問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。
二章 認知バイアス
(1)自己肯定感
「ミケちゃんさぁ、もしかして新居見つけたの?」
心理学科の学生談話室にはインスタント粉末を使ったコーヒーメーカーがあり、三十円を機械横の箱に入れるとボタンひとつで誰でも自由に飲むことができる。
助教の仕事とも思えなかったが私以外誰もやらないため粉の補充をしていると、社会心理学を専門とする来栖教授がステンレスのマグカップ片手にやって来て、私の順番を普通に抜かし「ありがと」などという軽い言葉と共に十円玉を渡してきた。ああ私がやれってことかと受け取ったカップをセットしていると、その横で世間話でもするかのように尋ねてきたのである。
来栖先生は小洒落たスーツを着て、小洒落たメガネを掛けている小洒落て気取った人であり、心理学教授陣の中ではずば抜けて若くまともな人を装っているが、この人もまた距離感がおかしいという意味で変人だった。私を変なあだ名で呼ぶ。
「みんなでご飯でもいこっかなと思ってたのに今週は夜にここ来てもいないみたいだし、キャリーケースも転がして歩いてるの見かけないからさ」
「まだですけど、さすがに助教室で寝起きしながら新居探すっていうのも落ち着かなくて、ちょっと知り合いのところに間借りを」
「また?」
「ま、また……」
来栖先生はそこで声を潜めると「困ったら俺のマンション来て構わないって言ったのに」とこそこそ囁いた。学生たちがいる談話室でするような話題ではない。
「あはは……いやぁほんと、来栖先生のお宅なんて滅相もないですし、まったくそんな関係でもないですし、無理ですし」
「無理ってひどいなぁ。結構いいマンションだよ? 俺、最初に誘った時も本気だったんだって。ミケちゃん可哀そうだからさ」
「いやいや、人気コメンテーターなのにスキャンダルになるようなことマズイでしょう。私、先生のファンから刺されるのごめんですよ」
彼は近頃ちらほらとテレビ番組のコメンテーターとして出演することもあり、そのことをヨイショして口にすれば満足したのか、得意気な顔でコーヒーに口を付けて笑った。
「ファンて。俺なんてタレントでもなんでもないよぉ。でもま、確かに最近、街中でも声かけられることもあるからねぇ。もし別なところ探さなきゃ行けなくなったら声掛けて」
「次は間借りじゃなくて新居の予定なんで」
「そうなの? ミケちゃんみたいな子ならいつでも大歓迎だよ。あ、明日の講義用の資料印刷よろしくね」
「はい、準備して後ほどお持ちしますね。できたら次から自分でやってくださーい」
背中を触れられそうになったところをサッと交わし、とぼけた顔でひらひら手を振って談話室を後にした来栖先生を薄ら笑いで見送っていると、背後からは「ああいうのってセクハラじゃないんスか」と聞きなれた軽い女性の声がした。
振り返れば、院生の松坂さんがショートカットの毛先を揺らし、口の端を引き上げている。博士課程の二年目で、私と専門にしている領域が近く、人懐っこいこともあって個人的にもかなり親しい仲だった。
「女とみると舐めてかかる。ここにあたしやら女の子がいると、悪いけどコーヒー淹れてくれる? って言ってくんのマジでやめて欲しいっスわ。ボタンひとつ押すのそんな手間かって話」
「げぇ、松坂さんにもやってんの? 前も教授会で学生にお茶くみさせるの禁止って通達出してもらったのに」
「やり口がうまいっつーか、あの人、ここにいる子たちにも一斉に声かけるんスよ。コーヒー飲む子いるなら奢るって言って、金も多めに払ううえ、松坂さんが淹れてくれると美味しいよねとか抜かす」
たまになら引き受けてやってもいいのだろうが、それが頻繁でしかも人を選んでいると気づくと途端に嫌気がさしてくるのだろう。
