問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
東雲先生の自宅は、古い一軒家だった。
あたりが暗いせいで全貌は定かではないが、二階建てで、庭木のある瓦屋根の日本家屋だ。墨文字で東雲と掛けられた表札の格子戸を抜け、短い石畳の先にある引き戸の玄関へ向かう。
「親族から預かっている家なんです。以前は大叔母が住んでいたものでして、一応水周りのリフォームは入っていて。で、でも、古いんですすみません。僕、ほ、本がとても多いので、アパートがだめで、アッ庭木とか掃除はシルバー人材センターの人に定期的に依頼をしているので、僕は本当に住んでいるだけで」
「はぁ」
確かに独り暮らしとなれば、庭付き一戸建ては部屋に余裕があるだろう。
どうか今晩だけでも。誓って何もしません。なんだったら手足を縛っていただいても構わないとやけに興奮して訴える東雲先生に、促されるまま、のこのこついてきてしまった。
大学からは少し離れているものの、電車に乗ってしまえばさほど遠いという距離でもない閑静な住宅街だ。
「か、片付いていませんで、すみません」
「いえ、お気になさらず……」
玄関の鍵を開けると、不思議と落ち着く匂いがした。書店の匂いだ。
身長一八〇センチはあろう東雲先生は鴨居に二度ほど額を打ち付けつつ、案内のつもりなのか、玄関、廊下、居間、台所と、灯りを付けて回った。本当に至る所に本が積んであり、あちこちにコンビニの白いビニール袋にまとめられたごみがそのままになっていたりと確かに雑然としていてはいたが、足の踏み場もないような状態ではない。
「よ、よかったら、こ、この部屋をお使いください」
そう言って通された奥の一室は、六畳の一間で押入れの横に床の間がある造りの部屋だった。ただ大量の本がある。
「ほ、本は隣の部屋に退けますね。押入れの中に布団があって。それから、あっちの、廊下を出た先が風呂場とお手洗いで、脱衣所には洗面台もついています。じ、自由に使ってください。ぼ、僕は二階に自室があって、本を動かしたらそこから今日は出ませんので。ぜ、絶対に! 一歩も!」
「あ、あの、そんな、大丈夫ですよ。先生のご自宅なんですし、お世話になるのは私のほうですから、そこまで気を遣われずとも」
「ししし、しかし、三池先生は可憐な女性なので! ぜひ警戒してください!」
可憐な女性なんて初めて言われた。それに加えて、ぜひ警戒──。
警戒されるようなことをしでかすつもりがあるというのか。不思議な言い回しに思わず笑うと、東雲先生は緊張したように肩を震わせた。
「ありがとうございます。家主の言うことには従ってちゃんと警戒はしつつも、東雲先生のことは信用しますね。先生とはあんまりちゃんとお話したことなかったですけど、東雲研の学生さんはみんな礼儀正しいですから」
「三池、先生……」
「お言葉に甘えて今日はお世話になります」と頭を下げると、先生もまた深々と腰を折って頭を下げた。
「あ、はッ、えっ……こちらこそ、不束者ですが、どうぞ末永く」
「今日だけのつもりですが」
「アッアッ! そうですよね、すみません、僕、申し訳ありません! 気持ち悪い自覚ありますすみません」
「大丈夫ですから、落ち着いてください……」
外はすっかり肌寒い十月の末だというのに、東雲先生のこめかみを汗が伝い落ちていった。大きくなったり小さくなったり、青くなったり赤くなったりと忙しい彼を見ていると、ますます珍獣を前にしているような気になってくる。
この珍獣は、頭が良すぎてものの見方が普通の人と異なるため、一般常識とコミュニケーション能力に難がある特殊な生き物なのだ。彼を普通の男性と思えば緊張もするし、良く知らない相手の、しかも異性の家に上がり込むなど早まったことをしたと危惧するところだが、猫背珍獣・東雲だからか、この時の私には、それほどの恐れもなく、なんというかこう──万が一のことがあれば、𠮟りつけて制圧することさえできそうな感じがした。
