悪魔令嬢ウィステリア 〜婚約破棄を告げられた令嬢は、悪魔との邂逅により復讐を果たす〜

1.不条理な宣告

「ウィステリア。本日を持ってお前との婚約は破棄させてもらう!」

 豪奢なパーティー会場の中央。
 目の前の愛しい婚約者から告げられたその一言に、私の頭は真っ白になる。

 流れていた上品な演奏も、もはや耳には届かない。

「え、なん……で……っ」

 自分のものとは思えないほどか細く、弱々しい声が喉から絞り出された。
 足から力が抜け、ガクンッと床に手をついてしまう。

「何度も言わせるな!分かったらさっさと出て行け、辺境出身の小娘が」

 あれ程愛を囁いてくれた彼の口。それが今は、鋭い罵声を発して理不尽な現状を突き付ける。

 どうして、こんなことに。

「あらぁ、ローレン様。そこの小娘はまだ引き下がりませんこと?身の程を弁えたらどうかしら」

「ぐ……ッ!!」

 不意に横から顔を出した派手なドレスの女性が、床に伏した私の頭を硬いヒールで踏みつける。
 この女は確か……。

「ああ、ヴィオレンス。君からも言ってやってくれ」
 
 ヴィオレンス。確か貴族の子女だったはず。それがなぜ、私の婚約者にすり寄っている?なぜ私の頭を踏みつけている?

「ええ仰せのままに。さあ田舎娘さん、とっとと薄汚い豚小屋にお帰りなさい?」

 その一言と共に思い切りヒールが振り下ろされ――私の意識は周囲の人間たちの嘲笑と共に闇に落ちた。





 ガタガタと揺れる馬車の荷車の上。
 冷え込んだ空気が吹きすさぶ中、傷んだドレスにボロ布同然のローブを羽織って、私は震えていた。

 私、ウィステリア・クライスは、婚約者ローレン・エストールに婚約破棄を宣言され、彼の屋敷から追放された。

 そしてカビだらけの馬車に乗せられ、片田舎の私の実家に強制送還中。

「せっかく……幸せになれると思ったのに……」

 うわごとのように呟いて、目を閉じる。

 没落貴族の令嬢として生まれ、かつての一族の栄華を取り戻すために必死の父と母に、幼い頃から厳しく教育を受けてきた私の半生。

 両親は私を高い地位の貴族と結ばせて、一族の権威を復権させる為だけの道具としか見ていなかった。故に、親らしいことをされた記憶はない。

 私が十八になった年。ようやく漕ぎ着けた有力貴族の集まる社交パーティーにて、私はローレンに見初められてついに婚約を取り交わし、ついに悲願が果たされた……と思った矢先のコレだ。

 結婚できれば幸せになれると思っていた。大嫌いな実家から抜け出せると思っていた。

 そんな幻想も今日、すべて打ち砕かれてしまったが。

 なんで、不幸な目に遭うのが私でなくてはならなかったんだろう。もしこの世に神が居るのなら、きっと私のことを毛嫌いしているに違いない。

 寒風に、ヴィオレンスによって踏まれた頭がズキズキと痛んだ。

「到着しました、お降りください」

 ガタンッといきなり止まった馬車に大きくよろめき、なんとか荷車から外に出る。

 真冬の空気に肌がヒリつき、滲んでいた涙が冷たくなって行くのを感じた。

 私を置いてさっさと帰って行った馬車を見送ると、錆び付いた巨大な門へと歩み寄る。

「……ウィステリアお嬢様ではないですか。何故お帰りに?」

 門の前の番兵が不思議そうな顔をして尋ねる。もはや答えることすら気が重かった私は端的に「帰省よ」とだけ返して、門の向こうの古い屋敷に歩き出した。

 足が重い。逃げ出したい。
 ……でも、私にはもうこの屋敷しか行く宛てがない。

 軋む玄関の大扉を開いて、屋敷の中へ。
 家を出てからまだ数ヶ月しか経っていなかったが、妙な懐かしさと、トラウマに近い過去の記憶が呼び起こされて吐き気が込み上げてくる。

