オレノペット
ターニングポイント
地下の資料室の奥の滅多に人が入らない、在庫管理室。
昼休みといえど、白熱灯が消えかかっていて、薄暗い。
そんな部屋の中で、壁に押しやられて、両手を拘束されている今。
「す、杉崎さ…んんっ」
そのまま唇が塞がれる。
「…メガネ邪魔。買ってあげるから、コンタクトにして?」
「こ、これは…ブルーライト用ですから…」
「じゃあ、席立つ時に外してくりゃいいでしょーが。」
メガネがスッと外された。
「…まだ、昼休み終わんないよね。」
口角をあげてキュッと笑う彼は、まるで天使のような柔らかい表情のまま、その唇を私の首元に押し当てた。
………そもそも。
こんなとんでもない絵面になったのはなぜか…。
最初のきっかけは、たまたま行った居酒屋で杉崎さん…『杉崎遥』さんと出会ったことだった。
それは、5月のゴールデンウィーク明けの出来事…5月20日。
3年付き合った彼がプロポーズをしてくれて、「結婚資金を出し合おう」と私の貯金のほとんどを新しく作った自分の通帳へと移した後、消息不明。
その上、数十万ではあったけど、借金があって。その支払人がどういうわけか私になっていた。
その日から、スーツは一応来てるけど、どう考えても恐い男の人が毎日のようにアパートの部屋の前をうろついて、大家さんに『出て行ってくれ』と言われてアパート契約は解除。
途方にくれて、とりあえず、手っ取り早くお酒に逃げた。
アパートから追われるように荷物をまとめて部屋をでて。
入った居酒屋は、赤提灯みたいな、昔からあるような居酒屋で。
おっちゃんがいつ行ってもおおらかで、楽しかったかったからたまに一人でフラッと行っていたお店。
いつも通りに入って、焼酎や日本酒を一人で飲んでたら、目の前に現れたのが杉崎さんだった。
大手物産会社であるうちの会社の社員…しかもニューヨーク支部でバリバリ仕事をしていた超エリートがそんなところに来るとは夢にも思わないじゃない。
まさに、私にとっては、非現実的なこと。青天の霹靂ともいうべきことだった。
「あれ?経理部の川上沙奈さん?」
そりゃあ…びっくりしましたよ。
私の事、どうして覚えてるの?!
なんて所から半ばパニックで逃げ出したいけど、千鳥足だから逃げ出せない。
「こんなとこで一人酒なんて寂しいこと」なんて笑う杉崎さんにあっさり捕獲され。
「いいよ、面倒くさいけど会っちゃったんだから聞いてあげる」って優しい笑顔に心をほぐされ。
自分の身の上を打ち明けた。
…多分、後から考えればそこが私の人生を変えたターニングポイントだったんだって思う。
最後まで聞いた彼は、「大変だったね」と私の頭をよしよしと撫でて、さらに優しく微笑んで言った。
「……んじゃ、俺ん家来る?」
………………と。
エリートのイケメンが「大変だったね」なんて優しい言葉を微笑み付きでかけてくれて…
「借金もその額なら、とりあえず俺が払うから、後々俺に少しずつ返せば良いんじゃない?そうすりゃ利子増えないからすぐ返せるでしょ?」とサクッとその場で金融会社に連絡取ってお支払い。
その上、「川上さんが居たいだけいてくれて良いから」と宿も提供してくれる。
世の中、そんな良いことずくめで終わるはずがなかった。
“『元彼に騙されて宿無し』のどん底の精神状態だった上に、かなり酔っていた。”
言い訳をすればそうなるのだけど。
知っている人…しかも、同じ会社の超エリート社員という肩書きにすっかり翻弄されて信用してしまったのだと思う。
崖っぷちに立たされていた私は、藁をもつかむ気持ちで、「そうか、仕事ができる方は、人助けもこなすのか」と尊敬の念まで抱き、甘えてしまった。
大きなリュックとトートバック一つを持って、彼についていき、たどり着いた、杉崎さん宅の高級マンション10階角部屋。
「んじゃ…まあ、よろしく」
そう言った彼は、あろう事かいきなりソファに私を押し倒した。
「あ、あの…」
「…何?」
慌てた私をいぶかしげな顔で見る杉崎さんに、不安を覚えて手が震えたけど、その胸元を一生懸命押した。
「えっと…こ、これはどういう…」
「どういうって、拾ってやったんだから当たり前でしょ?」
拾っ…た……。
「そんなさ、見返り求めず親切にするヤツなんて、この世に居るわけないと思うけど。」
その指先を私の髪に差し込み、どこか幼さの残るその顔が妖艶な笑みを浮かべる。
…私だってイイ大人。
元彼に騙されはしたけれど、それなりに経験はあるわけで。
酔いの覚めた今、この後される事なんて、容易に想像がついた。
自己責任だよね…もはや。
「…ま、ちゃんと可愛がってあげますから、懐きなよ、“ペット”さん?」
前の彼氏で痛い目を見たはずなのに。
いくら、藁をも掴みたい程に精神的にやられていたとはいえ…自分が情けなくて、悲しくてぼやけた視界。
抱き起こされて、頬を杉崎さんの厚めの丸みをおびた手のひらが覆い、その親指で目元をぬぐわれた。
「あのね。こういう状況を選んだのはあなたでしょ?
泣いたってムダ。」
コツンとおでこ同士がぶつかり合う。
「…どんなに泣いても、もう俺のモン。」
吐息混じりの囁き。
もう…仕方ない。
諦めからの覚悟の後、目を閉じたと同時に軽く触れた唇同士。
……けれど。
それは予期していた…覚悟していたものとは、全く別物だった。
柔らかく…そして優しく。
心無いような先ほどの言葉とは裏腹に
まるで……
私が壊れてしまわない様扱っているかの如く、そっと…ゆっくりと丁寧に触れてくれる。
繰り返されるうち、気持ちが柔らかく溶けていくような感覚になって、力が抜け、いつの間にか涙が止まってた。
「…可愛い。」
そんな私に鼻をすり寄せ穏やかに笑う杉崎さん。
その腕の中が、とても温かく感じて、今度は安堵の涙が溢れる。
……いいや、もう。
ペットでも何でも。
深くなったキスを受け入れ、シャツを脱いだ。
……その指先が身体の線を滑りゆき、互いの吐息は絡み合った舌の水音と一緒に部屋に溶けていく。
何度も、何度も杉崎さんの感触を刻み込まれたその夜は
疲労と安堵、不安の狭間でいつの間にか果てていた。