東雲先生は、私がお風呂を借りている間に本を移動させてしまったようで、低姿勢で二階に引っ込むと宣言通りに物音ひとつ立てなかった。こざっぱりとした部屋に押入れから出した布団は少々黴臭かったものの、私は上の様子を窺っているうちにいつの間にか寝入ってしまった。
助教室で寝泊まりする際には、運動部用更衣室にあるコインシャワーを借りて超短時間洗浄をせねばならないが、久しぶりにゆっくり出来て身も心もすっきりさっぱりで、ついでに肉もビールもご馳走になったものだから満たされていた。
東雲先生は、見た感じ確かにモサいしダサいし、挙動もかなり怪しい。
だが珍獣だからそうなってしまうだけであって、別に中身まで悪い人ではないのかもしれない。
学部棟の中で柱の影からじっと見つめられていることに気付くたび、周囲の学生は妖怪が出たと怯えるからつれない態度を取って、話しかけられても挨拶を返す程度であまりまともなやりとりをしてきたわけではなかった。
食事をしながら社交辞令として「東雲先生のご専門って何なんですか?」と尋ねてみると、民話や巷説の伝播形態とそこから派生してお化けや妖怪といった存在の捉え方をメインとしているそうで、つっかえつっかえ話すし興奮すると早口になるので結局よくわからなかったが、聞き知っている話と合わせる限り、怪しい人の多い業界の中でしっかりとした学術的な知見に基づいて研究を重ねる優秀な人だ。
風貌と挙動を横に置いておいて、同じ研究者としての在り方と彼の心根、そしてトータルの恩を考えると、私は、東雲先生への態度を改めるべきだろう。
少しだけでも。
障子戸の明り取りから差し込んでくる柔らかな日差しに、布団の中で目を覚ます。なんと爽快な目覚めだろう。私は寝転がったまま体をぐんと伸ばし、そのままころんと部屋を仕切る襖に顔を向けて、そしてその瞬間──世界が硬直した。
五センチほど開いた襖。
薄暗いその奥に黒の靴下を履いた大きな足が見える。長い脚を伝い、視線を上げていくと、襖の間からじっと私を見下ろす暗い影があった。
「ハッハッ……み、み、三池先生が、いる……ほんとに、うちで寝てる、ハァッ……かっかわ──」
喉から、ひゅっと、ぎこちなく空気が引き攣れたような音がした。
これが恐怖でなくて何なのか。
「し、東雲、先生……」
「アッ、あっ、すみません起こしてしまって、あの、お、おはよう……ございます」
襖の奥から半分覗いた顔で、にや、と笑った彼に即座身を起こし、私は布団を盾とすべく抱き込んで後ずさった。
「おはよう、ございます……お世話になりまして」
「ね、眠れましたか?」
「ああ、はい。おかげさまで、よく……」
「よかった」
ぎこちなくひきつったような笑顔を向けられ、こちらは乾いた笑いを何とか絞り出すことしかできなかった。
「あの、ぼ、僕、その、ですね」
「は、はい……」
なんだ。何を言い出すつもりだ。部屋に入るつもりか!?
すごい見てくる。怖ッ、つかキモっ!
「ふ、風呂を使わせていただきたいのですが、い、いいでしょうか」
「え──風呂? いや、私に断る必要ないでしょう。ご自宅なんですから」
「そ、そうですか? 廊下を挟んですぐそこですから、音が気になったりとか、あるいは僕が入っているのを想像してしまったりということがあってはと思いまして」
「しないですね。何よりいらないご心配です」
「ウッアッ」
何の呻きだ。落ち着いてほしい。
「あ、あの……い、居間のほうに、さっきコンビニで朝食になりそうなものを買ってきたので、よ、よかったらそれを召し上がってください」
「ありがとうございます。すみません、気を遣っていただいて」
「いえ、ぼ、僕がしたかっただけなので。三池先生のお口に合えば幸いです」
「はは……コンビのご飯って、たいていの人のお口に合うので好きですよ」
「すっ……すき、あ、はい……」
静かな音と共に襖はゆっくりと閉められ、もじもじする東雲先生も消えていった。
──態度改めるという考えは、もう少し考えてからでもいいかもしれない。
そうしよう。