問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
(4)東雲一蔵の恋愛理論
大学の長期休みというのは夏も春も二カ月近くあるが、冬休みの期間は二週間程度と短いもので、加えて教員に学生と同じだけの休みがあるわけではない。補講があったり学生のいない期間に自身の論文をまとめたりすることもあれば、来月には学部生の卒業論文の提出日があるために何もかもが間に合っていない一部の学生を追い込む必要もある。
先んじて大学院のほうで修士論文の提出締め切りが二十六日にあり、うちの学科の場合は、まず提出された論文の基本体裁と内容チェックを助手か助教がして、査読を担当する教員に振り分けをし講評を依頼する流れになっており、私は学生指導の傍らでその作業に追われていた。
修了が掛かっているのだから、初手の確認は厳重に行われ、院生たちはこのチェックで差し戻しが掛かると正月休み返上になる。
だから私はこの数日助教室にこもり切りで、ようやく最後のチェックを終える間際だというのに──
「だからさぁ、ミケちゃん、飲み行こうよ。ほんと旨い店なんだ。俺以外の有名人も結構いてさ」
助教室にこの小一時間来栖先生が居座っている。邪魔以外の何物でもない。
「申し訳ありませんが、再三申し上げているように余裕がないので」
「最近さぁ、以前に輪をかけてつれなくない?」
「以前も同じようなものだったと思います。忙しいので用件がそれ以上ないようなら、お帰りいただけますか」
「とかなんとか言っちゃって、俺がいてもちゃんと手が動いてるじゃん。さすがだよね、ミケちゃん」
帰れと言っても日本語の通じない来栖先生はこの後テレビか何かの収録があるそうで、マネージャーが迎えに来るのを待っているのだという。おそらく学生談話室に誰もいないので、自慢話と無駄話を聞いてくれる相手を探してここに来たに違いない。鍵をかけておけばよかった。
彼の口から垂れ流される話のすべてを無視して、目の前のことに集中し、すべてのチェックを終えて論文の綴じ込まれたファイルを閉じた。終わった。今年の院生も優秀である。そう多い人数ではないが、事前に決めておいた査読の担当教員ごとにファイルと講評用紙、査読時の注意点をまとめた書面をクリアファイルに収め大きな封筒に入れて厳重に封をする。
作業を終えて振り返ると、パイプ椅子で脚を組んで来栖先生がいた。
「まだいたんですか? お待ちになるならご自分の研究室のほうがいいんじゃないですか」
「ひ、ひどくない? ミケちゃん」
洒落た感じの陰影模様が入った来栖先生のスーツに封筒を押し付ける。
「これ来栖先生の担当分です。なくしたら殺します」
「こわ……」
「冗談ですよ。責任をお持ちくださいという意味です。教授でいらっしゃいますので、お分かりでしょうけど」
「ミケちゃん、あのさ、俺、来年で他大の客員教授に移ろうかなぁとか考えててね。やっぱどうしてもここで研究室構えてると、給料そんなでもないのに身動きとりにくいって言うか。それで、ミケちゃんのこと本気で好きだから離れたとしても俺としては仲良くしたいなって思ってんだけど。どうかな」
立ち上がって彼はにやけた顔でそんなことを囁き、するりと私の腰に手を回してきた。手を叩いて払いのけると嫌悪も露わに睨みつける。
「さようですか。私は嫌いです。業務上仕方なく接しています」
「さ、さすがに……傷つく、かなぁ、いいの? そういうこと言って」
「そちらこそ。今のは脅しですか? コメンテーター面で偉そうに世相切ってるくせに、セクハラに加えてパワハラとか、終わってますね」
「……おまえこそ、助教のくせして舐めてんな」
醜悪に顔をゆがめた相手に、私はデスクトップPCのモニタ上部にある球状のものを指さした。
「来栖先生、この間の教授会を収録とやらでご欠席になっていて、たぶんお渡しした議事録も見てないんだと思いますけど、これ何だかわかりますか?」
「は?」
「カメラです。私から提案して我妻先生が了承してくださったんです。名目上、論文一次査読に当たる助教チェックの公平性担保なんですが、密室での来栖先生の言動に目に余るものがあると我妻先生に相談したところ記録を残したほうがよいとのことで。ボス自らすぐに設置してくださいました。これ、全方位録画でスマホでも操作できるんですよ。すぐれものですよね」
「……え、録画……?」
「はい。この部屋に入室されたときから、ずっと記録が残っています。御承知おきください」
来栖先生の頬がひきつったところで、ポケットに入れていたスマートフォンが着信を告げた。ディスプレイを一目見てすぐに応答する。
「あ、もしもし。終わりました。お待たせしてすみません。はい、あとはご担当いただくぶんを先生方にお渡しするだけなので、五分くらいで行けると思います」
にこやかに通話を終え、封筒をごっそり腕に抱えて、蒼い顔を続ける来栖先生に向き直った。
「予定より早く帝信をおやめになることになるとは思いますが、録画を使われたくなければご自分の始末はご自分でどうぞ。仏の顔も三度、とよく言いますけど、これは仏の顔も三度撫でれば腹立てる、いくら仏様でも顔を三度も撫でられては怒るという江戸時代にあった表現に由来するそうですよ。時代背景や当時の文化含めて東雲先生に教えていただきました。私は三度どころではなく我慢して、そろそろ限界ですし、私が我慢して他の女子学生に被害が及ぶことは本意ではありません。意味わかりますよね?」
「え、あ……」
「東雲先生のこともだいぶ待たせてしまってますし、急ぎますので失礼しますね」
