問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
(3)犯罪心理学入門
初雪がちらついたその日、冬休みと修士の論文提出日を直前に控え、一日のほとんどが諸々の連絡会議や調整に追われていた。
担当する講義は少なく、指導担当の学生がいるわけでもない私は残業もなく早々に帰宅することができた。
今日は冷蔵庫にある食材で夕飯を作ろうと考えながら寒空に白い息をこぼし、日の落ちた家路を急ぐ。スマホを見れば東雲先生も学科の会議が終わったそうで、電車に乗っているらしい。もう少し待っていればよかったかな、などと思いつつ、竹垣で囲われた格子戸の門扉を開けると、玄関の前に人影が見えた。
玄関前の灯りは人感センサーが入っている。
穏やかな橙のその灯りに照らされ、白いコートと柔らかなマフラーからこぼれた艶めく黒髪が影と一緒に揺れていた。
彼女──酒井さんは、その小柄な体躯を動かし、足元で必死に何かを踏みつけていた。敷石の上に散らばっているのは紙だ。封筒から飛び出し細かい文字が連なった紙束を彼女はヒールを履いた右足を捻って踏みにじっている。
「酒井、さん……?」
振り返った彼女は、私に気付いてはっとしたが、すぐにいつもの可愛い顔で微笑んだ。
「ああ、彼女さん。こんばんは」
「……何、してるんですか」
視線を下げれば、彼女の足元にある大型封筒には丸川書房の文字が印字されている。そこから顔を出して散らばり、ぐしゃぐしゃになって、一部は破れ、汚れた紙束は──
正体に思い至った途端、私はすぐさま彼女を押しのけ地面の紙束をかき集めた。
これは先生の原稿だ。校正原稿。
押しのけた拍子にバランスを崩し、大仰に悲鳴を上げて倒れ込んだ酒井さんからかき集めた原稿を掴んで距離を取る。
「何してるんですか!」
「ッ──てぇなぁ……というか、今日火曜なのに、帰ってくるのかなり早いですね。計画が狂っちゃった」
「計画……?」
酒井さんは冷たい地面から立ち上がってスカートの裾を払うと、小さな可愛い顔でにこりと笑って私に目を向ける。
「火曜日って一ノ倉先生は会議があって、あなたよりは帰宅が遅くなりますよね。なので、ここで原稿ぐちゃぐちゃにして、わたしは駅に戻って一ノ倉先生を待って一緒に帰ってくるんです。校正原稿をお届けに上がったんですが、いらっしゃらないようだったのでポストに入れておきました。でも、伝え忘れたことがあったので、説明に戻っていいですかって。先生って真面目だから、作品や原稿が絡むことだと断らないんです。で、ここに戻るとあなたが汚れて破れた原稿といる。もしかしたら隠すとか、何とかしようとしてるかもしれませんけど、どのみちあなたのせいになる」
……私のせい?
何を言っているのだ。
「なんか先生ってあんたにのめり込んでるっぽいから、粗探さなきゃって思っててさぁ。そーいう計画だったわけ。同僚だか何だか知らないけど、あんたさ、ほーんとうまくやったよねえ。あの暗くてじめっとした気持ちわるーい見た目の下があんな美形とか、言ってくんなきゃわかんなくない? そんな漫画みたいなこと現実にあるなんて思うわけないし。あ? でもぉ、東雲透二はめちゃくちゃ顔いいわけだし父親も目鼻立ちくっきりして役者顔って感じなんだから、血筋を考えれば長男イケメン説は妥当だったか。しくったなぁ」
「酒井さん……」
「わたしね、貧乏って嫌いなの。育った家がそうだったからさ。ほんと嫌い。だから、必死で勉強していい学校入って、昔から要領は良かったからそれなりの会社にも就職できたんだけど、もっと楽して生活したいわけ。文芸の編集ってのもパッとしないし、あくせく働かなきゃまともなバッグも買えないとかマジでないし、普通の結婚じゃ友達にも勝てなくない? だから、先生ってちょうどいいと思ったんだよねぇ。もちろん弟のほうが断然いいのはわかってんだけど、これでも身の丈わかってるから。それにさ、ああいう男ってあんたみたいなのより、わたしみたいな清楚な感じの子が好きなもんだから、あれなら引っ掛けるの楽そうかなぁって思って余裕こいてたら、失敗したよぉ。あんなのに彼女いるとか思わないじゃん。そもそも、見た目は良くなったのにオドオドした性格は相変わらずだから、上手いこといったとしてぶっちゃけ無理なんだけど、ま、わたしも売れ残りたくないし取り急ぎって感じで。あんたは?」
