少女人魚ブリュンヒルデよ、海上で平和の歌をうたえ
リリューシュカの手記
兄さんが帰ってきて、三年が経った。
戦争に行っていたときはひとりだった食卓が、今はふたり。
とても嬉しい。
兄さんは私が作るものをなんでも喜んで食べてくれる。トマトスープも。レモンパイも。庭で育てたキャベツで作ったザワークラフトも。
(これはちょっと酸っぱいって言われたから、今度加減してみようかな)
近所のアーダおばさんから頂いたチーズを挟んだレバーケーゼも。
とにかくなんでも食べてくれる。黙って静かに大くちを開けながら、目の前で男の人が、ぽいぽい食べ物を銀の匙で運ぶ姿は心地よかった。
戦争前より食欲旺盛だねって言ったら、兄さんは「死んでいった仲間の分も、生きなきゃならんからな」って言って笑ってた。
私にはその笑顔が、なんだか切なく儚げに見えたの。私が兄さんと同じ蒼い瞳を揺らして心配そうな顔をすると、兄さんは乾いた笑い声と共に、大きな手のひらで私のブロンドを撫でてくれた。
それをされるたびに、うなじでゆるくひとつに束ねた私の長いみつあみが、ふらふらと揺れて、灯した暖炉のあかりに映えて、きらきらと茜色の光沢を放った。
兄さんはそういうとき、私を見つめる顔は、ひどく優しかった。瞳は夜の月をうつした水面のように揺れて、淡い水色を刷毛で塗ったような色に変わって。
兄さんが家に帰ってきて、しばらくしてからまずやっていたことは、アルベリヒさんのお父さんお母さんの家に行くことだった。兄さんはそのとき、手のひらに鈍いひかりを放つ、銀製のペンダントを握っていたんだけど、
帰ってきたらなくなってから、あれを渡しに行ったんじゃないかなぁ。
アルベリヒさんは、戦いの中で死んでしまったって聞いた。私もよくしてもらったから悲しかったけど、兄さん曰く「海の男らしい勇敢な最期だった」って言ってた。
兄さんはペンダントを持っていた手のひらを、顔の前まで上げてじっと見つめていた。くちびるを引き結んで。思い入れのあるペンダントだったんだろうなぁ。兄さんも、私の写真を入れたペンダントを、いつも首に下げてくれていたそうだから。
それからブレンくんという兄さんの部下の男の子が挨拶に来てくれた。籠いっぱいに黒パンを持って。
ブレンくんのお母さんが焼いてくれたんだって。
ドアをノックして「こんにちはー」って言って訪ねてくれたとき、兄さんは扉から少し離れたところにいたのから、私が車椅子を自分で押して最初に出たんだけど、ブレンくんは私の顔を見て、目とくちをまんまるにして。
そのあと私の背後に立った兄さんが、意味深な笑顔で「妹のリリューシュカ」だって紹介してくれたら、「あっ、ああそうなんですね!」って言って、ブレンくんの動揺は少しおさまったみたいなんだけど、あれは一体なんだったのかしら?
兄さんたちは私が作ったスープとオレンジジュースを肴にしながら、いろいろな思い出話をしていた。ブレンくんは頬に片手をついて。脚の高い椅子でぷらぷら両足を揺らしながら。とてもリラックスしているように見えたわ。
兄さんも、微笑みが優しかった。私に向けるのとは、また別の色で。目元を細めて、蒼い瞳を冬の湖面のようにかすかに揺らし、じっとおしゃべりなブレンくんのお話を聞いている。
ブレンくんのお話の中で、【双子】と【イザベル】という名前が登場した。
双子とイザベル? 私の知らないひとたち。
どうも、そのひとたちはクルワズリという東洋的な雰囲気の街で、一緒に暮らしているらしい。アカネちゃんという男勝りな女の子が、イザベルさんというひとに、人間界での暮らし方について教えてるって。人間界って何? 喧嘩しながらも、まぁ仲良く楽しく暮らしてるらしい。双子の弟のアオイくんという子が、気の強いふたりの間の良い仲介役なんだとか。三人暮らしっていいな。うちは兄さんとふたりだし、喧嘩したこともほぼほぼないから、全然雰囲気が違いそう。
まぁ、もの静かで優しい兄さんとふたりの暮らしも、嫌いじゃないけどね。穏やかな春の海みたいな暮らしが、途切れなく続いてゆくの。
ああ、あと、そうそう! 帰ってきてから兄さんが変わったことといえばーーピアノを弾くようになったこと!
