オレノペット




 次の日の早朝。

 重たい瞼を押し開けたら、目の前にくうくうと安らかな寝息を立てている、整った幼顔が現れた。

 杉崎さんの左腕が私の頭の下に置かれて、その手のひらが髪を撫でるように優しく添えられていて。
 右腕は、腰あたりに置かれて私の体を抱き寄せている。

 いわゆる、杉崎さんの「腕の中」で眠っていた状態。

 …何だろう。
 久しぶりに深い眠りに落ちていた気がする。


 杉崎さんを起こさないようにそっと右腕を外してベッドから起きた。


 杉崎さん…私と同居は会社にはバレたくないよね…。


 そう思い、杉崎さんが起きる前に支度をして家を出た。


 一応、朝ご飯も作って。

 食べるかどうかはわからないし、出過ぎた真似だから、怒られるかもしれないけれど、何となく、自分だけの分を作るって言うのも違うなあと思って。

 お金をあまりもっていないから、大したものは作れないけど、アパートから持ってきていた少しのものと、昨日、杉崎さんのお宅に伺う前にコンビニに寄った時に自分で買って持ち込んだ材料で少しだけど作って置いてきた。

 ついでに、お弁当も。


 …怒られるかな。



 そんな不安を残しつついつも通りの就業をこなし、昼休みが近づいた11時半過ぎ、突然、スマホが震えた。


 『昼休み、地下の資料室隣の在庫管理室に来て。』


 杉崎さんだ…

 12時の終業の鐘が鳴った後、課長に頼まれていた書類の整理を少し終わらせてから、急いで向かう。


 結構時間が過ぎちゃったな…


 焦っていたから、ブルーライトメガネを外すのを忘れて、そのまま地下へと降りて行く。

 そっと在庫管理室を開けると、小さな部屋の中、『遅いんですけど』とスマホをいじりながら、数段積み上がっていた段ボールに寄りかかる彼の姿があった。


 「あ、あの…何か…」


 や、やっぱり怒られるのかな…勝手に朝ご飯とお弁当用意したこと。


 ツカツカと近寄って来た彼に一瞬身体をこわばらせたら、ふわりと身体を抱き寄せられた。


 「…美味かった、朝飯。弁当も、作ってくれてありがとう。」


 あり…がとう…


 思ってもみなかった言葉に鼓動がドキドキと音を立て始める。


 「…悪かったね。金が無いのに。俺、あんま食に興味無いからそこまで気が回らなかったわ。」


 少し身体が離れて、腰を腕で支えられ、至近距離には口角をキュッと上げた相変わらず幼さのある柔らかい笑顔。


 「今日の夕飯から俺が出すから。当然、沙奈の分も。」


 そのまま、顔が近づいて来て、唇が重なった。


 「あ、あの…」


 思わず押したその胸元。


 「か、会社では…その…こ、こう言う事は…」


 途端


 「…そんなの関係ないでしょーが。」


 さっきとは一変。
 杉崎さんは不機嫌な声色に変化し、私の手首をグッと掴んだ。


 「…路頭に迷う?」


 お、怒らせた…。

 頭の中は真っ白になって、この状況をやり過ごす術なんて思いつかない。

 仕方なく、俯き加減に口をつぐんだ。


 「まあ…家出した所で連れ戻すだけだけどね。
 沙奈は“俺の”なんで。 」


 そんな私に、杉崎さんは覗き込む様に顔を近づけ鼻をすり寄せる。
 メガネがぶつかり少しカチャリと音を立てた。


 「…メガネ、邪魔。」





 ………そこから、20分ほど。


 覇気なく仕事場へと戻って席についた私を先輩達が心配そうに見る。それに『大丈夫です』と笑顔を返した。


 …けれど。

 け、結局最後までいかなかったとは言え、社内であんな秘め事を…。


 昨日といい、今日といい、拒めない自分が情けない。
 いくら借金を肩代わりしてくれて、住まわせてくれているからって……こ、ここまで流されるのはどうなの?


