問題:同僚准教授が偽装結婚を迫ってきた場合、受けるべきか否か。ただし、准教授は変人で学内ストーカーであるが御曹司とする。

 (2)ハロー効果


 東雲先生の言動は未だキモさを感じるものの、不思議なことにひとつ屋根の下で暮らしていても嫌悪感はなかった。先生は距離感を保って、頑張って私のプライベートを覗かないようにしてくれており、むしろ私のほうが気を遣いまくる先生をなだめすかして色々やらせてもらったくらいだ。
 洗濯も毎度洗濯機の仕事ぶりを見守り続ける先生がウザくて、パンツだけ自分で洗ってもらうことにして、私がまとめて洗いまとめて干した。このほうが先生の靴下も失踪しない。
 数日のうちにお互いなんとなく生活ペースを掴み、食事が済むと手分けして片付けや洗い物し、その後、東雲先生は私にお風呂をどうぞと言って、そこから二時間は自室から出てこない。私はその間に風呂を済ませ、就寝の支度をして持ち帰った仕事をしたりタブレットで論文を読んだり、映画を流しながらストレッチしたりして、零時を過ぎても先生が風呂に向かわない場合、過集中防止で電話を掛けることにした。
 ドタバタ階段を降りてくる先生に襖の隙間から「おやすみなさい」と言って一日は終了だ。

 そんなふうに過ごして一週間と少し、いや、何のかんのもうすぐ二週間か。
 気がつけばカレンダーは十一月に変わっていた。今週は金曜が祝日とあって木曜日に翌週の準備が立て込み、帰り際に面倒なことをへらへら悪びれもなく頼んでくる来栖先生に軽い殺意を覚えながら、その日は遅くまで残業をしてくたくたになって帰宅した。

「お、おかえりなさい、三池先生……お疲れ様です」
「ああ……お疲れ様です、遅くなってすみません」
「あ、あの、ちゃんとタクシー使いました?」
「……前も言ったかもしれませんけど、駅からここまでの距離をタクシー移動なんてできませんよ。富豪じゃないし、運転手さんもたかだかワンメーターでキレるでしょ」
「で、でも、もう暗いですし寒いですし、み、三池先生に何かあったら」
「何もないです。それより、先生こそちゃんと夕飯食べました?」

 玄関まで出迎えてくれた東雲先生に、靴を脱ぎながら顔を上げると彼は「そ、それなんですが」とチラチラ居間のほうに視線を向けた。

「ご飯、炊いてあります。それで、あの……僕さっき、コンビニでおでん買って来たんですけど」
「おでん?」
「は、はい。三池先生、いつもものすごい手際で大変美味しいもの作ってくださいますが、今日はもう疲れているでしょうから。何か予定していたものとかあったら申し訳ありません。でも、あの、おでん、一緒にどうかと思って……」
「……待っていてくれたんですか?」
「は……い、すみません。ひとりだと、なんだか食べる気なくて。も、もしかして、おでん苦手だったりします? おでんに白いご飯て変ですか?」

 急に慌てはじめた東雲先生を前にして、私は疲れていたはずの重たい気分がなんだかふいに軽くなった。

「変じゃないですよ。おでんも好きです。ありがとうございます!」
「ほ、ほんと?」
「うん、ほんと。私、手、洗ってきますね」

 戸惑う先生の背中を押して促し、私がバッグを部屋に置いて、手を洗って居間を覗くとすでに東雲先生が諸々の準備を整えてくれていた。なんと「明日、お休みなので」と缶ビール付きである。豪勢だ。
 缶のふちを突き合せて乾杯し、冷蔵庫の残り物とコンビニおでんと白いご飯で夕食を囲む。東雲先生は相変わらずたどたどしいものの、ふたりで顔を合わせると、自然と会話もできた。時折スイッチが入るらしい専門的な話を聞くのも面白い。

 東雲先生って、ちょっとかわいいところあるな。
 それまで、サービス残業と来栖先生への怨嗟をまき散らしていた荒んだ心を満たす、このあたたかな気持ちは何なのだろう。考えて思い至ることは、懐いたモサい珍獣が、図らずも心温まる芸を披露してくれたような、そんな状況に近かった。成長を感じるのだ。

「──あ、そ、そういえば、荷物届いていました」

 食事もあらかた済んだところで、東雲先生は台所の小さなテーブルの上においてあった大きめのクッション封筒を手に戻ると、そばに膝をついてそれを私に差し出した。ネット通販で注文したものである。