それまでは軍人としての知恵をつけるための読書や、体力作りの運動だとかで、子供の頃から亡くなった母さんに習っていたピアノはほとんど触らなくなっちゃったっていうのにさ。兄さんは家で新聞社に時々依頼されて海軍の歴史に関する記事を書く仕事をするようになったんだけど、時間が空いた日曜日の昼下がりには黒いグランドピアノの前に座ってピアノを弾いてくれるの。
私は車椅子をゆったり動かして、兄さんの近くまで移動すると、鍵盤の横にある丸テーブルを枕に、うっとりとそれを聞いている。
それが私たち兄妹の習慣になっている。
私がまばたきをすると、兄さんの指先は、いつの間にか白と黒の鍵盤の上を、滑るように移動する。私はその動きを見ることと、氷と氷がぶつかったような、冷えた清らかな音を出すピアノの音が好きだった。
ああ、こんな平和な日曜日、兄さんが帰ってくるまで孤独で苦しかった日々を思うと想像もできなかったな。本当に、帰ってきてくれてよかった。
聴き慣れたオーソドックスな曲を弾き終えると、兄さんはひといきついて、全く知らない曲を弾き始めた。
私は驚いて、腕から顔を上げる。
それはひどく繊細で、触れれば砕けてもろく消えてしまいそうな儚さを持ちながらも、清らかで優しく、力強い曲だった。胸の中心に、直接舞い降りて、凛と血潮の先まで響き渡るような音楽。
ジーク兄さん。この曲なあに?
私が尋ねると、兄さんは鍵盤から目を逸らさず、くちもとだけ咲ませてこう言った。
「友の歌だ。偉大なる海の女王が、俺に教えてくれた歌だ」
兄さんはとても幸せそうな微笑みを浮かべていた。憑き物が落ちたかのような、すがすがしい爽やかな。その友達のことが大好きで、とても尊敬しているらしい。
私もいつか、会ってみたいな。
兄さんにはまだまだ話してくれていない部分がたくさんある。兄さんが海で経験した全て、いつか暖炉の前で話してくれる日を待とう。彼がその気になるまで。
ピアノを弾いていた小窓から、きらりと光るものが見えた。それはガラスの反射した虹色の光ではなく、サーモンピンクと林檎のように赤と黄色がグラデーションした宝石色の光。降るようなそれは、私たちの家の中に、急にさしこんで訪れた。
兄さんは顔を上げる。それをみとめると、パッと立ち上がり、まばたきもせずに前方を見つめ続けていた。そこには青い海が広がっているばかりだった。兄さんが子供の頃から好きだった、私たちを包む青いあおい、海。
兄さんは私に「ちょっと行ってくる」と告げた。その声は不純物の何もないすみやかな穏やかさだった。
扉の前あたりにかけていたカーキ色のジャケットを取ると、前を向いたまま羽織る。私に向かって朗らかな笑顔をひとつ向けると、からりとドアを開けて、白い夏の光のもとへその身を走らせた。
兄さんが誰と会ったかは、私だけのひみつ。 (完)
【参考文献】
MUSEY.〈http://www.musey.net/13979〉(参照日2019年4月29日)
参考文献「エマ ヴィクトリアンガイド」森薫、村上リコ 株式会社エンターブレイン
戦争に行っていたときはひとりだった食卓が、今はふたり。
とても嬉しい。
兄さんは私が作るものをなんでも喜んで食べてくれる。トマトスープも。レモンパイも。庭で育てたキャベツで作ったザワークラフトも。
(これはちょっと酸っぱいって言われたから、今度加減してみようかな)
近所のアーダおばさんから頂いたチーズを挟んだレバーケーゼも。
とにかくなんでも食べてくれる。黙って静かに大くちを開けながら、目の前で男の人が、ぽいぽい食べ物を銀の匙で運ぶ姿は心地よかった。
戦争前より食欲旺盛だねって言ったら、兄さんは「死んでいった仲間の分も、生きなきゃならんからな」って言って笑ってた。
私にはその笑顔が、なんだか切なく儚げに見えたの。私が兄さんと同じ蒼い瞳を揺らして心配そうな顔をすると、兄さんは乾いた笑い声と共に、大きな手のひらで私のブロンドを撫でてくれた。
それをされるたびに、うなじでゆるくひとつに束ねた私の長いみつあみが、ふらふらと揺れて、灯した暖炉のあかりに映えて、きらきらと茜色の光沢を放った。
兄さんはそういうとき、私を見つめる顔は、ひどく優しかった。瞳は夜の月をうつした水面のように揺れて、淡い水色を刷毛で塗ったような色に変わって。
兄さんが家に帰ってきて、しばらくしてからまずやっていたことは、アルベリヒさんのお父さんお母さんの家に行くことだった。兄さんはそのとき、手のひらに鈍いひかりを放つ、銀製のペンダントを握っていたんだけど、
帰ってきたらなくなってから、あれを渡しに行ったんじゃないかなぁ。
アルベリヒさんは、戦いの中で死んでしまったって聞いた。私もよくしてもらったから悲しかったけど、兄さん曰く「海の男らしい勇敢な最期だった」って言ってた。
兄さんはペンダントを持っていた手のひらを、顔の前まで上げてじっと見つめていた。くちびるを引き結んで。思い入れのあるペンダントだったんだろうなぁ。兄さんも、私の写真を入れたペンダントを、いつも首に下げてくれていたそうだから。
それからブレンくんという兄さんの部下の男の子が挨拶に来てくれた。籠いっぱいに黒パンを持って。
ブレンくんのお母さんが焼いてくれたんだって。
ドアをノックして「こんにちはー」って言って訪ねてくれたとき、兄さんは扉から少し離れたところにいたのから、私が車椅子を自分で押して最初に出たんだけど、ブレンくんは私の顔を見て、目とくちをまんまるにして。
そのあと私の背後に立った兄さんが、意味深な笑顔で「妹のリリューシュカ」だって紹介してくれたら、「あっ、ああそうなんですね!」って言って、ブレンくんの動揺は少しおさまったみたいなんだけど、あれは一体なんだったのかしら?
