シナモンと葡萄酒と白銀の魔杖
21夜目のためのお話:真実
ヒルデを安全な場所に逃がすことができ、エーファは胸を撫でおろした。
「酷い言いようだね。エーファは私をそのように思っていたのか」
「お気を悪くされたのであれば謝罪します。しかし、私にそう言わしめるほどのことをなさった自覚はありますよね?」
「エーファがいい返事をくれなかったのだから、しかたがないではないか」
本当にたちが悪い男だ。エーファは笑顔を浮かべつつ、内心悪態をつく。
自分が悪事を働くのはエーファのせいだと言う。それがこの男のやり方だ。
精神的に追い詰められて判断が鈍った相手に畳みかけ、自分のもとに落ちてくるのを待っているのだ。
「――だけど、今日は許してあげるよ。ようやくエーファが私のそばにいると言ってくれたからね。今は気分がいいんだ」
「……」
内心は悔しくてならないエーファだが、その感情が顔に出ないように頬の筋肉に力を入れる。
たしかにエーファはアンゼルムの専属魔法使いになると言った。しかし忠誠を誓うとは言っていない。そんなことはまっぴらごめんだ。
(絶対に、忠誠心だけは渡さない。私の忠誠はお嬢様のためのものなんだから……!)
大きく深呼吸し、込み上げてくる怒りを押さえ込む。
心の揺らぎを相手に悟られては足元を掬われる。特に貴族や王族たちは相手の感情につけ入り、支配しようとする生き物だから注意しなければならない。
メヒティルデの教えを思い出し、感情が爆発するのを防いだ。
「安心するといい。私は先代の国王のように閉じ込めはしない。先代の国王は、優秀な魔法使いをここに閉じ込めては自分の望む魔法を研究させて飼殺していたそうだよ。だけど私はエーファには行動の自由を与えるし、望むなら王宮の一室を与えよう」
聞こえはいい待遇だが、その前提にはアンゼルムのそばに仕え続けるという前提がある。暗にエーファの行動を制限しているのだ。
「身に余るような贅沢は望みません。――しかし、望むことが許されるのであれば、教えてほしいことがあります」
「エーファが私に望んでくれて嬉しいよ。言ってみるといい」
「……なぜ、お嬢様がケーラー伯爵令嬢の誘拐に加担したと偽ったのか教えてください。お嬢様と二人でアーレンベルク公爵夫妻を摘発するために動いていたあなたなら、お嬢様がそのようなことをするお方ではないとわかっているはずです」
「ああ、わかっているよ。メヒティルデは嫉妬に駆られるような人間ではない。だけどエーファの心を動かすにはお誂え向きだったから、嫉妬深い公爵令嬢に仕立てたんだよ」
「――っ!」
エーファの微笑みが崩れるその瞬間を、アンゼルムは見逃さなかった。形の良い唇が持ち上がる。
「メヒティルデが必要以上に人と関わろうとしなかったおかげで、上手く騙せたよ。大抵の貴族たちは王太子の婚約者であるメヒティルデに媚びをうっておきながら、内心は高慢だと蔑んでいたからね」
「高慢なんて……お嬢様はただ、誰にでも公平に接していただけなのに……」
公正明大なメヒティルデは、媚びへつらう人間だけが得をする世界を拒んだ。だから擦り寄って来る者にも淡々と接していただけだ。
人は相手が思い通りにい動かなければ、身勝手に憎悪を募らせる。アンゼルムはその憎悪を利用し、彼らが掌を返してメヒティルデを非難する様を静観した。
そうして、声の大きな者の言葉に周りは動かされる。
人々はメヒティルデが濡れ衣を着せられている可能性を考える暇もなく、流されたのだ。
メヒティルデを裁くために開かれた裁判に、真実なんてなかった。権力者たちが都合のいい状況を創り出すための茶番に過ぎなかったのだ。
「……事件の、真相は――」
「メヒティルデは何もしていないよ。ただ、事件の当日は私が指示していた場所にいてもらっただけ。そこに私の雇った目撃者を歩かせて、犯人に仕立て上げたんだ。ユリアは共犯者だ。もともと今回の婚約破棄は、彼女が提案しのだよ」
「どうしようもない、外道たちめ……」
メヒティルデは貴族の義務としてアンゼルムと結婚するつもりだった。始まりに愛はないが、それなりに彼を大切にしていた。