ごめんねと謝罪を口にすると、彼女はただの愚痴と言って快活に笑った。
「つーか、相変わらず三池センセに粉かけてんスね。ほんと節操ねぇなぁ。あの人、この前アシスタントだかマネージャーだかと腕組んで校内歩いてましたよ」
「ああ、それ私も見た」
「あの強気ってどこから来てんスかねえ。爆高の自己肯定感? 自己効力感? 自分がモテるという確信が大いなる勘違いであると気づかないのって一種のストレスコーピングなんスかね。いずれにせよメンタル強そうで、羨ましいっつーか」
清々しいほどの言い様に乾いた笑いを返したところで、松坂さんは来栖先生の消えていった廊下の奥に目をやった。
「ま、あっちの人みたいに自己肯定感低すぎんのも考え物だけど」
視線につられて振り返ると薄暗い廊下の柱の影で、オドオドと音が出るほどおどおどしながらこちらを伺っているモサいメガネがいた。背が高く無駄にガタイがいいせいで少しも隠れることは出来ていないのに、足元が居場所に迷って右往左往しているから、東雲一蔵はいま動きがとても気持ち悪い。
「うわぁ……」
「東雲センセー! 心理になんか用スか? 単身カチコミ?」
松坂さんがハッキリとした大きな声で尋ねると彼は大袈裟なほど肩を震わせ、そのままゆっくりと後ずさりを始めた。動きが珍獣のそれである。
「おもれぇ過ぎる。あのセンセ」
「まったく……」
私はため息を吐いて、談話室から廊下に出た。用があるのは私なのだろう。
「どうしたんですか?」
「や、アッ、あの……す、すみません、学内で話しかけてすみません……」
「いいですよ、そのくらい。同じ学部の教員同士なんですから、同僚でしょう」
「そ、そうですね、ど、同僚……」
にちゃ、と湿度の高い笑みを浮かべた東雲先生に思わず目元が引き攣る。私は彼を廊下の端に寄せると、改めて「それで何かご用ですか?」と尋ねた。
「エッあっ、その……ぼ、僕、今日、と、トイレ……」
「トイレ?」
「トイレット、ペーパー……買って帰りますって、言いたくて」
「ああ、そういえば。ストックなくなったんでしたっけ。わざわざ言いにいらっしゃらなくても、スマホに連絡くれたらそれで良かったのに」
「スマホ、家に忘れて……こ、これから僕、ずっと会議なのではやく言わなきゃと」
どんどん俯く東雲先生を私は下から覗き込む。
「会議、遅くなるんですか?」
「へっ?! しぃ、したからっ!?」
「すみません、不躾に。先生、すぐに俯くので」
「も、申し訳ありません首を固定して生きていきたいと思います。か……いく、て死ぬかと」
「はい? 何て?」
「い、いえ、じゅッ……、十八時、までには終わるとお、思います、会議。終わり次第すぐ帰ります」
「そうですか。なら、東雲先生のぶんも晩御飯用意しますから、よかったら」
「今日も、いいんですか?」
「自分の作るついでなので。麻婆豆腐、平気です?」
「すゥッ好きです!」
「春巻きもあります。揚げるだけになってるやつですけどね。今日は中華の気分なので」
耳まで赤くなる先生を前に、どうしてこの人のメガネはいつも曇っているのだろうと思いつつ、私は微笑んで目を細めた。
「じゃあ、トイレットペーパーよろしくお願いしますね」
「は、はいっ! あ、あのダブルでいいですか? 匂いとか模様とかあったほうがいいですか?」
「何でもいいですよ。私は使わせてもらっている身なので、こだわりあるなら先生のお好きにしてください」
「わ、かりました……なんだか、新婚さん、み、みたいですね」
「は?」
「な、何でもないです申し訳ありません!」
ひょんなことから東雲先生の家でお世話になって一週間と少し。
この人には、生活能力というものが一切ないということが判明した。