たった1mmの恋
『魔女』
「私のこと、忘れないでね」
それが彼女の口癖だった。
「忘れる訳ないだろ」
「うん、でも忘れないでね」
そう微笑む君は、きっと魔女だった。
彼女のことを好きになるのに、時間はかからなかった。高校入学初日に学校へ早く着きすぎた僕は、人の少ない体育館でパイプ椅子に座り、中々進まない時計の針を眺めていた。
短針が何周した時だろう。ローファーの音が徐々に近づき、柔らかな風と共に君は現れた。君は僕の隣に腰を下ろすと、石鹸の香りが鼻を掠めた。
「早く着きすぎちゃったね」
右耳から入る、丸みを帯びた声。ほとんど無意識に振り向くと、彼女はこちらを見て笑っていた。自身に話かけられているのか判断がつかずにいた僕は、相当動揺していたに違いない。そんな僕を見てか、はたまた気まぐれか、彼女の口がゆっくりと動く。
「名前、なんていうの?」
僕は艶やかな唇を、真っすぐ見つめていた。
同じクラス、一つ後ろの席の君。プリントを渡す時にだけ見られる顔。君のせいで、毎日少しだけ背筋を伸ばして座っていたなんて、君は気づいていなかっただろう。でもきっと君のことだ。もしかしたら、あの揃った前髪を揺らして、笑っていたのかもしれない。
あっという間に春が過ぎて、君に会えない長い夏が終わって、少し寂しい秋が駆け抜けて、人肌恋しい冬が終わりかけていた。
進級を目前に焦った僕は、勢いのまま君に想いを告げた。今思えば、あまりにも無謀な告白だったが、何より君と接点を持てなくなることが怖かった。
しかし僕の予想に反して、告白を聞いた君は嬉しそうに笑っていた。白い肌に薄桃色の花が咲くように。
「いいよ」
君の丸い目が、間抜けな僕を映している。その時初めて、君の目が茶色いことに気が付いた。
それからの日々は、絵に書いたような青春だったと思う。振り返れば、高校生活のほとんどに君がいた。僕と目が合い笑う顔、手を繋いだ時の嬉しそうで恥ずかしそうな顔、くだらないことで喧嘩し、涙を溜めながら怒る顔。今でも鮮明に思い出すことができる。
いつだったか、何故僕と付き合ってくれたのか、君に尋ねたことがある。その時も、君はいつもの人懐こい笑顔だった。
「だって君だから」
「僕?」
「そう、私のことが好きな君」
正直僕には、君の言っている意味がよく分からなかった。それでも君の顔を見ていたら、そんなことはどうでもいいような気がして、それ以上聞くことはなかった。
*
「ねえ、私のこと忘れないでね」
「忘れる?」
「そう、忘れないでほしいの」
「そんな、忘れる訳ないだろう」
「もしかしたら、私のことが好きじゃなくなって、いつか忘れてしまうかもしれない」
「君のことは、ずっと好きだよ」
「そんなこと、分からないわ」
「それでも、ずっと好きだと思う」
「じゃあ絶対に忘れないでね」
「もちろん」
「約束よ」
*
ベランダに出ると、湿った夜風が僕の肌に纏わりついた。きっと明日は雨だろう。ライターで煙草に火を点けると、白い煙が静かな住宅地に溶けては消えた。それは一瞬のことだった。
高校を卒業後、別々の大学へ進学した僕らは、あっけなく破局した。君からの連絡頻度が減り、SNSには知らない人間が映り込むようになった。段々と君も、知らない人間のように思えた。
目を閉じると、瞼の裏側に高校当時の君の顔が浮かぶ。その顔は僕を見つめて、楽しそうに笑っている。自然と上がる口角。でも目を開くと、煙のように消えてしまう。
彼女は結婚するらしい。それは平凡な顔をした男に並ぶ笑顔の君と、婚姻届けの上に置かれた結婚指輪の写真を見て知った。笑顔の君は、あの頃より大人びていた。
寂しいとも悔しいとも違う、自分でも感じたことのない感情が体内に渦巻いている。その渦の中心から、僕に向かって囁く声が聞こえてくる。
「私のこと、忘れないでね」
あれは彼女の呪いだった。
煙草の熱を指に感じて、空き缶の中に吸殻を放り込む。缶の底で熱が蒸発する音がして、焦げた匂いだけが、夜の街に流れていった。