責任感の強い彼女は、未来の王妃としてアンゼルムを支えていこうと、彼女なりに歩み寄っていたのだ。おまけに国民たちを守る王妃になろうと、寝る間も惜しんで勉学に励んだ。
妃教育が本格化してからは年頃の令嬢たちのように買い物を楽しむことも旅行に出かけることもなく、もくもくと与えられた課題をこなしてきた。
十年以上もの大切な時間を全て彼や国民のために捧げてきたのだ。この、慢心と強欲に染まってしまった醜い王太子のために。
「ああ、嬉しい。私に怒ってくれているんだね?」
アンゼルムはうっとりとした眼差しでエーファを鑑賞する。
なかなか自分を見てくれなかった美しい薄青色の目に宿る憎しみを存分に堪能した。
彼の求めてやまない雪の妖精が、自分に感情を揺さぶられている。
長年の夢が叶い、歓喜が胸を占めるあまり声を上げて笑った。
「エーファは憎悪に歪んだ顔も美しい。わざわざメヒティルデを国外追放した甲斐があったよ」
「……いい加減にしてください。私の怒りは見世物ではありません!」
辺りの気温が急降下した。エーファの怒りが魔力に作用しており、足元に氷の結晶を形作っている。
「王太子殿下に危害を加えるな!」
アンゼルムの手下の一人が鋭く声を張り上げる。
残りの男たちが一斉に動き、剣を鞘から抜いてエーファに向けた。刃がエーファに向けられており、少しでも動いたら触れてしまいそうだ。
「そうだよ、エーファ。怒るのは大歓迎だけど、手を出してはダメだ。メヒティルデにしていたように、誠心誠意をもって盲目的に仕えてくれないといけないよ」
「――っ」
アンゼルムの言葉にエーファの怒りは増す一方だ。歯を食いしばり震える彼女に、手下たちの剣が近づく。
ひやりとした鋭利な刃が首元に近づけられたその時、小屋の扉が大きく開かれた。
「エーファさん!」
「ロシュフォール……団長?」
宵闇に溶け込むような漆黒の騎士服を着たランベルトが入ってきた。
ここまでかけてきたのか、息が上がっている。
彼の紫水晶のような目が剣呑な気配を帯びて手下たちを睨みつけると、彼らの体が微かに揺れる。
ランベルトはその一瞬を見逃さなかった。
剣を鞘から抜くと、手下たちからの攻撃を受け流しつつ剣の柄を使って気絶させる。
手下の一人がエーファを人質に取ろうとしたが、エーファの氷魔法で返り討ちに遭ってしまった。
そうして最後の一人を気絶させたランベルトは、エーファの顔を覗き込む。気遣わしげな表情が視界を占めると、張り詰めていたものがふっと切れた気がした。
力が抜けて足元がおぼつかないエーファを、ランベルトが片手で支える。
「エーファさん、お怪我はありませんか?」
「どうして、ロシュフォール団長がここに――」
「フリートヘルム殿下が知らせてくださったんです。あなたが一人で向かったと聞いて、生きた心地がしませんでした。――無事で、本当に良かった」
見つめ合う二人に、影が近づく。
「ランベルト兄さん、その手をエーファから離せ」
アンゼルムの低い声が、二人の耳に届いた。
「酷い言いようだね。エーファは私をそのように思っていたのか」
「お気を悪くされたのであれば謝罪します。しかし、私にそう言わしめるほどのことをなさった自覚はありますよね?」
「エーファがいい返事をくれなかったのだから、しかたがないではないか」
本当にたちが悪い男だ。エーファは笑顔を浮かべつつ、内心悪態をつく。
自分が悪事を働くのはエーファのせいだと言う。それがこの男のやり方だ。
精神的に追い詰められて判断が鈍った相手に畳みかけ、自分のもとに落ちてくるのを待っているのだ。
「――だけど、今日は許してあげるよ。ようやくエーファが私のそばにいると言ってくれたからね。今は気分がいいんだ」
「……」
内心は悔しくてならないエーファだが、その感情が顔に出ないように頬の筋肉に力を入れる。
たしかにエーファはアンゼルムの専属魔法使いになると言った。しかし忠誠を誓うとは言っていない。そんなことはまっぴらごめんだ。
(絶対に、忠誠心だけは渡さない。私の忠誠はお嬢様のためのものなんだから……!)
