問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。


 東雲先生は今年で三十六になるそうだが、料理はもちろん、掃除も洗濯も何ひとつ出来ない。
 食事はインスタント、または外食かコンビニ。集中すると文字通りに寝食を忘れることがあるため、普段はスマホのアラームで細かく時間管理をしているそうだ。
 どの本がどこにあるか全て把握しているのに、掃除しているうちに別なことを始め、靴下がすぐに片方行方不明になる系統の人間だった。そのためチグハグでもバレないように彼の靴下は全て黒で統一されている。
 自宅の清掃は、定期のハウスクリーニングを契約し、他に週に一度風呂とトイレといった水周りの掃除をシルバー人材センター経由で依頼するという他人任せ具合で、洗濯は近所のクリーニング店に全面的な信頼を寄せ、靴下と下着は風呂に入りながら石鹸で手洗していたと聞いた。
 ついでに言うと、自宅にあった洗濯機は大叔母さんが暮らしていたというころから変わっておらず、この時代にまさかの二槽式で、当然使い方など知らない東雲先生は、洗剤と柔軟剤を買ってきて手順を示すと、初めての文化に触れた少年のように興奮していた。

 必要経費が多すぎて金の貯まらない人間である。
 セールスからすると、ネギどころか白菜も人参も背負って自分から鍋に入っていくいい鴨だ。
 あまりのダメさに驚いて、私は自分の生活をするついでに、よせばいいのについつい世話を焼いてしまった。
 放っておくと死ぬか事故るか、犯罪に巻き込まれそうで、よく今まで無事に生きてこられたなと思う。
 なにせ、東雲邸の一室を間借りさせてもらうことを決めた日、朝食を終えた東雲先生は仕事があると言って二階の自室に籠ったきり、翌日の朝まで一切一階に降りてくることがなかったのだ。

 私はその間、晴れ渡る秋空にカビ臭かった布団を干し、借り受けた部屋を掃除して、ついでに方々に散っていたゴミを集めて台所と居間も掃除させてもらい、メモを残して近所をぐるっと見て周ると、コンビニとスーパーを発見して日用品と食料を買って帰宅した。相変わらずしんとした室内にもしや出かけた? などと思いながら、台所を失敬してささやかな一人分の夕食を用意し、なかなか大変な思いをしながら米を買ったのに東雲家に炊飯器がないことにそこで気づいて絶望しつつも、気づけば悠々自適に夜を過ごし、日曜の朝になってようやく、東雲先生死亡説を疑った。

 いくら二階にもトイレがあるとはいえ、ちっとも物音がしないというのは、考えてみればおかしな話だ。
 私は、ためらいながらも恐る恐る、昔ながらの急な階段を這い上がり、意を決すると、
「東雲せんせぇ……生きてますかぁ?」
 と、呼びかけた。
 階段の途中にも二階の狭い廊下にもあちこちに本が積まれている。

「先生、あの……三池です。生きてたらお返事だけでも」

 耳を澄ましてみると、微かに奥の部屋のほうから、キーボードを叩くようなカチャカチャという音がする──と思ったところで、その奥の部屋の襖が勢いよく開き、東雲先生が血走った目でどっと飛び出してきた。

「ひぃいっ!」
「三池先生っ!」

 あまりの形相に驚き、その瞬間、私は階段から足を滑らせてしまった。転げ落ちる寸前のところを東雲先生に腕を引かれ、抱きとめられて事なきを得たのだが、突然のことに激しい心音が耳の横で鳴っている気がした。それが私のものか、密着した東雲先生のものかもわからない。

「み、みみみ、三池、先生が、お、落ち、落ちる」
「た……たすかり、まし」

 た、と言い終わる前に顔を上げた私は、至近距離で東雲先生と目が合った。そういえば抱きしめられている。理解が至った直後、私は弾き飛ばされ、壁に後ろ頭を強かに打ち付けた。

「いっ──たァ!? 何すんですか!」
「ごめんなさいすみません! せ、先生があまりに近く、先生を抱き……というか抱きしめた感触が信じられないほど柔らかかったのですが、三池先生って綿か羽毛でも詰まってるんですか?」

 何言ってんだこの人は。
 顔にそのまま書いてしまっていたのか、東雲先生は途端両手で頭を抱えて慌てふためいた。

「ち、違うんです! 柔らかかったのは本当ですが、三池先生、そんな華奢なのにどうしてと思っただけで、僕と違うのどうしてかわからないし、すごくいい、いい匂い、が……!」
「だからと言って突き飛ばすことないでしょう」
「すみませんすみません! 申し開きのしようもありません、触れないという誓いをさっそく破って、だからその、今すぐ……腹を切ります……」

 詫びの仕方が物騒すぎる。
 青ざめる彼を前に、私はたんこぶでも出来ていそうな後頭部を押さえて、息を一つ吐き出した。

「謝らなくていいです。勝手に来たの私ですし、東雲先生は落ちそうになったところを助けてくださったんですから、不可抗力でしょう。むしろ、落ちずに済んだので、お礼を言わなきゃならないですし」
「さ、触っても大丈夫ということでしょうか」
「今回は仕方ないって言ったんです。今回だけ!」

