プラスとマイナスな関係の彼女

届かない声

届かない声

「真子が、来なくなったんだよ」
デイケアの共通の友人から聞いたその言葉に、私は頭が真っ白になった。理由を尋ねることもできず、ただうつむいていた。その夜、彼女とのやり取りを思い返しながら、自分の行動がどれだけ彼女を遠ざけてしまったのかを考え始めた。LINEの既読スルーや、届かない言葉。それでも心のどこかで「まだ繋がっている」と思い込んでいた自分に気づく。だが、現実は違う。私の一方的な想いは、彼女にとっては重荷でしかなかったのかもしれない。その夜、夢の中に真子が現れた。夢の中で、彼女は静かな湖のほとりに立ち、私に背を向けていた。声をかけようとするが、声が出ない。ただ遠くから見つめることしかできなかった。目が覚めたとき、胸が締めつけられるような痛みを覚えた。夢とはいえ、彼女の背中がこんなにも遠く感じたのは初めてだった。
「自分のせいだ」
その言葉が頭の中を巡る。真子がデイケアに来なくなったのも、連絡を返さなくなったのも、すべては私のせいなのだと思った。私の思いは「プラス」のつもりだったが、彼女にとっては「マイナス」だったのではないか。その考えがどんどん膨らみ、自分を追い詰めていった。ある日、意を決して真子の愛車がいつも停まっていた駐車場に向かった。だが、そこに彼女の車はなかった。まるで彼女そのものが、この街からいなくなってしまったかのように感じた。その夜、久しぶりに日記を開いた。書くことは唯一、私が自分を保つための手段だった。
「彼女のいない世界は、こんなにも冷たいものなのか?」
そう書いたとき、突然涙があふれて止まらなくなった。自分の無力さに腹が立ち、どうして彼女をもっと理解しようとしなかったのかと自問した。そんな折、デイケアのスタッフからふいに声をかけられた。
「最近、真子さんが元気ないみたいなんです。何かご存知ですか?」
その言葉にハッとした。私は彼女の気持ちを知るどころか、自分のことばかり考えていたのだ。真子もまた、何かを抱えながら生きている。それなのに私は、彼女の心に触れるどころか、自分の孤独を埋めるために彼女を求めていたのかもしれない。夜、再び彼女のLINEを開いた。けれど、何を書けばいいのか分からない。過去のやり取りを遡りながら、心が重くなる。彼女に言葉を伝える自信も勇気も、もう残っていなかった。代わりに、彼女の幸せを願う短い祈りのようなメッセージを書き、送ることはできなかった。スマホの画面を閉じ、私は窓の外に目をやった。月明かりに照らされた静かな街並みを見ながら、ただ自分の無力さを噛みしめていた。
「もし、もう一度だけ話せたら」
その想いが、胸の奥で何度も何度も反響していた。
翌朝、意外な電話がかかってきた。真子の母親からだった。突然のことで驚きつつも、私は慌てて電話に出た。
「康二さん…真子のことでお話ししたいことがあります」
その声はどこか冷たく、重苦しい沈黙が流れる。彼女は深呼吸をしてから、こう続けた。
「実は真子は先週、入院しました。精神的に不安定になっていて…。あなたの名前を時々出していましたが、詳しいことは話してくれなくて…」
耳を疑った。真子が入院?あの明るい笑顔の彼女が?私は動揺し、言葉が出ない。
「病院にお見舞いに来てほしいと本人は言っています。ただ、会って話すことが、今の彼女にとってプラスになるのかどうか、私たちも判断がつかなくて…」
私は「もちろん行きます」と答えたものの、不安と罪悪感が押し寄せてきた。彼女の心の負担に私が関与しているのではないか、という疑念が頭を離れない。数日後、病院を訪れた。白い壁と消毒液の匂いに包まれたその空間は、彼女の住む世界が私とまったく違う場所にあることを思い知らされた。ナースステーションで名前を告げると、病室に案内された。
部屋のドアを開けると、そこには見慣れた背中があった。窓の外を見つめる彼女は、何か遠い景色を追い求めるように無言だった。
「真子…」
震える声で名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと振り返った。しかしその顔には、見たことのない冷ややかな表情が浮かんでいた。
「康二さん…どうして来たの?」
予想外の言葉に、胸が締めつけられるような痛みを覚えた。言葉に詰まりながらも、何とか答えた。
「君に会いたかった。君が辛い時に、少しでも力になれればって思ったんだ…」
すると、真子はかすかに笑い、首を振った。
「康二さんには、分からないよね。私がどんなに怖かったか…どれだけ声をあげても、誰にも届かないって感じることが」
彼女の言葉は刃のように鋭く、私の胸に突き刺さった。何か言い返したかったが、その声もまた届かない。その時、彼女はポケットから小さな紙片を取り出し、私に手渡した。そこには短い文章が書かれていた。
「君に会うと、自分が壊れていく気がする。でも、君に会えないと、自分が消えてしまいそうで怖い」
その言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。私は彼女を支えたいと思っていたが、同時に私の存在そのものが彼女を追い詰めていたのかもしれない。その日、病室を後にした私は、自分が何をすべきなのかを考え続けた。そして一つの結論にたどり着いた。
もう彼女に近づいてはいけない。彼女の心が本当に回復するには、私がそばにいてはいけないのだと。
それから私は、彼女の母親に「二度と連絡をしない」という約束を伝え、真子の回復をただ祈ることにした。しかしその夜、夢の中で再び彼女の背中を見た。湖のほとりで、彼女は振り向きもしない。ただ立ち尽くすその姿が、今まで以上に遠く、そして届かないものに感じられた。目が覚めると、彼女のことを思い出すたびに声が出なくなっている自分に気づいた。まるで、夢の中で彼女に奪われたかのように。
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