問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。


 学内の購買スペースは学生も教職員も区別なく利用する。一年ほど前のある日、私は作業しながら何か摘めるものでも買っておくかとそこを覗いて、菓子のついでに飲み物を手に取り、プリンやらゼリーやらが並ぶ冷蔵棚を通り過ぎようとした。
 するとそこで見覚えのある一年生の女の子たちが数人、種類の違うプリンを両手に悩む猫背の東雲先生をこれ見よがしにクスクスと笑っていたのだ。

『プリン持ってブツブツ言ってんのヤバくない? キモッ』
『あれ、教養の授業の人でしょ。文学部』
『ウッソ、あれでセンセー? ないわぁ』
『あの人でしょ、妖怪って言われてんの』
『マジ? じゃ、うちらはプリンて呼ぶか』

 高校生気分の延長で、不思議と気が大きくなるのはわからないではない。加えて実際、プリンを両手にぶつぶつ何か独り言をつぶやいているデカくてモサい成人男性という絵面が大変気持ち悪いというのも頷けた。
 だが、そのやりとりは東雲先生の耳にも届いており、彼は私が見つめる中、猫背をより一層丸めて、左手に持っていたプリンを震える指先で棚に戻したのだ。

「──あの時、三池先生が、僕をからかった女子学生にしっかり言い返してくださったの、僕は一日だって忘れたことありません」
「そんな大袈裟なことでは」
「大袈裟ではなく、ぼ、僕にとっては、三池先生に憧れた瞬間でした!」

 あの時、私は何と言ったのだったか。

『もし今ここが大学じゃなくて会社だったら、あなたたち一発で処分受けることになるよ。教員に対して失礼にもほどがある。悪口言って盛り上がりたいときは、人目のないところで穴でも掘るか、カラオケ行って叫んだらどう?』

 確かそんなことだ。文学部の一年は共通の一般教養として、基礎心理学が必須科目となる。彼女たちは、心理学科の学生ではなかったが、助教の私も出入りする概論の講義を受けていたはずで、向こうもどうやら私の顔は覚えていたらしい。
 目が合うと彼女たちは、すみませんとかなんとかを口の中でもごもご行って、逃げ去っていった。

『あと、東雲先生は民俗学の先生だから!』

 彼女たちの背中に投げつけるように言って、振り返ったところでものすごい至近距離に毛玉のセーターを着た東雲先生が立っていた。かなり驚いて、恐ろしく鼻息の荒い彼をあしらいながら、彼女たちがキモいと評した言葉に心の中で同意した覚えがある。

「ぼ、僕は昔から、こうで」と東雲先生はプリンを握りしめながら口を開いた。「幼いころからずっと変だとかおかしいとか、ダメだとばかり言われ続けて、でもどこがどうおかしいのかそういうのもよくわからなくて、言い返すこともうまくできずに、いじめられることにもからかわれることにも慣れてしまっていました。で、でも、三池先生は、違って、堂々と……」
「一応、我々は学生を指導するのも仕事のうちですから。ナメられがちですけどね」
「そう、そうですよね。僕なんてナメられっぱなしの上に、シノノメじゃなくてジメジメ妖怪だそうです。あ、でも妖怪になれるのは少し嬉しくて」
「嬉しいんですか?」
「はい。好きなので。でも、僕は、慕われない、存在だけの妖怪みたいですね。三池先生のほうは、言うべきことはしっかり言うのに、優しさもあって気さくだから、学生たちからとても慕われていらっしゃるようで、とても、素敵だと思いました。あの日以来、僕、み、三池先生がとても気になって……」

 もしやそこから始まったのか、東雲先生の学内ストーキング。

「──ずっと憧れています。帝信の心理学と言えばそうそうたる教授陣で、三池先生はそこに連なる助教でいらっしゃる。通例的なものと伺っていますが、授業のほかにあの方たちのサポートまでされていますよね。仕事はかなりお忙しいでしょうに、先生はご自身の研究もきちんと続けられていて、す、すごいなって。論文も読んでます! 先生の卒論も資料室入らせてもらって探しました!」
「私の卒論?!」
「はい! 修士論文も、博士論文もその後に上梓されたものも全部!」
「わはぁなんていうか……旺盛な知的好奇心で……ねぇ……」

