プラスとマイナスな関係の彼女

ゼロの空間

ゼロの空間

夜の静寂が、彼女と僕を包み込んでいた。雨上がりの公園には、湿った土の匂いと微かな草の香りが漂っている。月明かりが、真子の横顔を照らしていた。
「康二さん、本当に来るなんて思わなかった」
彼女の声は冷たいが、その奥には微かな震えがあった。
「真子に会いたかったから」
シンプルな答えだった。だけど、言葉にするのは難しかった。僕は、この関係がどう転ぶのかも分からず、ただ目の前にいる彼女をじっと見つめていた。
「会いたいなんて言わないで」
真子は小さな声でつぶやいた。「そんなの、私には重いだけ」
その言葉に、一瞬息が詰まる。僕の「プラス」の感情が、彼女にとっては「マイナス」なのだと、彼女自身がはっきり言った瞬間だった。それでも僕は、逃げたくなかった。
「重いって思うのは分かるよ。でも、それが俺の気持ちなんだ。消したくても、消せないんだ」
真子は何も言わず、視線を落とした。足元に転がる小石をつま先で蹴るように動かしながら、呟くように言った。
「康二さん、私…本当に疲れちゃったんだ。何もかも。デイケアも、周りの人の言葉も、自分の気持ちも。どれが正しいのかも分からないし、どうして生きてるのかも分からない」
「分からなくてもいいんだよ」
僕は思わず口を挟んだ。「誰だって、分からないまま生きてる。俺だって、何が正しいのかなんて分からない。ただ、こうして君と話してる時間が、俺には意味のあることなんだ」
真子は驚いたように僕を見た。その目には、何か言いたげな言葉が浮かんでいるようだったが、すぐにまた視線を逸らした。
「意味なんてないよ。誰といても、何をしてても、何も変わらないんだよ。だから、康二さんと話してても、きっと何も…」
言いかけた彼女の声が震え、そこで止まった。僕はそっと一歩近づいた。彼女は後ずさりもしなかった。ただ、肩が小刻みに震えている。
「真子、俺も分からないことだらけだよ。でも、君と一緒にいると、不思議と自分がゼロになれる気がするんだ」
「ゼロ?」
「そう、ゼロだよ。プラスもマイナスもない。ただ、何もない場所に戻れる気がするんだ」
僕の言葉に、彼女は少しだけ顔を上げた。
「私も、ゼロになりたい…」
その声は、どこか遠くで響くような静けさを帯びていた。
「じゃあ、一緒にゼロになろう」
僕は手を差し出した。「今は何も考えなくていい。ただ、この瞬間だけ、何もない場所に行こう」
彼女は僕の手を見つめた。その目には、ためらいと戸惑い、そして僅かな希望が入り混じっていた。やがて、彼女の細い指がゆっくりと僕の手に触れた。
その瞬間、何かが変わった。僕たちの間にあった隔たりが、ほんの少しだけ溶けていくのを感じた。彼女の手は冷たかったが、確かにそこにあった。その感触が、僕にとって何よりも現実だった。
「…怖いよ」
真子は小さな声でそう言った。その声は震えていたが、どこか真剣だった。
「怖くても大丈夫だよ。俺も怖い。だから、二人で怖がろう」
彼女はかすかに笑った。ほんの一瞬だったが、その笑顔は、僕にとってどんな言葉よりも力強いものだった。
「ありがとう」
彼女がそう呟いた時、初めて僕は、自分の想いが少しだけ届いたような気がした。
その夜、僕たちは長い時間をかけて、言葉を紡ぎ合った。プラスとマイナス。違う方向を向いていた二つの気持ちが、少しずつ重なり合ってゼロの空間を作り上げていくようだった。真子の痛みも、僕の不安も、すぐには消えない。それでも、手を繋いだこの瞬間だけは、確かに一つになれた。
月明かりが静かに僕たちを照らす中で、僕は彼女の隣に座り、ゼロという名の温もりを感じていた。
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