えた。
「さくらさん、僕、彼女にはっきりさくらさんが一緒に暮らしてる恋人だって言いました」
「私も言いました」
「僕、何分経験がないのでこの手のことは相当疎いのですが、恋人と仲良くやってる……仲良いですよね?」
「いいと思いますよ」
「よかった……そういう人の家に、仕事の関係者とはいえ頻繁に尋ねてくるのって、普通ですか? 遠慮したりするものでは?」
する人もいれば、しない人もいるだろう。
仕事上どうしても確認が必要な用があると言われたらそれまでだが、今の今までメールと電話で済んでいたのに、ここにきてそれが頻発するというのはおかしい。
今日はどうやら最寄りの駅で待ち伏せされたそうで、東雲先生は酒井女史と駅前のカフェでお茶をする羽目となり、普段ならばウェブ会議、しかも音声のみで行っている次回作についての打ち合わせを、小一時間膝を突き合わせて行ってきて、帰りが遅くなった。作品や外見を褒めるばかりで本題を進める気のない人と、コミュニケーションに難がある人の打ち合わせに生産性があるはずもない。
お風呂から上がって私が借りている部屋にふらふらやってきた先生は、私の横で布団の上に座り疲れた様子で項垂れていた。
感覚的には明らかに恋人がいるのに先生を狙うヤバい女なのだが、常識的か非常識かの判断をするにしても、現時点では微妙だった。何故なら相手の目的が今一つわからないのだ。
「……目的?」
メガネを外し、目頭を揉んでいた東雲先生は、オウム返しに言って顔を上げた。
「ええ、例えば東雲先生に交際とか肉体関係を迫るようなアプローチをしてくるようなら、しっかりばっちり非常識と判断が下せて、こっちも強く出られると思うんです。でも今の限りではなんとも微妙で、はっきりしなくて。ただでさえ一度そんなつもりない、一生懸命仕事しようとしてるだけって泣かれてますからね。仕事してねーだろって話ですが」
「そ、そうですね」
「なんて言うか、間違いが起こることを待ってるみたいな感じじゃないですか? 勘違いを誘ってる」
「……確かにあからさまなことは言われていないです。電話かメールですぐに済むことですけど、毎回何かしら作家業に絡む用件をこじつけてはきますし。仕事といえば仕事。ただ、勘違いを誘っていると言われると、頷けるところが」
「……ということは、あからさまじゃないことは言われてるってこと?」
「へっ」
促せば、先生は背中を丸める。
「……やたら、容姿を褒められます……素敵とか、か、かっこいいとか。全部さくらさんのおかげって説明したら、なんか、こ、怖い顔を」
「他には?」
「一緒に住んでるさくらさんが羨ましいとか、自分だったらこういうことしたいとか、目元に色気があるとか、目が合うと……ぞくぞく、するとか」
頭が痛い。言われたところで先生は「あ」か「う」しか返していないだろうが、先生の容姿に惹かれているのだとすれば応答がそれでも関係ない……ないものか?
もしや私と同じ趣味で東雲先生の存在そのものがかわいく思えているか、あるいは作家としての彼に魅力を感じているのかもしれない。実は日陰シリーズの相当なファンとか。
そこに容姿が伴ったから動き出した?
「も、もしかしたら、なんですけど」と先生は私の横でもそもそと口を開く。
「何です?」
「……あの人、僕の家のこと、知ってるのかもしれません」
あ、──東雲の財力狙いか。
「僕、家のことも家族のことも隠しているので一切言ってないんです。前の担当の人は付き合いも長かったので、名前から察してたみたいなところがあったんですが何も聞かずにいてくれて、でも彼女の場合……」
「何か思い当たる節があるんですか?」
「酒井さんに担当が変わったばかりの時、彼女、大御所の作家先生から会食の場所に結構な無理難題を吹っ掛けられたらしくて、心当たりないかって手当り次第に聞いて回っていたんです。所謂、一見さんお断りみたいな店で。でも東雲の家ではそれなりに関わりのある店だったのと、かなり困っていたように見えましたから……と、透二に連絡を」
「……融通をきかせてもらった」
「はい。若い女性というだけで、からかわれているというか、嫌がらせされているんだろうなと思ったんです。関係を悪くもしたくなくて、ちょっとした助け舟のつもりでした。ただ、その店に彼女が行った時に、女将さんとの世間話で、透二と知り合いなのかって聞かれたみたいで。おそらく、その時に……」
「東雲ホールディングスCEO、東雲透二さんと関係があるとバレたわけですか」
「確認されたわけでもないですし、特に探りを入れてくる感じでもなかったんです。でも、透二の名前なんて検索すれば一発ですし、僕個人なら論外ですけど東雲の家なら顔の利く高級店は多いので、勘が良ければ繋げて考えることはできると思います。僕の思い違いでなければ、それまで露骨に僕のこと嫌な顔で見ていたのに、そこから頻繁に打ち合わせに呼ばれたり、食事とかプライベートに誘われるようにはなりました……」
