シナモンと葡萄酒と白銀の魔杖

20夜目のためのお話:告白と祈り

 転移魔法を使ったエーファは、暗く不気味な夜の林の中に辿り着いた。
 この先にある小屋が、アンゼルムから指定された場所だ。
 
 エーファは魔法で白銀の魔杖に光を灯し、辺りを照らす。
 
「この前使った時とは疲労度が違う……全然疲れていない」
 
 白銀の魔杖が補助してくれたおかげで、少しも疲れていない。

 魔力欠乏になった後だからわかる。
 なんやかんやで、魔法兵団にいた頃はこの魔杖のおかげで大掛かりな魔法をバンバンと発動させることがきていたのだ。
 
「……意外と、いい働きをしてくれていたんだね」

 白銀の魔杖がほんの少しだけ、いつも以上に光を増して輝いていた。持ち主に褒められて喜んでいるようだ。
 今まで、役に立たないなどお飾りだなどと思って悪かったと、心の中で謝罪するのだった。
 
「それにしても……またここに来ることになるなんて思わなかったよ……」
 
 ここは王宮の奥地――王族以外の者は許可なしに立ち入ることのできない場所。
 そして以前、アンゼルムに連れられて来たことのある場所でもある。

 ――それは、エーファがメヒティルデの侍女をしていた頃のことだった。
 アンゼルムはエーファをこの特別な場所に呼ぶことで、自分がいかに彼女を特別に思っているのかを示していた。
 しかしエーファにとっては少しも喜ばしいことではなく、むしろはた迷惑でしかなかった。
 
 エーファはここに一人で呼び出され、自分の侍女にならないかと提案されたのだ。

 それはまさに寝耳に水だった。エーファにとってメヒティルデへの忠誠心を捨ててその婚約者に乗り換えるなど言語道断なのだ。

 不敬だと承知でエーファは提案を断った。
 その時のアンゼルムはすぐに身を引いたが、彼からの勧誘はその後も続いた。
 
 彼は折に触れてメヒティルデにエーファの引き抜きを打診するようになった。その度にエーファは強い不安に襲われた。

 この国の王子――王族の頼み事は、いわば命令のようなものだ。頼まれた相手に拒否権などない。
 それでもメヒティルデは毅然とした態度で彼の要望を跳ね除け、自分をそばに置いてくれた。
 
 大好きな主は必ず自分を守ってくれる。そのことに安堵すると同時に、不安を抱えていた。
 なぜならこのやり取りは必ず、メヒティルデの両親――アーレンベルク公爵夫妻の耳に入ってしまう。
 王族に娘を捧げてさらなる権力を握ろうとしていた二人は、報告を聞く度にメヒティルデを厳しく罰した。
 目に見えない場所に鞭打ちしたり、食事を抜いたり、暗い部屋に閉じ込めたりと、虐待のような仕打ちをしていたのだ。

 自分のせいで大好きなお嬢様を傷つけてしまう。
 そのことが悲しくて悔しくて、エーファの心は疲弊していった。

 自分がアンゼルムの提案を引き受ければ、この地獄は終わるのではないか。追い詰められたエーファは、そう考えるようになった。

 全ての不幸の元凶は自分で、自分さえ我慢すれば誰も不幸にならないと思ったのだ。
 
 頭ではそうわかっていても、心は全く追いついていない。
 思い切ってメヒティルデに退職届を出したエーファは、何か話そうとしても嗚咽と涙に阻まれてしまった。わあわあと泣くばかりで、言葉らしい言葉が出てこなかった。
 
 そんなエーファを、メヒティルデはぎゅっと抱きしめて宥めてくれた。涙やら鼻水やらでドレスが汚れるのも気にせず、エーファに寄り添ってくれたのだ。
 
『――大丈夫。私はエーファの主人の義務を果たしているだけだから、エーファは何も気にしないで私の世話をしなさい』

 凛としたメヒティルデの声はしっかりとエーファの心に届いた。
 初めて出会った時と同じように、目の前が真っ暗になって途方に暮れているエーファを導いてくれるような、力強くも優しい声だ。
 
『あなたを専属侍女にしたその時に、責任を持ってあなたを雇うと決めたのよ。何が起こっても、それは私の選択についてきた結果なの、だからエーファは何も悪くないわ。――本当に私に忠誠を誓っているなら、私の言葉を信じなさい』

 自分より六歳も年下の少女だというのに、強く逞しい、大好きなお嬢様。
 この日エーファは、何があっても彼女に尽くそうと、改めて心に決めたのだった。
 
「お嬢様、責任を持って雇うと決めたって言っていたのに、私をクビにしたり置いてきぼりにするなんて酷いです……」
 
 口ではそういいつつ、それがエーファのためなのはわかっている。
 アンゼルムと結婚すれば必然的にエーファを専属侍女として連れて行くことになる。そうなれば、エーファがまたアンゼルムに苦しめられるだろうと考え、わざと突き放した。

