問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
(3) ゲインロス効果
布団を畳み、洗面所は使えなさそうなので、失礼ながら台所の流しで顔を洗わせてもらった。
居間の座卓の上には白いビニール袋が置かれており、見れば、おにぎりやらサンドイッチ、サラダにパスタにパン、フルーツジュースにヨーグルトからプリンまで大量の食べ物が詰まっていた。
「なんとまぁ贅沢な」
するとその時、何かか細く呼ぶ声を聞こえた気がして、もしや猫かなにかいるのかと改めて耳をすませてみると、風呂場の方から「み、み、みみ、みぃ……」と鳴く声がする。季節外れの蝉、いや妖怪の類──
「みぃけ、せんせぇ……」
脱衣所にいるらしき東雲先生が呼んでいた。
恐る恐る近づいてみると、廊下と脱衣所を仕切る扉から水に濡れた男の長い腕が、こちらに向かってぎこちなく手招きしている。
──怪談だ。
「どうされました……?」
「あの、すみません……き、着替えを、台所のテーブルの上に置いてきて、しまいまして……」
「着替え?」
言葉の通り、着替えが一式、台所の小さなテーブルの上に置かれていた。それを手に脱衣所に戻ると、腕だけ妖怪はアッアッと声にならない声で感謝を示した。
「す、すみません、本当に……とんだご迷惑を」
少しだけ引き戸の向こうから顔を覗かせた東雲先生に、思わずぎょっとした。
腰にバスタオルを巻いただけの姿だった。慌てて目を逸らしたのは、風呂上がりのあられもない格好だからというわけではない。
──だ、誰?
厚みのある体と引き締まって割れた腹筋、濡れた髪をかき上げて露わになった素顔。男性的な骨格、くっきりとして彫りの深い印象的な目元にすっと通った鼻筋。考えてみれば、元々口元だけは色っぽかったような気がする。これだけの完璧に整ったパーツが、あのモサい髪と皮脂で汚れたメガネの奥に隠されていたとでもいうのか。神秘か!?
「三池先生?」
「はえっ!?」
「あ、朝ごはん、よかったら先にどうぞ。ぼ、僕も着替えてすぐいきますので」
「はっ、はい!」
思わず動揺しドギマギしながら居間で待っていると、現れたのは普段通りのモサくてダサくてなんかちょっとキモい感じの東雲先生だった。そのメガネには魔法か何か非科学的な力があるのだろうか。実は呪物と言われても今なら納得できる。
先程の脱衣所にいたのは錯覚か別人だったのかもしれない。錯覚だとすれば、錯視量が大きすぎるが、人というのは、ネガティブな情報の後にポジティブなものを見せられると、ポジティブな情報により大きな影響を受けることがあるものだ。これもおそらく似たようなものだろう。
「先に召し上がっていてくださってよかったのに……」
「いえ、お世話になっておきながらそういうわけには……」
なんとなく気まずい雰囲気で、互いに違う方向に視線を向けた。すると東雲先生はそこでふと部屋の様子に気がついたようで、「も、もしかして、片付けてくれたんですか、こ、このへん」と慌てた様子で長い腕をバタバタと動かした。やはり動きが少し気持ち悪い。
「すみません、余計なことして。待ってる間なんかちょっと手持ち無沙汰で、ごみを集めただけですけど。本は触っていなくて、新聞と雑誌はまとめてあちらに」
「あ、ありがとうございます!」
「新聞三紙もありましたけど、たくさん読まれるんですね」
「い、いえ……か、勧誘、断れなくて……」
うわぁ、この人、浄水器も羽毛布団も高級な洗剤も勧められたら買ってしまう人だ。
「えっと……朝ごはん、頂いてもいいですか」
「は、はい!」
気分を誤魔化すように努めて明るく私はサンドイッチを頂くことにした。包装を解いてハムとレタスのサンドイッチを口に運ぶと、東雲先生は「三池先生、ブラックでよかったですよね。紅茶もストレート」とボトルの缶コーヒーを渡してくれる。
「あ、ありがとうございます……」
なぜ知っているのかはこの際スルーしよう。顔を上げれば、東雲先生はおにぎりを握りしめながら、こちらをじっと見つめていた。
「あの……何か?」
「す、すみません、食べづらいですね。いや、き、昨日も一緒に食事ができて、それだけでも感激だったのに、み、三池先生とこうして朝食を共にする日がくるなんて、夢のようで……」
「そう、ですか……」
「いわゆる男女が一夜を共にしたことを意味するモーニングコーヒーという隠語は、日本において一九六〇年代にヒットした歌謡曲の歌詞から広まったとされているそうです。へへ、三池先生と、モ、モーニング、コーヒー」
「はあ。……ってか、ハア? ご馳走になっておいてなんですけど、別にこの朝食にもいま頂いたコーヒーにも深い意味など一切ありませんが」
「お、おっしゃるとおりです、すみません! 何喋っていいかわからなくて、よ、余計なことを……」
東雲先生は、恥じ入るように深く俯いた。急にキツく言い過ぎたかと反省して、私はちょうど視線の先に止まったプリンを手に取ると、テーブルのうえでおにぎりを握りしめる彼の手の近くに置いた。
「……こちらこそ、すみません。私、性格キツいところあって」
おずおずと顔を上げた東雲先生は、手元に置かれたプリンに目をとめると静かにそっと微笑んだ。
「三池先生は、とても優しいです。プリン、僕にくださるんですか」
「私はいいので。……先生、それ、お好きなんですよね」
「はい……覚えていて、くださったんですか」
まぁと言えば、握りしめる対象がおにぎりからプリンに変わった。おにぎりはすっかりひしゃげてしまっている。
同じ教員で同じ学部とはいえ、東雲先生とはこれまでほとんど話したこともない。けれど、彼のことで印象に残る記憶がひとつだけ存在していた。