「彼女と行ってたんですか? 食事」
「そんなまさか! 良さそうなお店だといつかさくらさんをお誘いする時の参考にさせてもらいたくて、下見に行ってみようかなと思ったこともありましたけど、祭壇の前で自問自答した結果、行かないという結論を出しました」
「あれ一応役に立ってたんだ……」
「そもそも、プライベートで話すことなんかないですし、僕これまで学校の給食から始まって女性との食事にいい思い出がないので、何かあって契約打ち切られたら嫌ですから、全部断ってきました。あ、断る時はさくらさんが僕の誘いを断る時の文句を参考にさせてもらってたんですよ。バリエーション豊富でしたよね」
「あは……」
環境に優しいリサイクルである。
ともかくも、作家一ノ倉しのの隠されたステータスを知った酒井さんは、先生への接近を狙っていた。だが、筋金入りの陰キャである先生は容易に誘いには乗らず、またダサいモサいキモいの三拍子が揃っていた珍獣の外見とあって、もしかするとこれまでは二の足を踏んでいたのかもしれない。
だが、久方ぶりに顔を合わせてみれば、先生は知的な色気のあるイケメンに変貌を遂げており、加えて同棲中の恋人までいるとわかって酒井女史は焦りを覚えたのだろう。
彼女は東雲先生が父親から弾かれているという状況は知らないから、キープしてきた玉の輿要員が消えるのを惜しみ、私という存在があるために先生きっかけのワンチャン狙いで畳み掛けてきているわけだ。
「ワンチャン、というのは犬ではないですよね。一発逆転的な意味?」
「まぁそんなところですね。もしかしたら、みたいな」
「あんな……清楚というか、大人しそうな感じなのに」
「先生だって見た目と中身違うでしょ。私はどっちも素敵だと思いますけど」
そう言うと東雲先生はアッと鳴いた。
「見た目は、か、関係ないということですね」
「むしろああいう見た目のほうが、そんなことするわけないと思われて男性側のガードも緩むんじゃないですか?」
「はあ、虎視眈々と獲物を狙うような、そういう女性が透二の周りにはわらわら湧くと聞いていたんですが、まさか僕が当事者になるとは」
「このままだと、先生が食われかねません」
「いやぁさくらさんにがっかりされてしまうかもしれませんけど、食われるほどの財産もないので」
「財産は問題ではないです。精神的にも物理的にも美味しく頂かれるかもって話ですよ」
「は、はい? 物理?」
「私、お金も先生のご実家のことも正直どうでもいいんです。私だってちゃんと仕事していますし、ひとのお金で贅沢したいわけでもないですし、先生がもしお金で困るようなことがあれば、然るべき対応をとって大事に至らないようにして、何だったらしゃにむに職位上げて私が養いますよ。お金じゃなくて、先生自身を誰かに盗られるのが嫌なんです。ちょっと考えただけでも、ものすごく嫌だということがわかりました。これは脅威です」
彼の大きな手を取ると、大袈裟なほど肩が震えた。
「は、ぁ、さ、さくらさん、あ、あの」
「なので、私が東雲先生のこと、食べちゃってもいいですか?」
寝巻きの下にその手を誘う。
「食べ……わ、ぁあ」
「心臓、うるさくてすみません……嫌です?」
嫌なわけない、と小さな声で告げる先生の指先は躊躇いがちに胸を揉んでいた。
「いいいつか、こ、このような関係に至ることを願っていましたが、ひとりよがりはよくなくて、さ、さくらさんの気持ちが整うのを待つべきでだから僕は十年でも二十年でも待つつもり」
「一蔵さん」
「はい!」
「私のこと、たくさん考えてくださってありがとうございます。気持ちはあって……たぶんずっとあって、きっかけが欲しかっただけなんです」
「あの……実は、き、昨日、帰りにコンビニで、ひ……避妊具を買いまして……」
「十年待つ気とは」
「すみませ……付け方、練習しようと……」
「箪笥の中にあったあのえっちなDVD見て?」
「……さくらさんのこと、考える、つもりで」
「うわ出た。先生のその頭の中にいる私のこと追い出してもらっていいですか。想像の自分に妬かなきゃならないって何なんですか、私ここにいるんですから、するなら私として」
「は! はい!」
「で、何処にあるんです? それ。近く?」
「へ、部屋……取って、きます」
「いってらっしゃい」
飛び出して一分もしないうちに箱を握りしめて戻ってきた東雲先生は、赤い顔で両手を畳について「不束者ですがよろしくお願いします」と深く頭を下げた。思わず笑ってしまって、でも先生らしくて、私も「こちらこそ」と頭を下げて、顔を上げた先で目が合うと私から抱きついてキスをした。
かわいい、かわいいかわいい。
間違いなく世界で一番かわいい人だ。
お互いバカみたいに胸が高鳴って、わけがわからなくなりながら、私は初めて、相手と身も心も深くまでつながり、触れ合うこの行為が気持ちいいと感じた。