 エーファの大好きな『お嬢様』は、いつだってエーファを守ってくれているのだ。
 
「お嬢様、絶対に助けますから……もう少し、待っていてください」
「――本当に、それでいいのかい?」

 どこからともなく、エーファに問いかける声が聞こえてきた。
 声の主を探して顔を上げると、先ほどまでは誰もいなかったはずなのに、少し離れた場所にある木に、異国の装束に身を包んだ青年が寄りかかっている。

 小麦色の肌に黒髪と金色の目を持つ、猛獣のような雰囲気の青年だ。

「あなたは、いったい――」
「通りがかりの商人だ」
「……ここは王宮のなかですよ? ただの商人ならここに来るまでに捕らえられるはずです」
「お前は知らないようだが、今は城門付近で騒動があったから、ここは警備が手薄になっている。しばらくは誰も近づかないだろう」

 もしやこの青年は、商人ではなく盗賊なのでは。
 ふと頭の中に過ったが、追及しないことにした。

 本当に盗賊であれば、かえって好機だ。城内の混乱に乗じてヒルデを助けられるかもしれない。
 
「さて、質問の続きだ。お前が大切な使命を果たすのを先延ばしにしてまで寄り道をする理由はなんだ? こんな物騒なところに来てしまえば、目的を果たす前に消されてしまうかもしれないぞ?」
「私の自己満足のためと……お嬢様を悲しませないようにするためです。私が大切な人を見捨てたと知ったら、きっとお嬢様が悲しみます。心優しいお嬢様の憂いを増やしたくないんです」
「……なるほど。お前の主は大層素晴らしい人間なんだな」
「この世で一番素晴らしい方ですよ。命を賭けてもいいくらいです」
「ふむ、ますます気に入った」

 青年は口角を上げて口元で弧を描くと、パチンと指を鳴らす。途端にエーファは自分の耳に違和感を覚えた。耳にイヤリングをつけているときのような、挟み込まれた感覚がする。
 魔杖を持っていない方の手で探ってみると、冷たい石のようなものに触れた。

「ええっ、何をしてくれちゃったんですか?」
「そう怒るな。今のお前に必要な魔道具をくれてやったんだ。ありがたく使うといい」
「いらないんですけど――うわっ、外れない?!」

 エーファがどれだけ強い力で引っ張っても、イヤリングはびくともしない。

「こんなもの、勝手につけてお金を請求したって、払いませんからね?! ――って、どこに行くんですか?」
「そんなの決まっている。愛する婚約者のもとだ」
 
 誰だよ、と心の中で悪態をつくエーファを置いて、青年は林から立ち去ってしまった。

 取り残されたエーファは呆然とその背を見送っていたが、パチンと頬を叩いて気合を入れ直す。
 今はとにかく、前に進まなければならない。
 
 感覚を研ぎ澄ませて敵に気を付けながら足を進めると、簡素な小屋の前にたどり着いた。この小屋には以前、先代の国王の友人が住んでいたのだと、アンゼルムから聞いたことがある。

(もしかすると、それは何か目的があって、捕らえていただけなのかもしれない)

 目の間に建つ小屋は一見すると平凡な造りだが、複雑な魔術式を感じるのだ。
 
 空恐ろしさを感じたエーファだが、決心して扉を開けた。
 
「ちゃんと一人で来たようだな。てっきり、ランベルト兄さんに助けを求めるのかと思っていたよ」

 扉の先にはアンゼルムと彼の手下らしき男たち五人、その男のうちの一人に取り押さえられているヒルデがいた。
 
 小屋の中は外とは異なり、広くて天井が高い。
 しかしどの窓にも鉄格子のように鉄のツタの彫刻が施されており、開放感なんてものはなかった。
 
「そんなことしませんよ。ロシュフォール団長とはそういう関係ではありませんから」

 ランベルトには、あくまで情報を聞き出すために近づいただけ。
 しかし生真面目なランベルトはさほど情報を落としてくれなかった。
 
 それでも日々、彼と会う時間を楽しみにしていた理由に、エーファはまだ気づいていない。
 
「ふ~ん……今はそういうことにしておこう」

 釈然としていない物言いだが、その声は明らかに弾んでいる。
 ようやく彼が求めてやまなかった雪の妖精が目の前に現れたのだ。上機嫌にならずにはいられない。

 いつもの模範的な王子の仮面はすっかり外してしまい、支配者然とした笑みを浮かべている。
 その濃緑色の目は、彼の心の澱みが映り込んだかのように翳っている。

「やっと会えて嬉しいよ。少しやつれたんじゃないか?」
「この世で唯一の主と離れ離れになったのですから、当然やつれますよ」
「可哀想に。これからは私がエーファをすべての憂いから守ってやるから、心配しなくていい。それくらい――君を愛しているんだ」
「――っ」

