たった1mmの恋

『隙を見せてはいけない』

 可愛い。何度見ても、どの角度から見ても可愛い。誰が見ても間違いなく可愛い。今日も私は完璧だ。だから私は隙を見せてはいけない。

 足音を響かせ校門をくぐる。コツ。数多の意識が自身に向けられているのを感じる。熱っぽい眼差し。コツ。一人と目が合えば、潤う桃色の唇を緩ませ、柔らかく微笑む。落ちた。コツコツ。春風が味方をするように、私の正面から優しく全身を撫でる。甘い香水の香りが、後方に流れていく。また落ちる音がした。

 姫野百合(ひめのゆり)は、その名に恥じぬほど可愛らしい容姿をしている。生まれ持った端正な顔立ちもさることながら、姫野自身の努力もあり、その美しさは年々増しているようだった。もちろん姫野も、そのことについて一番理解している。自身の容姿こそが最大の武器だということに。だから姫野はその武器を自在に操り、今ある地位を得てきたのだ。
 端から好意がある男は簡単だった。ちょっと見つめるだけで、あとは勝手に姫野が望むもの必死になって叶えようとした。マイナー気取りの男も、左程難しいものではない。適当な用事を作り、呼び止める際には必ずどこかに触れる。相手の神経が接触部に集中したかのように熱が帯びれば、それはもう落ちたも同然だった。そもそも恋愛事に興味が無さそうな男は、相手の自信がある部分を刺激するだけだ。「凄く頭がいいね。尊敬する」「運動神経がいい人って憧れるな」「君の作る音楽って魅力的」「かっこいいね」彼女からすれば、思ってもいない言葉を口から出すことくらい容易だった。
 全ては彼女の地位を確立するためだけの作業。もちろん一定の女子からは尖った眼差しを向けられることもあったが、自身に害のない嫉妬などどうでも良かった。私は可愛くなるために努力をしている。大した努力もせず、陰でコソコソと悪意を吐き出すことしかできないお前が悪い。ただそれだけのことだった。

 自身の席へ腰を下ろす。前から四つ目の窓際。この席は良いと姫野はつくづく感じている。窓から差し込む光が、まるでスポットライトのように自身を照らすからだ。その姿は誰が見ても、ステージの中心に立つ主役だった。窓に映る自身の姿を見る。やっぱり私は可愛い。完璧だ。
「姫野、おはよう」
頭上から声が降り注ぎ、姫野は無意識に身を固くした。何度も聞いたその声は、彼女の神経を何度も逆撫でる声だからであった。
 挨拶には答えず、ゆっくりと隣を振り返る。そいつはまだ席にも座らず、鞄の中からあれやこれやと出し、鼻歌交じりに机の上に並べている。松崎翔太(まつざきしょうた)。それは姫野にとって、唯一と言える敵だった。
 姫野は松崎のことを、よく分からない男だと思っていた。いつも気の抜けた笑い顔で過ごし、張りのある声は耳障りだが、周りは友人で溢れていた。大して頭は良くないし、芸術的センスも無いのに、それを引け目に感じている節もない。弱小バスケ部のくせに、汗水流し努力をしている。大した取り柄のない、ただの明るい馬鹿。そこらにいる男と大差はない。それなのに何故──。
 視線に気づいてか、松崎は彼女を振り返る。眉を上げ何かを尋ねるように首を傾けるが、姫野は答えることなく目を逸らした。その表情すら不快だと思ったからだった。
「あれ」
松崎は姫野の顔をじっくりと見つめる。その行為に気付いていながらも、姫野は依然として目を合わせようとしない。
「何よ」
それは普段では聞くことのできない、低くざらついた声だった。
「姫野、前髪切った?」
自身の前髪の前で、鋏のジェスチャーを見せる松崎。バレたことに動揺して、姫野は思わず自身の前髪を抑えた。
「切ったけど」
「やっぱり」
向けられるのは、いつもの間抜けな笑顔。

「可愛い。似合ってる」

 私は可愛い。どう見ても、どの角度から見ても、誰が見ても、絶対に可愛い。そんなことは知っているし、言われ慣れている。だから何だってことは無い筈なのに。手に汗が滲み、体の奥底から込み上げる熱を感じる。ダメ、待って。私は完璧なのに。『すき』を見せてはいけないのに。
< 2 / 7 >

この作品をシェア

pagetop