「お嬢様……!?お、お帰りなさいませ」

「ただいま。お父様とお母様はどちらに?お話しなければならないことがあるの」

 偶然鉢合わせたメイドは困惑した様子でこちらに頭を下げ、慌ててパタパタと両親を探しに行く。

 驚くのは当然。嫁入りしたはずの令嬢がいきなり何の連絡もなしに帰ってきたんだから、無理もない。

「旦那様は執務室に居らっしゃるかと……しかしお嬢様、一体」

 そこまで言ったところで、彼女を手で制する。

「大丈夫。いずれ分かるわ」

 困惑が滲んだ顔を浮かべたメイドに微笑んで、二階への階段を上がり始めた。

 鉄球付きの足枷でもはめられたように、重い足取りのまま、私は二階の最奥にある執務室の前に立つ。

 ……嫌な記憶が蘇る。

 私の小さな頃から受けさせられていた、マナーや所作の指導。
 それらで少しでも意にそぐわないような結果を出せばこの執務室に呼ばれ、父から耳を塞ぎたくなる怒号と、嵐のような叱責が飛んだ。母は、ただ傍観しているだけだった。

 茨として絡みついた記憶たちが足をすくませる。

 ――大丈夫。落ち着いて。

 自分自身に言い聞かせて深呼吸をし、背筋を伸ばして扉に手を伸ばす。

 ノックをすると、不機嫌そうな「どうぞ」という声が聞こえてきた。

 機嫌が悪いのが通常運転な父だったが、訪ねてきたのが誰とも確認せず通そうとしているあたり、いつも以上に不機嫌で注意が散漫になっているらしい。

「……お父様、ウィステリアです。お伝えしなければならないことがあり、戻らせていただきました」

 声が震えないように注意を払いながら、私は告げた。

「ウィステリアだと?……入れ」

 さらにトーンが下がった声で、短く父が答えた。

「失礼します」

 重苦しい空気の中、ゆっくりとドアノブを回して執務室へと足を踏み入れる。

 室内に蔓延するパイプ煙草の匂いが私を真っ先に出迎え、顔を顰めそうになってしまう。
 壁に掛けられた色褪せた絵画に、先代が賜った勲章たち。過去の栄華に囲まれた部屋の中央に、父は居た。

「お久しぶりです、お父様」
 
 机の上の書類から目を離して、父は私を一瞥した。

「さっさと本題に入れ、大体お前はいつも……」

 間髪入れずに罵倒の嵐が渦巻き始める。
 このままだと長引くと察し、意を決して本題に切り込んだ。

「――お父様。私はローレン様に、婚約破棄を告げられました」

 父の顔から血の気が引いた。
 目を見開いて、そのまま硬直する。

「全ては、私の不徳の致すところです。本当に、申し訳ございま――」

 ガンッ。
 と鈍い音が響いて、強烈な痛みが右肩に走る。

 机の上の彫刻のオブジェが、父の手から私に放られていた。

「いっ……!!」

「ウィステリアッ!!」

 蹴り上げんばかりの勢いで机を跳ね除け、私の眼前に鬼気迫る表情で父が歩いてくる。

 痛い、怖い。
 暴力自体は、傷がつくと貴族に気に入ってもらえなくなるからと振るわれたことはなかった。

 ……でも今は、話が違う。

「おい……何度も何度も言って聞かせてやったろう!お前は貴族に嫁入りしないといけないんだ、そのために礼儀作法も、教養も、全部叩き込んでやっただろうが!」

 凄まじいまでの怒号に、込み上げてきていた涙が溢れそうになる。

 私だってわからない。
 あんなに、愛されていたのに。

「もういい、消えろウィステリア。出来損ないが」

「待って、お父様……」

「消えろと言ったんだ!愚図め!」

 半ば突き飛ばされそうな勢いで扉まで押しやられ、乱暴に廊下へと突き飛ばされて倒れ込む。

「おい、そこの。この役立たずを地下にでも放り込んでおけ」

 使用人が二人がかりで無理やり私を立たせ、なすがままに歩かされていく。
 
 ――そして、一片の光のない地下室へと押し込められた。
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