「ありがとうございます。送り先に名前借りちゃってすみません」
「い、いえ。三池先生になら、名義だろうと通帳だろうとなんでもお渡ししますので」
「東雲ジョーク炸裂してるところ悪いですが、先生の場合マジの可能性があるので、一応名義と通帳を他人に貸すのはダメだと言っておきますね。たとえ親しい友達の顔をしている相手でも、連帯保証人にはなってはいけませんし、投資の話も、知り合いを紹介するだけで利益が出るとかいうおいしいことを言われても、その場で断らなくていいので、いったん持ち帰って家族に相談すると答えるんです」
「はい、寝る前に復唱し肝に銘じて墓にも刻みます」
「いや何もそこまですることはないですが」
「三池先生の教えは絶対です。新聞も解約してくださったんですから」
「それはまぁ……」

 先日、電話口での勧誘でもうひとつ追加して契約しそうだったので、思わず家族のふりをして割って入ってしまった。他にも不要な契約関連は全部解約して、面倒そうなものは消費者センターに連絡したものの、知らないところで詐欺に遭うとか、高い壺でも買わされるのではないかとはらはらする。

「カモい先生がこの先まずい事態にならないためには、確かに絶対に守ってほしいことではあるんですけど……重く感じるのは言い方、なのかな?」
「重いですか? というか、それも結構重かったですけど、本です?」

 言って先生が示したのは封筒で、私は頷くと開封して中から分厚い文庫本を二冊取り出した。”日陰教授シリーズ”と帯に銘打たれたそれは、博識だが陰気でコミュニケーション力に難のある日陰教授とワトソン的な立ち位置で愛嬌と行動力のある助手の新垣くんが、個性豊かな登場人物たちと共に奇怪奇妙な事件に巻き込まれ、それを頭脳とうんちくに溢れた知識と時に剛腕で解決していくというミステリー小説だ。

「”一ノ倉しの”っていう、私の好きな小説家の本なんです。民俗学ミステリーって言っていいのか、民俗学や心理学なんかの要素をうまく取り込んだ推理小説を書かれる方で、シリーズ結構出てて人気なんですけど、東雲先生ご存じですか?」
「えっ……」
「ご専門の方からするとこういうのって、トンデモ学術だったりするんですかね。でも、巻末の引用一覧見る限りは学術論文もあって、たしかその中に東雲先生の名前もありましたよ。私が読んでも認知心理系の知見とかしっかり踏まえていると思いますし、文章も理知的なのに独特なところもあって、この日陰教授と新垣くんの会話が面白くて、ずっと好きなんです」
「す……すき?」
「ええ。今日、楽しみにしてた新刊の発売日で、それは電子版予約してあるんですけどね。持ってた文庫版、全部燃えちゃったから、今回新刊のお祝いの気持ちでシリーズを揃えなおそうと思って、とりあえず初めの二冊を買ったわけです。あとは、新居が見つかってからにしようかなと」

 つるりとしたコーティングの表紙を撫で、顔を上げると、東雲先生は真っ赤な顔で俯いていた。腿の上で握りしめる拳が震えている。

「先生?」
「……ぼ……」
「はい?」
「……僕、です……」
「何が?」
「そ、その……本、か、書いたの……ぼ、ぼく……」

 ──は?
 急に何を言い出すのか。東雲先生はこめかみから汗を流しながら、細かに震える指先で私の手元にある小説を示す。

「ずっと、しゅ、趣味で書いていて、いつの間にか副業みたいになってしまって。まさかこんなふうになるとは思って、な、なくて……」
「でも、一ノ倉先生は女の人じゃ──」

 そこまで言って、一ノ倉しのが完全な覆面作家であることを思いだした。名前から勝手に女性と推測していたが、文体やストーリーからは男性的な勇ましさも感じるところがあり、ネットでも作者の素性がわからず、新刊が出るたび話題になっている。
 著作以外に露出はなし。素性がわかるようなインタビューも受けないミステリアスな作家だと思っていた。

「み、三池先生。僕の名前、知ってますか?」
「東雲、一蔵先生……え? 一蔵? 一蔵だから一ノ倉で、東雲だからしの?」
「は、はい、ペンネームってなんか恥ずかしくて、安直なものなんですが……案外身バレってしないんだなと。僕、こんなですから、取材とか全部お断りしていて、なので女性作家と思われていても仕方ないです。趣味で文芸小説書いてるとか馬鹿にされるから、そ、祖父以外には作家業のことは黙っていて……で、でもまさか三池先生が読んでいてくれたなんて……うれしい」
「うそ……」


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