 東雲先生はがくがく頷いた。

「それより、大丈夫ですか? 本当に全然物音がしなくて、一度も下に降りてこないとか。配慮していただけることはありがたいんですが、ここ、東雲先生のおウチなんですから、気を遣われすぎても、自分が図々しい気がして返ってやりにくいと言うか……」
「い、いえ……その、本当にすみません……やらなきゃいけないことがあったんですが、過集中というのか、僕、集中していると周りが見えなくなってしまって、ダメで。今回、ア、アラームを設定するの忘れていたようで、気づいたら朝になっていて……」
「……寝てないってことですか?」
「たぶん途中で、三時間くらい意識がなかったのでどこかでは寝たと思いますけど、それがどのタイミングかはわかりません。さっき三池先生の声が聞こえた気がして、そこでようやく、先生が、こ、この家にいるのを思い出して……」

 ──うわぁ……。

「ご飯は?」
「……食べて、ないです」
「いつもこんな感じなんですか?」
「え、ええ、まぁ……で、でも、平日は出勤するという予定があるので、月曜から木曜は零時までに寝るというルールでアラームを設定しています。ちゃんと出来てます。木曜は、次の日私大の講義で先生に会えると思うと、何を話そうかなって楽しみになってしまって、なかなか寝付けないんですが……」
「はぁ」

 別に話していなかったと思うが。
 するとそこで、ぐぅと地鳴りのような音がして、東雲先生の腹の虫が鳴いた。先ほどまで青白かった彼の顔が耳の端まで赤く染まっていくのを見て、私は頬が緩むのを抑えられずついつい笑ってしまった。

「ごめんなさい。──よかったら、一緒に何か食べませんか? 私も朝ごはんまだなので。トーストと目玉焼きくらいの話ですけど、台所お借りして用意しますから」
「え……み、三池先生が?」
「はい。勝手ながら、ちょっとあちこち掃除させてもらいました。あ、本は東雲先生なりのルールあるのかなと思って動かしていませんけど、居間とか。台所は私も使わせてもらいたかったので。自由にしていいってことで甘えてしまったんですが、よかったですか?」
「は、はいはい! もちろん! あ、ありがとう……ございます」
「こちらこそ。お部屋を借りている身なので、このくらい。あと、集中されるのはいいですけど、食事とか気を付けないと、東雲先生のほうこそ体壊しますよ」
「はい……はい、気を付けます」

 居住まいを正して神妙に頷く先生に笑い、私は改めて変な人だなと思った。
 どたばたと風呂場に向かい、東雲先生はものすごい速度で身支度を整えた。その日は居間でトーストにベーコンと目玉焼きにインスタントのコーヒーという簡単な朝食を共にし、いつ死んでもいいですなんて意味の分からないことを言い始めた彼がうとうとと舟を漕ぎだしたのを機に、私は、前日についでとばかりに干した押入れの中の来客用布団を引っ張り出した。追い込んだ珍獣が、柔らかな布団で長い脚をはみ出しながら即座爆睡を始めたのを見届け満足すると、私は電車に乗って近くの家電量販店に向かい、三合炊きの小さな炊飯器を買った。
 これで炊き立てのご飯が食べられるという喜びに炊飯器の箱を抱きしめながら帰宅すると、ちょうど玄関から飛び出してきた東雲先生と出くわしたのだ。

「み、三池先生……!」
「あれ、東雲先生、もう起きたんですか?」
「か、帰って……きた?」
「え? はい。炊飯器欲しくて」
「す……炊飯器?」

 見れば先生は右足にサンダルを履いているのに、左足にはそれがない。玄関の引き戸も開けたままでメガネはズレているし、何やら異様なほど慌てていたように見える。

「もしかして、私のこと探してました? ずっと寝てるかと思って、書き置きしないで出てきちゃったから」
「ぼ、僕に呆れて……出ていかれたのかと」
「いや、さすがに無断では。もう二日もお世話になってるわけですし、一応の礼儀はあるつもりです」
「そ、そうですか」
「それより、お昼におにぎり食べません? この炊飯器の実力テストといきましょうよ。あ、さっき食べて寝たからそんなにお腹空いてませんか?」
「いえ! いえ、いただきます! おにぎり!」
「本当はお味噌汁作ろうかなと思ってたんですが、お味噌まだ買ってなくて」
「あのっ、インスタントでよければあります」
「ほんとですか。昨日、棚のお皿お借りたんですが、このお家、古いお鍋とか食器はやたらしっかり揃ってますよね。いい和食器というか、立派なものが多くて」
「鍋も食器も大叔母の暮らしていた時のものがそのままで。あと布団とか」
「へえ、大叔母様はいい暮らしをなさっていたんですね。あと、さすがに連絡先交換しましょうか。メッセージアプリ使ったほうが書き置きより楽ですし」
「は、はい!」

 そんなこんなで、私は気まぐれに東雲先生への餌付けを始めてしまった。
 部屋を貸してもらっているという恩もあるし、一人分も二人分も作る手間は変わらない。それに先生は生活能力が終わっていたが、指示を出せばちゃんと動く規則正しい珍獣だったので、一度炊飯器の使い方と米の研ぎ方を教えると私が残業で遅くなる時は「ご飯を二合炊いておいてください」と司令を出せば、炊飯器の前でご飯がちゃんと炊きあがるか固唾を飲んで見守っていてくれた。
 偏食かと思えば好き嫌いなく何でもおいしそうに食べるし、いただきますもごちそうさまもきちんと言うし、何だったら毎回長々と私を拝んでから食べ始める。案外所作が綺麗だった。


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