「は……?」
「だって東雲だよ? まさか、東雲なんてばかでっかい金づる持ってるキモオタに近づいておいて、純愛とか言わないよね。ウケんだけど!」
ゲラゲラ笑って、酒井さんは悪意を滲ませた黒目がちな目元を細めた。
「悪いんだけどさ、その席譲ってくんね? わたしのほうがうまくやるよ、助教さん」
言い返せ。言い返せ言い返せ。いつもなら考えなくても反射で言葉が出るだろう。
パン、と乾いた音がした時には、私は平手で彼女の頬を叩いていた。言葉じゃなくて手が出てしまい、自分のしたことに心臓が痛いくらいにドカドカ鳴っている。酒井女史は大げさなほどの悲鳴を上げて倒れ込んだ。
「……さくらさん?」
門扉に暗い影が立ち、振り返れば東雲先生が戸惑った様子で見つめていた。
「一蔵さん」
「先生ぇ……!」
私よりも早く酒井さんは立ち上がるとよろめきながら先生のもとに駆け寄り、その身に縋りついて涙をにじませた瞳を向ける。
「彼女さんに原稿を奪われて、取り返そうとしたら、暴力を!」
「げ、原稿……?」
東雲先生の視線が私の抱える紙束に注がれる。握り締めた手に思わず力が入った。
「はい、校正原稿をお届けにあがったんです。ここでお話していたら、あの方、急に怒ってわたしから原稿を奪って、先生の作品を踏んだんですよ! ひどすぎます!」
「そんな! それはあなたが!」
先生は静かに歩み寄ると、私の手から原稿を受け取って、踏みつぶされたそれに目を落とした。
「これは……酷い、ですね。さくらさんが、これを奪った挙句、踏んで破ったと? 足跡がついている」
「一蔵さん、ちが」
「どうしてこんなことを? 酒井さんが何かしたんですか?」
静かな眼差しに一気に体温が下がり、脚が震える。酒井さんはここぞとばかりに目を潤ませて言う。
「わかりません。けど、もしかしたら、わたしが先生に近づきすぎてしまったせいかも。仕事に必死だっただけですけど、彼女さんからしてみれば……いやですよね」
「なるほど、嫉妬から、こんな暴挙に及んだと」
「原稿はそんなふうになってしまって、わたしもふだれちゃいましたけど、でも先生! わたしは大丈夫だから」
「酒井さん、それはあんまりだ」
「いいんです! わたし、許します。だから、彼女さんのこと責めすぎないでください」
「僕は許せないです」
言って先生は冷たい視線で酒井さんを見据えた。
「許せません。酷すぎますから、あなたのこの筋書き。粗がありすぎて、到底受け入れられません」
「……え?」
「最初から設定に無理があります。さくらさんは、僕の努力の成果を踏みにじるようなことはしませんから。登場人物の設定がブレることは良くない。ついでに言うと、原稿を抱えていたのはさくらさんですから、酒井さんから奪って、踏んで、もう一度抱えなおしたというのは何だかひと手間多くて描写が不自然ですよ。この場合、彼女の性格と状況からして、あなたが踏んだ僕の原稿を彼女が取り返して守ったというほうが筋が通ります。あと、彼女スニーカーですけど、この原稿に開いた穴や破れ方からして踵の尖った靴で踏んでいますので、凶器の設定も雑ですね。ああ、あなたが今履いているようなタイプがまさにそうです」
酒井さんは目を瞠り、足元を隠すように一歩後ろに下がった。
「靴、返してくださいね。それ、さくらさんのですから」
「え、あっ、ほんとだ! 私の!」
一張羅のためにあの高級ブティックで先生に買ってもらったものだった。似たようなものかと思っていたが、よく見れば彼女の足にサイズが合っていない。
「大方さくらさんのせいにするために、さくらさんの靴を拝借したんでしょう。でも、酒井さんが一度履いたものというのは何となく嫌でしょうから、あれは差し上げることにして、さくらさんには新しいものをまたプレゼントします。それでいいですか?」
「は、はい、それは、べつに」
じゃあそうしましょう、今度デートですねと先生は私の肩に手を添えてにこりと笑いかけた。
「暴力を振るってしまったことは事実のようです。それについては僕からも謝罪します。というか、羨ましいですね。僕もまだ打たれていないので」