 わざわざ探すな。
 だいたいどう断って民俗学の准教授が心理の資料室に入ったというのだ。

「すみません、気持ち悪いですよね、き、急にこんなこと」
「いや、はは……まさか東雲先生にそこまで見られていたとは知らなかったので驚きましたけど、自分の成果を誰かに認めてもらう機会って実はなかなかないので、そこは素直にうれしいですよ。ありがとうございます」
「ほっ、本当ですか? ぼ、僕のほうこそ。三池先生のすばらしさをお話していいなら、このまま何時間でもいけますが」
「結構です、もう十分なんで」
「恥ずかしがらなくても」
「いやダイジョーブです、ほんと」
「ほんと?」

 恥じらっているのではなく、嫌がっているのだと理解してほしい。
 相変わらず食い入るように人のことを見つめてくる東雲先生の視線に耐えながら、ひとり黙々と朝食を終え、私は改めて畳に手をついて頭を下げた。

「すっかりご馳走になってしまって、何から何まで本当にありがとうございました。これでお暇させていただきます。なるべくはやく新居は探すつもりですが、落ち着いたら改めて今回のお礼をさせてください」
「あ、あの、あの、そ、そのことなんですが、き、昨日一晩寝ずに考えまして、よかったらあの部屋しばらく、つ、使いませんか?」
「……はい?」
「この通りで部屋は余っているんです。三池先生が気にされるようであれば、僕が出ていくでも構いませんので、この家をつ、使っていただいて」
「ちょ、ちょっと待ってください。先生が出ていかれるのはおかしいでしょう、そこまでしていただく必要ないですよ」
「で、でも、現状新居の宛はなく、探すにしても時間がないんですよね。まとまった休みなんて年末年始ぐらいですから、まだ先のことですし。ここを出たら、また助教室の床で寝袋生活に戻られるんですか? 床とソファと漫画喫茶とカプセルホテルで回すなんて、絶対体を壊します。少しでも落ち着いた生活をされたほうがいい。お金なんてもちろんいりませんし、ネットも無線のパスワードをお伝えします。別回線のほうがよかったら新しく契約しますよ」
「え」
「あ、あと、僕は電子レンジかお湯沸すくらいでほとんど使わないんですが、台所も好きに使っていただいていいですし、三池先生なら何をどう自由にされてもかまいません」
「あ、あの」
「僕、もともと部屋からほとんど出ませんし、二階にもトイレあるので、と、時々風呂を使わせてもらえたら、できる限り存在を消して物音も立てず、二階から降りないようにしますから。あっ、そうだ物置! 庭に物置あるんです! 僕そこで寝起きするでもいいです! も、もちろん誓って、先生には、ぜ、絶対何もしません。間違って触らないよう、すれ違う時も半径二メートルの距離をとるようにして、に、匂いも、三池先生、すごくいい匂いしますけど、か、嗅がないようにします。堪えます。だ、だから!」
「わ、わかった。わかりました。わかりましたから、少し落ち着いてください」
「わかったっていうのは、ここに住んでくれるということですか? ぼ、僕、今すぐ出ていったほうが、それとも、も、物置?」
「出て行かなくていいです、物置も大丈夫。先生は自分の家なんですから普通に生活してください」
「じゃ! じゃあ!」
「待って、だから落ち着いて! 熱意なのかなんなのか、ご厄介になってもいいということは、よくわかりましたし、東雲先生のことも信用、しますから」
「ハッ、ハァアッ──、はいっ、しっ信じて!」
「うっ、いったんね、とりあえずいったん信じる方向というか、そんな感じで思わなくもないというか……」

 前のめりで身を乗り出す東雲先生の圧がすごい。

「でも、どうしてそこまで」
「それはその、まずは単純に、先生が心配です……。僕なんかに心配されてもって思うでしょうけど、三池先生のような女性が、キャリーケースひとつ転がしながら毎日あちこち点々とされているなんて、どこかで何かあったらと思うと、こ、怖いですし。何より、僕は、あの時先生に助けていただいたので、あなたが困っているなら──今度は、僕が助けたい」

 とりあえず一週間か二週間、ルームシェアという形で試してみて、生活が合わないようなら、その時また考えてはどうかという話に落ち着いた。
 新居を探すにも拠点があったほうが何かと便利だろうし、先生の言う通りに、キャリーケースを転がしてセキュリティも何もない談話室のソファや、漫画喫茶を渡り歩く流浪の民をし続けることは、近い将来無理が来るのは目に見えていた。
 ならば、少しだけでも試してみるのは悪い話ではない気がする。

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