大きく深呼吸し、込み上げてくる怒りを押さえ込む。
心の揺らぎを相手に悟られては足元を掬われる。特に貴族や王族たちは相手の感情につけ入り、支配しようとする生き物だから注意しなければならない。
メヒティルデの教えを思い出し、感情が爆発するのを防いだ。
「安心するといい。私は先代の国王のように閉じ込めはしない。先代の国王は、優秀な魔法使いをここに閉じ込めては自分の望む魔法を研究させて飼殺していたそうだよ。だけど私はエーファには行動の自由を与えるし、望むなら王宮の一室を与えよう」
聞こえはいい待遇だが、その前提にはアンゼルムのそばに仕え続けるという前提がある。暗にエーファの行動を制限しているのだ。
「身に余るような贅沢は望みません。――しかし、望むことが許されるのであれば、教えてほしいことがあります」
「エーファが私に望んでくれて嬉しいよ。言ってみるといい」
「……なぜ、お嬢様がケーラー伯爵令嬢の誘拐に加担したと偽ったのか教えてください。お嬢様と二人でアーレンベルク公爵夫妻を摘発するために動いていたあなたなら、お嬢様がそのようなことをするお方ではないとわかっているはずです」
「ああ、わかっているよ。メヒティルデは嫉妬に駆られるような人間ではない。だけどエーファの心を動かすにはお誂え向きだったから、嫉妬深い公爵令嬢に仕立てたんだよ」
「――っ!」
エーファの微笑みが崩れるその瞬間を、アンゼルムは見逃さなかった。形の良い唇が持ち上がる。
「メヒティルデが必要以上に人と関わろうとしなかったおかげで、上手く騙せたよ。大抵の貴族たちは王太子の婚約者であるメヒティルデに媚びをうっておきながら、内心は高慢だと蔑んでいたからね」
「高慢なんて……お嬢様はただ、誰にでも公平に接していただけなのに……」
公正明大なメヒティルデは、媚びへつらう人間だけが得をする世界を拒んだ。だから擦り寄って来る者にも淡々と接していただけだ。
人は相手が思い通りにい動かなければ、身勝手に憎悪を募らせる。アンゼルムはその憎悪を利用し、彼らが掌を返してメヒティルデを非難する様を静観した。
そうして、声の大きな者の言葉に周りは動かされる。
人々はメヒティルデが濡れ衣を着せられている可能性を考える暇もなく、流されたのだ。
メヒティルデを裁くために開かれた裁判に、真実なんてなかった。権力者たちが都合のいい状況を創り出すための茶番に過ぎなかったのだ。
「……事件の、真相は――」
「メヒティルデは何もしていないよ。ただ、事件の当日は私が指示していた場所にいてもらっただけ。そこに私の雇った目撃者を歩かせて、犯人に仕立て上げたんだ。ユリアは共犯者だ。もともと今回の婚約破棄は、彼女が提案しのだよ」
「どうしようもない、外道たちめ……」
メヒティルデは貴族の義務としてアンゼルムと結婚するつもりだった。始まりに愛はないが、それなりに彼を大切にしていた。
責任感の強い彼女は、未来の王妃としてアンゼルムを支えていこうと、彼女なりに歩み寄っていたのだ。おまけに国民たちを守る王妃になろうと、寝る間も惜しんで勉学に励んだ。
妃教育が本格化してからは年頃の令嬢たちのように買い物を楽しむことも旅行に出かけることもなく、もくもくと与えられた課題をこなしてきた。
十年以上もの大切な時間を全て彼や国民のために捧げてきたのだ。この、慢心と強欲に染まってしまった醜い王太子のために。
「ああ、嬉しい。私に怒ってくれているんだね?」
アンゼルムはうっとりとした眼差しでエーファを鑑賞する。
なかなか自分を見てくれなかった美しい薄青色の目に宿る憎しみを存分に堪能した。
彼の求めてやまない雪の妖精が、自分に感情を揺さぶられている。
長年の夢が叶い、歓喜が胸を占めるあまり声を上げて笑った。
「エーファは憎悪に歪んだ顔も美しい。わざわざメヒティルデを国外追放した甲斐があったよ」
「……いい加減にしてください。私の怒りは見世物ではありません!」
辺りの気温が急降下した。エーファの怒りが魔力に作用しており、足元に氷の結晶を形作っている。
「王太子殿下に危害を加えるな!」
アンゼルムの手下の一人が鋭く声を張り上げる。
残りの男たちが一斉に動き、剣を鞘から抜いてエーファに向けた。刃がエーファに向けられており、少しでも動いたら触れてしまいそうだ。
「そうだよ、エーファ。怒るのは大歓迎だけど、手を出してはダメだ。メヒティルデにしていたように、誠心誠意をもって盲目的に仕えてくれないといけないよ」
「――っ」
アンゼルムの言葉にエーファの怒りは増す一方だ。歯を食いしばり震える彼女に、手下たちの剣が近づく。
ひやりとした鋭利な刃が首元に近づけられたその時、小屋の扉が大きく開かれた。
「エーファさん!」
「ロシュフォール……団長?」
宵闇に溶け込むような漆黒の騎士服を着たランベルトが入ってきた。
ここまでかけてきたのか、息が上がっている。
彼の紫水晶のような目が剣呑な気配を帯びて手下たちを睨みつけると、彼らの体が微かに揺れる。
ランベルトはその一瞬を見逃さなかった。
剣を鞘から抜くと、手下たちからの攻撃を受け流しつつ剣の柄を使って気絶させる。
手下の一人がエーファを人質に取ろうとしたが、エーファの氷魔法で返り討ちに遭ってしまった。
そうして最後の一人を気絶させたランベルトは、エーファの顔を覗き込む。気遣わしげな表情が視界を占めると、張り詰めていたものがふっと切れた気がした。
力が抜けて足元がおぼつかないエーファを、ランベルトが片手で支える。
「エーファさん、お怪我はありませんか?」
「どうして、ロシュフォール団長がここに――」
「フリートヘルム殿下が知らせてくださったんです。あなたが一人で向かったと聞いて、生きた心地がしませんでした。――無事で、本当に良かった」
見つめ合う二人に、影が近づく。
「ランベルト兄さん、その手をエーファから離せ」
アンゼルムの低い声が、二人の耳に届いた。