たった1mmの恋

『憧れの先輩』

 奇跡だと思った。憧れの先輩と営業先を出た時、すでに辺りは暗くなっていた。時刻を確認しようと開いたスマホ画面の電子的な光が、私の顔を照らす。それはすでに退社予定時刻を一時間も過ぎた後だった。
「会社戻る?」
首を傾け、顔を覗き込むように屈む先輩の顔にだけ、視界のピントが合わさる。
「いえ、もうこんな時間なので、直帰しようと思います」
先鋭的な会社ではNRと言うらしい。生憎、私達の会社ではその言葉を使う者もいなければ、使いたいと思ったこともない。
「そうか、じゃあ僕も帰ろうかな」
駅の方面を探す横顔を見上げながら、殆ど無意識に口を開いていた。
「良かったら、飲みに行きませんか」

 どうしてこうなったのだろう。いや、もちろん私が誘ったのだが、まさかこうなるとは思わないじゃないか。待て待て、まずどうして誘ってしまったのだ。今まで眺めているだけだったくせに。だってこんなチャンスないじゃないか。だからってあまりにも急すぎるだろう。
「枝豆好きなの?」
「え?」
先輩の声で思考が途切れる。目の前には、枝豆の皮の山が出来ていた。いつの間に、と思う私の手に新たな枝豆があることに気付き、急いで皿に戻す。
「いえ、あの、そこそこです」
殆ど働いていない脳で返事をする。先輩の目は、まだ見られそうもない。
 店内は華金ということもあって、かなりの込み具合だった。ワイシャツ姿の男が、楽しそうに笑っている。何故だか羨ましい気持ちになり、今の私の方が羨ましいではないかと考え直す。憧れの先輩と二人きりなのだ。問題は、ここから私はどうしたらいいのだろうということだけだ。全身全霊で緊張している私は上手く会話もできないし、そもそも顔を見ることだって難しい。きっと先輩も楽しくないだろう。でもどうしたらいのだ。頭の中で思考が何度も回るが、明確な答えは出せないまま、時間だけが刻々と過ぎていった。
 ショートしてしまいそうな脳を冷やすためにハイボールを飲み干す。冷たい液体が喉を流れて、少し心地いい。その姿を、先輩が眺めていることには気が付かなった。
「どうして、誘ってくれたの?」
言葉の意味を理解するのに数秒かかった。分かりやすく唾を飲み込む。恐る恐る先輩の顔を見上げると、端正な顔立ちが見下ろしている。
「どうして、というと?」
「いや?初めて誘ってくれたから、気になっただけだよ」
あなたが憧れの先輩だからです、とは言えそうもない。微笑む先輩は、いたずらをする子供のように見えた。
「何となく、です」
「何となくか」
机に肩肘を付き、指先で軽く頬を叩く姿は、何か考える時の先輩の癖だ。何を考えているのかは、私には分からない。
 不意に視線が重なった。心臓の音が聞こえてしまったかと思った。
「僕は嬉しかったけどな、誘ってくれて」
先輩の声だけが、はっきりと耳に入る。どうしてと尋ねようとした顔を察してか、先輩は言葉を続けた。
「どうしてだと思う?」
体内に巡る血液が熱くなったように感じる。それはアルコールのせいか、先輩のせいか。視線の下、ゆっくりと先輩の手が私に伸びてくる。
「行こうか」
私は差し出された手を眺めた。鼓動が速いのはアルコールのせいか、先輩のせいか。

 でも先輩、私気付いてしまったんです。そのセンスの良いネクタイも、しっかりアイロンがかけられたワイシャツも、薬指の指輪の跡も。

 差し出された手に、火照った掌を重ねる。先輩の手は、酷く冷たかった。
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