それが彼女の口癖だった。
「忘れる訳ないだろ」
「うん、でも忘れないでね」
そう微笑む君は、きっと魔女だった。
彼女のことを好きになるのに、時間はかからなかった。高校入学初日に学校へ早く着きすぎた僕は、人の少ない体育館でパイプ椅子に座り、中々進まない時計の針を眺めていた。
短針が何周した時だろう。ローファーの音が徐々に近づき、柔らかな風と共に君は現れた。君は僕の隣に腰を下ろすと、石鹸の香りが鼻を掠めた。
「早く着きすぎちゃったね」
右耳から入る、丸みを帯びた声。ほとんど無意識に振り向くと、彼女はこちらを見て笑っていた。自身に話かけられているのか判断がつかずにいた僕は、相当動揺していたに違いない。そんな僕を見てか、はたまた気まぐれか、彼女の口がゆっくりと動く。
「名前、なんていうの?」
僕は艶やかな唇を、真っすぐ見つめていた。
同じクラス、一つ後ろの席の君。プリントを渡す時にだけ見られる顔。君のせいで、毎日少しだけ背筋を伸ばして座っていたなんて、君は気づいていなかっただろう。でもきっと君のことだ。もしかしたら、あの揃った前髪を揺らして、笑っていたのかもしれない。
あっという間に春が過ぎて、君に会えない長い夏が終わって、少し寂しい秋が駆け抜けて、人肌恋しい冬が終わりかけていた。
進級を目前に焦った僕は、勢いのまま君に想いを告げた。今思えば、あまりにも無謀な告白だったが、何より君と接点を持てなくなることが怖かった。
しかし僕の予想に反して、告白を聞いた君は嬉しそうに笑っていた。白い肌に薄桃色の花が咲くように。
「いいよ」
君の丸い目が、間抜けな僕を映している。その時初めて、君の目が茶色いことに気が付いた。
それからの日々は、絵に書いたような青春だったと思う。振り返れば、高校生活のほとんどに君がいた。僕と目が合い笑う顔、手を繋いだ時の嬉しそうで恥ずかしそうな顔、くだらないことで喧嘩し、涙を溜めながら怒る顔。今でも鮮明に思い出すことができる。
いつだったか、何故僕と付き合ってくれたのか、君に尋ねたことがある。その時も、君はいつもの人懐こい笑顔だった。
「だって君だから」
「僕?」
「そう、私のことが好きな君」
正直僕には、君の言っている意味がよく分からなかった。それでも君の顔を見ていたら、そんなことはどうでもいいような気がして、それ以上聞くことはなかった。
*
「ねえ、私のこと忘れないでね」
「忘れる?」
「そう、忘れないでほしいの」
「そんな、忘れる訳ないだろう」
「もしかしたら、私のことが好きじゃなくなって、いつか忘れてしまうかもしれない」
「君のことは、ずっと好きだよ」
「そんなこと、分からないわ」
「それでも、ずっと好きだと思う」
「じゃあ絶対に忘れないでね」
「もちろん」
「約束よ」
*
ベランダに出ると、湿った夜風が僕の肌に纏わりついた。きっと明日は雨だろう。ライターで煙草に火を点けると、白い煙が静かな住宅地に溶けては消えた。それは一瞬のことだった。
高校を卒業後、別々の大学へ進学した僕らは、あっけなく破局した。君からの連絡頻度が減り、SNSには知らない人間が映り込むようになった。段々と君も、知らない人間のように思えた。
目を閉じると、瞼の裏側に高校当時の君の顔が浮かぶ。その顔は僕を見つめて、楽しそうに笑っている。自然と上がる口角。でも目を開くと、煙のように消えてしまう。
彼女は結婚するらしい。それは平凡な顔をした男に並ぶ笑顔の君と、婚姻届けの上に置かれた結婚指輪の写真を見て知った。笑顔の君は、あの頃より大人びていた。
寂しいとも悔しいとも違う、自分でも感じたことのない感情が体内に渦巻いている。その渦の中心から、僕に向かって囁く声が聞こえてくる。
「私のこと、忘れないでね」
あれは彼女の呪いだった。
煙草の熱を指に感じて、空き缶の中に吸殻を放り込む。缶の底で熱が蒸発する音がして、焦げた匂いだけが、夜の街に流れていった。