兄さんたちは私が作ったスープとオレンジジュースを肴にしながら、いろいろな思い出話をしていた。ブレンくんは頬に片手をついて。脚の高い椅子でぷらぷら両足を揺らしながら。とてもリラックスしているように見えたわ。
兄さんも、微笑みが優しかった。私に向けるのとは、また別の色で。目元を細めて、蒼い瞳を冬の湖面のようにかすかに揺らし、じっとおしゃべりなブレンくんのお話を聞いている。
ブレンくんのお話の中で、【双子】と【イザベル】という名前が登場した。
双子とイザベル? 私の知らないひとたち。
どうも、そのひとたちはクルワズリという東洋的な雰囲気の街で、一緒に暮らしているらしい。アカネちゃんという男勝りな女の子が、イザベルさんというひとに、人間界での暮らし方について教えてるって。人間界って何? 喧嘩しながらも、まぁ仲良く楽しく暮らしてるらしい。双子の弟のアオイくんという子が、気の強いふたりの間の良い仲介役なんだとか。三人暮らしっていいな。うちは兄さんとふたりだし、喧嘩したこともほぼほぼないから、全然雰囲気が違いそう。
まぁ、もの静かで優しい兄さんとふたりの暮らしも、嫌いじゃないけどね。穏やかな春の海みたいな暮らしが、途切れなく続いてゆくの。
ああ、あと、そうそう! 帰ってきてから兄さんが変わったことといえばーーピアノを弾くようになったこと!
それまでは軍人としての知恵をつけるための読書や、体力作りの運動だとかで、子供の頃から亡くなった母さんに習っていたピアノはほとんど触らなくなっちゃったっていうのにさ。兄さんは家で新聞社に時々依頼されて海軍の歴史に関する記事を書く仕事をするようになったんだけど、時間が空いた日曜日の昼下がりには黒いグランドピアノの前に座ってピアノを弾いてくれるの。
私は車椅子をゆったり動かして、兄さんの近くまで移動すると、鍵盤の横にある丸テーブルを枕に、うっとりとそれを聞いている。
それが私たち兄妹の習慣になっている。
私がまばたきをすると、兄さんの指先は、いつの間にか白と黒の鍵盤の上を、滑るように移動する。私はその動きを見ることと、氷と氷がぶつかったような、冷えた清らかな音を出すピアノの音が好きだった。
ああ、こんな平和な日曜日、兄さんが帰ってくるまで孤独で苦しかった日々を思うと想像もできなかったな。本当に、帰ってきてくれてよかった。
聴き慣れたオーソドックスな曲を弾き終えると、兄さんはひといきついて、全く知らない曲を弾き始めた。
私は驚いて、腕から顔を上げる。
それはひどく繊細で、触れれば砕けてもろく消えてしまいそうな儚さを持ちながらも、清らかで優しく、力強い曲だった。胸の中心に、直接舞い降りて、凛と血潮の先まで響き渡るような音楽。
ジーク兄さん。この曲なあに?
私が尋ねると、兄さんは鍵盤から目を逸らさず、くちもとだけ咲ませてこう言った。
「友の歌だ。偉大なる海の女王が、俺に教えてくれた歌だ」
兄さんはとても幸せそうな微笑みを浮かべていた。憑き物が落ちたかのような、すがすがしい爽やかな。その友達のことが大好きで、とても尊敬しているらしい。
私もいつか、会ってみたいな。
兄さんにはまだまだ話してくれていない部分がたくさんある。兄さんが海で経験した全て、いつか暖炉の前で話してくれる日を待とう。彼がその気になるまで。
ピアノを弾いていた小窓から、きらりと光るものが見えた。それはガラスの反射した虹色の光ではなく、サーモンピンクと林檎のように赤と黄色がグラデーションした宝石色の光。降るようなそれは、私たちの家の中に、急にさしこんで訪れた。
兄さんは顔を上げる。それをみとめると、パッと立ち上がり、まばたきもせずに前方を見つめ続けていた。そこには青い海が広がっているばかりだった。兄さんが子供の頃から好きだった、私たちを包む青いあおい、海。
兄さんは私に「ちょっと行ってくる」と告げた。その声は不純物の何もないすみやかな穏やかさだった。
扉の前あたりにかけていたカーキ色のジャケットを取ると、前を向いたまま羽織る。私に向かって朗らかな笑顔をひとつ向けると、からりとドアを開けて、白い夏の光のもとへその身を走らせた。
兄さんが誰と会ったかは、私だけのひみつ。 (完)
【参考文献】
MUSEY.〈http://www.musey.net/13979〉(参照日2019年4月29日)
参考文献「エマ ヴィクトリアンガイド」森薫、村上リコ 株式会社エンターブレイン