 エーファは思わず絶句した。
 アンゼルムは想像以上に強敵だった。あまりにも歪み切っているのだ。
 
 守るではなく、捕らえるの間違いではないかと、反論したくてならなかった。
 大切な人と離れ離れになったことがきっかけで心が弱ったというのに、その元凶に捕らえられて安心できるはずがない。
 
(……いや、そもそも私の意思なんて知ろうともしていないんだ)

 アンゼルムはただ、エーファを手に入れたいだけ。それは剣や宝飾品を集めるのと同じなのだ。
 
 もしもこのまま彼に捕まってしまうと、果たして自分はどうなってしまうのだろうか。
 悪い予想がふっと頭の中に浮かんでしまい、ぞっとするのだった。
 
「ヒルデさんを解放してください。そして、今後一切危害を加えないと約束してください」
「何か勘違いをしているようだ。エーファ――君は要求できる立場ではないだろう?」

 悔しいが、アンゼルムの言う通りだった。
 ヒルデが人質に取られていることもさることながら、敵陣にたった一人で足を踏み入れた時点でエーファが不利だ。
 
「……交換条件があるのなら、それに従います」
「なるほど。嬉しい提案だね。条件の内容は?」
「――っ」

 エーファは悔しさに歯を食いしばった。ブルブルと震える拳に力を入れて握り直す。
 
「今後はあなたの専属魔法使いになります。……望む限り、あなたのそばで仕えると約束します」
「欲を言えばもうひといき欲しいところだけど、これまで私の提案を頑なに断っていた君からそのような提案を聞かされるのは悪くはないね。――いいよ、それなら解放してあげる」

 アンゼルムが騎士に目で合図すると、騎士はヒルデを拘束する手を離した。

「ヒルデさん! 大丈夫ですか?!」

 エーファはヒルデに駆け寄り、彼女をできるだけアンゼルムたちから引き離す。
 ブルブルと震えるヒルデを、ぎゅっと抱きしめた。

 かつて自分がメヒティルデにそうしてもらったように、ヒルデを安心させたかった。
 
 なんせヒルデは、いきなり誘拐されて怖い思いをしたのだ。それも、この国の王太子という、抗いようのない相手に。
 
「このことは、誰にも話してはなりません。そこにいる王太子は危険な人物なので、話が漏れたら真っ先にヒルデさんの命を奪うはずですから。――それと、シリウスを頼みます。きっと今頃、置いてきぼりにされて落ち込んでいるはずです。……ごめんねって、伝えてくれませんか?」

 もちろんシリウスはエーファについてくるつもりでいた。しかしエーファが心の中で彼に命令をしたから、ついて来なかったのだ。
 アンゼルムは目的のためなら手段を選ばない人間だ。
 
 シリウスがエーファの大切な相棒だとわかっている以上、何をしてくるのかわからない。だから相棒を巻き込まないよう、敢えて残してきたのだ。
 
「ヒルデさん、こんなことがあっても、明日の独唱はがんばってください。――ヒルデさんの会いたい人に、歌声が届くよう願っていますから」
「エーファさん……でも――」
「こうなることも含めて、私の決断なんです。何があってもヒルデさんを守って、ヒルデさんに歌ってもらいたいと思っていますから――どうか、私の我儘を叶えてください」

 ヒルデの目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。はくはくと動く口が、彼女の綯交ぜになった思いを表している。

 エーファに辛い思いをさせたくない。しかし自分は非力で、彼女の決断を覆したところで何もできないと、悟ったのだ。
 
 ヒルデはそれをセーターの袖で拭うと、不器用に微笑んだ。
 
「それでは、祈りの歌を贈らせてください。エーファさんにも、聞いてほしかったんです」

 そう言い、彼女は降星祭で披露するはずの祈りの歌を歌い始めた。
 初めは声が震えていたが、ぎゅっと胸の前で手を組むと、途端にのびやかになった。

 ヒルデの歌は以前に増して優しくエーファの心を震わせた。
 生まれて初めて自分のためだけに贈られる歌を、エーファは目を閉じてしっかりと聞き届けたのだった。
 
「ヒルデさん……どうかお元気で」

 もう二度と、ヒルデに会うことはないだろう。
 たとえ会ったとしても、他人のように距離をおくしかない。

 そうしなければまた、ヒルデが傷つけられてしまう。
 
 エーファは白銀の魔杖に魔力を込め、呪文を唱えて転移魔法をヒルデにかける。
 座標はフリートヘルムにした。彼ならきっと、ヒルデを安全な場所で保護してくれるだろう。

 光の粒子がヒルデを包み込む。
 そしてゆっくりと、ヒルデとともに消えた。
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