副社長の甘い罠 〜これって本当に「偽装婚約」なのでしょうか?〜

「はい、ちょうど5年ほど前から、各フロア順次改装しております。お越し頂いたのは久しぶりだったんですね」

「私は昔、ここのパート清掃員として働いていたんだよ。前の会社を55才で早期退職した後、憧れのホテル・ザ・クラウンで働いてみたくてね。清掃なんて未経験だったのに、当時いた倉田さんという方が快く迎え入れてくれたんだ」


自分と同じ「倉田」という苗字を聞いて、ドキッとする。この人はお父さんのこと、知ってるんだ…。


「そうだったんですね」

「君の物腰の柔らかさとか、どこか顔の雰囲気も倉田支配人と似ていたから、つい昔のことを話したくなってしまったよ。引き止めてすまないね」

「それが……私、その倉田支配人の娘なんです」


ゲストにプライベートなことを話すなんて滅多にないけれど、父のことを知っている元スタッフと分かると、つい自分の素性を明かしたくなってしまった。何より、当時の仕事人としての父の話を聞きたいと思った。


「そうだったのか…! すまない、私は目が悪くて君の名札がちゃんと見えてなかったよ。
……あぁ、本当だ。支配人と同じ名字だったね。これは失礼した」

 
そう言って、まじまじと名札を見つめられる。
そのゲスト、青木様は、昔を懐かしむように優しく微笑んだ。


「君のお父さんは本当に人格者で、求心力もあった。みんなが本当に慕っていたよ。それがあんな事故に遭ってしまって、私も辛くなってここを去ってしまった」

「そうだったんですね…」


事故の話になり、胸がぎゅっと絞まるようだった。当時一緒に働いていた青木様も、辛い想いをして辞めるほどだったなんて…。
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