「し、東雲先生?」
「ええ。東雲先生。すごく素敵な方で、尊敬していて。お付き合いして、今一緒に住んでいるんです。ご存じありませんでした?」
講義室を覗くと東雲先生はいつものパンパントートバックを教卓の上に乗せ、本に目を落としていた。「先生」と声を掛ければ、彼はすぐに顔を上げ、メガネの奥で穏やかに目を細めて「三池先生、お疲れ様です」と言う。
「すみません、こんなところに呼んでしまって。心理の院生はみんな優秀といっても、細かにチェックするのは大変でしょう」
「人数は毎年五名くらいの話ですけど、分量ありますからね。でもみんな面白い内容なので、結構楽しい時間なんですよ。東雲先生は補講だったんですよね」
「はい。ありがたいのか何なのか、この年の瀬に聴講生でいっぱいでした。レポート課すって言ったら半数近く散っていきましたけど」
笑い合っていると、先生は「実は、少しだけ聞いて欲しいことがあって」と微笑んだ。
「三池先生、──さくらさんて、僕の講義、聞いたことあります?」
「黒板と話してるって有名ですよね」
「さ……最近は、頑張って、人間のほうを向いていますよ」
「言い方。でも、東雲先生、だいぶ変わりましたね」
「さくらさんのおかげです」
「努力したのは一蔵さんでしょ」
「や、あ……はい。がんばります。これからも。そ、それよりちょっと、さくらさんについて考えたことがありまして。聞いていただけますか」
頷くと、東雲先生は背中にあった黒板にチョークを走らせた。大きく円を描き、その中に先生は「生物」「家族」「友人」「寿司」「その他」と文字を書く。独特な癖のある字だ。そしてその円と下側がわずかに重なるようにしてもう一つ小さな円を描いた。いわゆる集合関係を表すベン図というもの。
「さくらさん、好意と恋愛感情の区別がわからないって言ってましたよね。僕、もしかしたらこういうことなのじゃないかと思ったので、それを解説したいと思います」
「はあ」
「まず、この大きな円、これをAとしてAはさくらさんの単純な好意です。相手を好ましいと思ったり、親しみや愛情を覚えたり、あるいは尊敬を抱いたりするポジティブな感情で、さくらさんはこの範囲がとても広い」
「お寿司も?」
「お寿司好きですよね。そしてこの下にある小さな円をBとしますが、このBは性愛的行為の受け入れが可能な範囲を示します。一応、もしかしたら単純な好意を抱かない相手でも受け入れられる可能性を考慮して、円を完全に重ねていないのですが、ど、どうでしょうか」
「え……たぶん、そういう意味ではBはAの中に内包されるのじゃないかと」
書き直しますと言って先生は、大きな円の中に小さな円を含めて書き直した。
「きっと誰しもがこんな感じなんだろうと思います。生き物とそれ以外、あるいは人間とそれ以外のようにカテゴリがわかれているケースもあるでしょうが、好ましく思う感情があって、その中で特定の対象や魅力を感じる相手になら性愛を抱き、行為を可能とする。でも、さくらさんの場合、対象は広く、そして二次元的ではないんだと思います」
「二次元じゃない?」
「はい。心理的な隔たりというか、深さがあって、もう一階層あるんですよ。いいですか」言って、先生は横に長い楕円を三つ、縦に並べて描く。「この一番上の大きな円がAに該当します。次の小さなものがB。さらに小さな円、これをCとし、これらが階層として存在していると考えてください。階層同士に隔たりがあるから、あなたは気づきにくい。このCは、さくらさんの欲求です。あなたからも何かをしたい、たとえば単純なことで言えばキスしたいとか、触れたいといったこと。独占したいとか、自分だけを見ていて欲しいとか。おそらく、これまで交際されてきた男性には求められては応じてきたけど、そういった欲求をあなたから抱かなかったのでは?」
──あぁ。
「……そう、かも」
「さくらさんの場合、このAかつBかつCという、すべてを内包していないと恋愛感情としての好きにはならないんでしょう。今までの人はBどまり。もしかしたら一般的にはBとCは階層にはわかれていないのかもしれません。なので、彼らは好きだと言う簡単な言葉ですべてを括って、あらゆる行為を済ませようとする。あなたと彼らとの認識にはそういうズレがあるのではないでしょうか」
認識がズレていた。
恋愛感情がわからないのではなく、私には今まで、そこに至る人がいなかった。だから、単純な好意との区別がつかなかったのだ。
「理解が……理解ができた気がします」
「ちなみになんですが、さくらさんの中で猫は特殊なポジションであって、こういう枠とは別に、好きイコール猫という感情が存在すると思います」
先生は階層上の楕円の脇に大きな長方形を描き、その中に「ネコかわいい」と書いた。自分のことながら嗜好が特殊過ぎる。
「さくらさん」
「はい」
「僕のポジションは、この図の中だと、どうなってますか?」
黒板に書かれた図を眺め、ややあって私は先生の隣に立つとピンクのチョークを手に取って、AからCを貫くようにはっきりと縦に一本の線を引いた。
「……こんな感じですね。たぶん、この世に一人だけ」
「猫と同じなので、表現がかわいいになるのも頷けます」
「一蔵さんの場合ってどうなっているんですか?」
「僕の世界は、さくらさんとその他っていう非常にシンプルな造りですね」
「世界の解像度低すぎでは?」
けらけら笑い合って、先生は私を抱き寄せると静かに唇を重ねた。
「結婚してください。他の誰にも世界を邪魔されたくない」
「はい」