 でも……お弁当も朝ご飯も食べてくれたんだよね…杉崎さん。


 美味しかったって……


 『沙奈…可愛い。』


 耳元で囁かれる優しい声と、それと同じくらい丁寧に触れる唇の柔らかい感触を不意に思い出し、ぽーっと意識が離れていたらしい。


 「川上さん?」

 「は、はい!」


 し、しまった……。


 「沙奈ちゃん、今日は一段と面白いわよ?」
 「ほら、飴あげるから、落ち着いて?」
 「頼むから、数字間違えないでくれよ。」


 同じ部署の先輩達に気を遣わせてしまい、課長にはクギを刺される有り様で。


 …とにかく仕事に集中しないと。


 何とか意識を仕事に戻すべく、いつもの何倍も体力を使ったんだって思う。


 つ、疲れた……


 帰る頃には精魂使い果たし、フラフラと歩いていたら、会社ビルの一階で、誰かに少し肩がぶつかってしまった。


 「す、すみません!」

 「いや、こちらこそ …って、ああ、川上さん。ごめん。ちょっと急ぎの用件でスマホ見てたわ。」


 あ…杉崎さんと同じ営業一課の田辺唯斗さんだ。
 よく経理に書類を持ってくると喋ってくれるんだよね…


 私を認識している貴重な人かも。


 「……何か、今日雰囲気違くない?」


 スマホを鞄にしまいながらジッと私を見つめる田辺さんにギクリとする。


 田辺さんは、大きな目の持ち主で、さらに堀が深い顔立ちで、目力がかなりある。
 そんな田辺さんに見つめられたら、何というか全てがバレそう。


 「そ、そんなことありませんよ?ほ、ほら…金額見過ぎて目が疲れてショボショボしてるからじゃ…」


 慌てて、話を早く終わらせようと、愛想笑いで誤魔化してみる。


 「ああ…髪下ろしてるからかな。」

 「はあ…ちょっと乱れていたので、おろしました。ボサボサではありますが…」

 「あ、俺美容室良いとこ知ってるよ。早い、綺麗、安い。
 今から行こうぜ。俺が頼めばすぐやってくれんから。」

 「えっ?!今から?!」


 び、美容室なんて行けるほど、私お金が…


 「あ、あの…だ、大丈夫です…」

 「遠慮すんなって!行くぞ、ほら。」


 遠慮とかじゃなくて…とは言えぬまま、田辺さんに半ば強引に引っ張られ、会社を出て行く。


 その光景をまさか杉崎さんに見られているなんて、この時は思っても見なかった。



 .



 「じゃあ、俺はまだ仕事あるからここでね。可愛くして貰いな。」


 私を意気揚々と美容室まで連れて行った田辺さんは、これからお得意様との打ち合わせに行くらしく、私を美容室のスタッフに紹介して、去って行った。


 耳に大きなピアスをした、スタイリッシュな男性美容師さんがニコリと微笑む。


 「田辺さんの紹介なので、今日は特別に“カットモデル扱い”にしておきます」


 そう言ってシャンプー代のみお支払いにしてくれて、ボサボサの原始人みたいだった髪は、毛先が肩下でクルンと少し内側に入る、女子っぽい髪型になった。


 美容師って…凄い。
 そして、『カットモデル扱いで』と言わせてしまう田辺さんも凄い。


 感心しながら家に着いたのは8時過ぎ位。

 玄関を開けた先で、リビングに灯りがついていて、ドキンと大きく鼓動が跳ねた。


 もう…帰って来てる。


 「た、ただいま…です…」


 そっとリビングに顔を出すと杉崎さんはソファにあぐらをかいてゲームをしていた。


 私を一瞥し、「…うん。」とテレビ画面へと視線を移す。


 「す、すみません…お、遅く…」
 「や、別に遅かないでしょ。」


 コントローラーを置いて立ち上がると、ドアの前に立ち尽くしている私の側までやって来た。


 「…楽しかった?唯斗に送って貰って浮かれながら髪切るの。」


 えっ…?
 何で知って…


 思った瞬間、腰から乱暴に抱き寄せられた。


 「軽々しくまあ、しっぽ振ってついてくんだね。」
 「あ、あの…んんっ」


 乱暴に塞がれた唇に息苦しさを感じて、思わずそのTシャツをギュッと掴む。

 それがきっかけだったのかはわからないけれど、その後に繰り返されるキスは角度を変えるごとにゆっくり丁寧なものに変化して。

 最後には穏やかで優しく触れるだけになった。


 「…切るとイメージ変わるんだね。いいじゃん、可愛いよ。」


 おでこがコツンとぶつかって今度は機嫌の良い声。


 「でもさ、あんまり軽々しくついてっちゃだめじゃない?どうすんだよ、相手の男が俺みたいのだったら。」

 「お、俺みたいの…」

 「そ。会社でも家でも…こんな感じ?」


 昼間の情事が頭を過ぎり、顔が反射的に熱くなる。


 「…何、思い出した?」


 ニヤリと妖艶な笑みを浮かべて覗き込まれ、思わず顔を逸らした。


 けれど、両頬を包まれて正面に視線を戻されて、また唇を塞がれる。

 そのキスは、やっぱり優しくて。


 「風呂、入ります?洗ってあげる。」


 そういう彼をどうしても拒めない。





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