父の首
 むせかえるような煙の濃い薫りがする。
 背を伸ばして小窓からそっと外を見やると、あかあかと照る橙のともしびを掲げた男の群れが、小屋の周囲を覆っていた。
 蟻みたいだ、と思った。退屈な日常に、ある日突然現れた砂糖のかたまりを見つけた、ちいさくいじ汚い蟻。私は上げた踵を下ろし、そっと窓から離れると、背後を振り返る。
 父の安景が角であぐらをかいて座っていた。飴色のくらやみの中に溶けているが、じっとりとした夏の気配を纏ったその姿は、輪郭だけが白く浮かび上がり重い存在感を放っている。

「父上……」

 父は、すっと立ち上がると右手をゆるく動かして手招きした。
 私はさっと壁から離れ、父の前に正座する。
 父は、腰にさしていた刀を一口、深紫の腰紐から取り上げると、真横にして私の揃えたちいさく頼りない膝の先にしずかに置いた。私たちの間に、ひとすじの黒い線が引かれる。
 先ほどまで煙の薫りがしていたというのに、父のそばにくると、凛と冷えた竹の薫りがして、心が凪いでくる。刀から顔を上げる。
 父の顔はいつになく険しく、寄せられた太い眉の間に、ひとしずくの透明な汗がこぼれて、高い鷲鼻を濡らしていた。

「春景。わしはこの首を奴らに渡したくはない。だから頼む。今この場でお主がわしの首を斬り、持ち逃げてくれ。お主にしか頼めんのだ」

 体から血が引いてゆく。きゅうと耳鳴りがする。額に、いつの間にか汗が浮かび、首を流れて着物の青い衿に沈んで溶けてゆく。

「私が……私が父上の首を斬る!? そんな……そのようなこと、出来ませぬ!」

 私が立ち上がるのと同時に、背後で花火が上がったように、男たちの怒声が響き渡った。赤いひかりの渦が落ち着くと、はらり、と耳にかけていたひとふさの黒髪がこぼれる。
 父は、先ほどと変わらぬ表情で私を見上げていた。
 呼吸が止まるほど、永遠に思えるほど、私たちは見つめあっていた。

「もう時間がない」

 父は立ち上がり、私に背を向け、ふたたび腰を下ろした。正座の形で座り直した大きな背中は広く、先ほどよりも威厳を放っていた。うっすらと紅い蒸気すら漂っているようだった。
 私は手をぎゅっと握りしめる。背後から迫る煙はより濃く薫り、それがかなしくて、くやしくて、鼻の奥がつんとする。
 首を落とすと、瞳から涙がこぼれて、くらい床に透明な滲みがてん、てんと描かれる。

「お主は元服したての立派な武士だ。わしの五十六年間はお主に託した。色々と楽しかったぞ。ありがとう春景。達者で生きろ」

 つむじの上を、父の低い声が撫でる。まろやかで、やさしい響きだった。
 私は、目の前に置かれた刀を見つめ、震えながら手を伸ばした。構え、鞘を抜く。すべて父に教えてもらった所作だった。
 氷と氷がぶつかるような、爽やかで高い音を立てて抜けた刀は、白い光沢に、青いすじを走らせて、鈍くひかって冴えていた。
 うつくしい刃だった。まだ、誰の血も知らない、高潔で生まれたての色に見える。
 だが、私は知っている。この刃で、幾人も父は人を殺めてきた。その積み重ねが、今の状況を生み出した。
 父が私の構える刃をみとめる。覚悟した目の色をしていた。父の眸に宿る青をみとめて、私が感じているよりも、刃のひかりは深い蒼をしているのだと知った。
 父が、謝罪するように首を下げる。固く太い首すじが、刃の青に照されて、なまめかしく艶を帯びていた。纏めていた髪が、天を仰いで真っ直ぐに立つ。
 私はそこに浮かび上がる、太く青い血管めがけて、刃を振り下ろした。父の喉が動く。

「大きくなったな……」

 極限まで振り下ろした刹那、父の木漏れ日のような声がそっと腕を撫でた。目をみひらいた時、刃が肉を裂く感触が腕に伝わり、ついで血があたたかく吹き出した。

「あ、あ……あ」

 開けたままのまなこの白に、あざやかな血が降り注ぐ。全身が、雨にやられたようにあたたかく濡れてゆく。父の愛が、そのまま血の温度にあらわれているようだった。
 私は涙を流しながら、そっと己の身を抱きしめる。しばらく暗闇に沈み、すべての感情を手放すと、空虚な体を動かして、転がっている父の首へと腕を伸ばした。
 赤子の私を取り上げた時も、このように血の中へ腕を伸ばして抱いてくれたのだろうか。
 そして幽鬼の如くゆったりと揺れながら、扉を蹴破った。
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