何言ってんだ。
「さくらさんはとても優しい人ですから、言葉で刺すことはあっても手を挙げるということは非常に稀です。酒井さん、あなた彼女に何を言ったんですか? よほどのことだ」
「……別に」
「そうですか。許してくださるということですが、気が変わって診断書などを取られて警察に被害届を出すということならば、こちらも相応の対応を取らせていただきます」
「慰謝料とかってことですか?」と酒井さんは言った。
「まさかでしょう。おかしなことをおっしゃる。靴を差し上げることにしたんですから、これ以上盗人に追い銭を投げてやるようなお人よしではありません。こちらも被害届を出します。以降は弁護士を通してお話しましょう」
きっぱりと言い切った東雲先生に酒井さんだけでなく私までもが驚いた。
「ちょ、ちょっと、原稿踏んだくらいのことで被害届ですか? 足跡だって彼女のものなんだし、わたしがやったなんて証拠ないですよ」
「そちらの件ではありません。窃盗と不法侵入です」
ぎょっとする中、先生だけは冷静に「鍵、返してください」と酒井さんに向かって大きな掌を差し出した。
「玄関が閉まっているのに、いまさくらさんの靴を履いているのが何よりの証拠です。うちに出入りする間に、あなた僕のキーケースを盗んで家の鍵を複製しましたよね。僕でもさくらさんでもない誰かが、知らぬ間に家に入り込んだ形跡がありました。僕の部屋のものにも手を触れた。服のたたみ方がさくらさんと違いましたし、最悪なことに僕の部屋のさくらさんの匂いが薄れていて、ベッドが乱れ、ベッドにも浴室にもあなたの長い髪が何本かわざとらしく置かれていました。さくらさんに何かしらのメッセージを残したかったのかもしれませんけど、彼女の目に触れる前にすべて僕が処分しました。あと、さくらさんの部屋にも入りましたよね。彼女以外の匂いがした」
「……言ってることキモすぎなんだけど」
「そうですか? 愛のつもりですけど、どう思うかはさくらさんに判断をゆだねます。それより僕は人の家に忍び込んで、盗んだものを恥じらいもなく身につけていられるあなたのほうが気持ち悪い気がしますから。人間として」
滔々と話しながら、東雲先生は再び催促するように手を差し出した。酒井女史は観念したのか、バッグの中から銀の鍵を取り出すと震える指先で先生の掌の上にそれを落とす。
「正直に答えてください。さくらさんのもの、他に何か盗みました?」
「……何も。ろくなもんなかったし」
悪かったな。先生は鍵を握り込むと、その手でコートのポケットにあったスマートフォンの頭を出した。
「失礼ながら、これまでのやり取りはすべて録音しています。見る限り、打たれたと言ってもそう酷い傷ではないようだ。ご自宅にお帰りになってよく冷やせば大事にならないでしょう。この件に関して被害届を出さないというのならば、こちらも被害届は出しません。あなたが動けば僕も相応のカードを切るという腹積もりであることをゆめゆめお忘れなく。それから、原稿の件と、このところのあなたの態度については編集長にお話させていただきますね。これでは丸川さんで執筆をつづけることは困難ですから」
どうぞ、お帰りはあちらです。暗いですから気を付けて。
東雲先生は穏やかながら有無を言わせぬ視線で酒井女史を追い払った。人のいなくなった暗い門扉をふたりとも茫然としばらく見つめ、先生のコートの裾を掴むと、途端抱きすくめられた。
「さ、ささ、さくらさん! い、息が、僕、息続かないかと……」
「一蔵さん、すごかった……すごかったです、ありがとうございます。私のこと、信じてくれて」
「当たり前です。僕、腹が立って。僕のさくらさんが、そんなことするわけがないのに」
「僕の?」
「あ……そ、そういうの、いけませんよね。所有みたいな考え」
「いいえ、私、もう一蔵さんのです。一蔵さんも、私の! 大好き!」
「さくらさん……」
ぎゅうと強い力で腕に抱かれ、額を合わせたところでくしゃと紙がつぶれる音がした。はっとして原稿のことを思い出し、慌てて潰れた封筒を引き延ばしにかかる。
いつの間にか笑って、私たちはふたりで作った夕食をとった後、破れた原稿をテープで貼り合わせ補修作業に勤しんだ。