少女人魚ブリュンヒルデよ、海上で平和の歌をうたえ

みつあみの人魚

 海から離れたというのに、耳の奥へと潮騒《しおさい》が入り組んでくるような音が聞こえていた。
 空は青く暮れ落ち、筆でぼかしたような白い星々が浮かんでいる。
 ジークフリートはその星と同じ白い色をした砂浜に、一人佇み、夜をその青い瞳に映していた。彼の渇いた頬を、潮を含んだ夜風が撫でる。そのつめたさに、瞳を眇めた。
 ブレンは娼館に行ったアルベリヒを迎えに行った。本来なら大人であるジークフリートが向かうべきところであるが、大変な思いをした後で朗らかな顔をしたアルベリヒと再会し、怒りが湧き出してしまうかもしれないと懸念したブレンが、気を利かせて名乗り出てくれた。
 待ち合わせ場所と時間を示し合わせた後、まだ街を見たがっていたブリュンヒルデをブレンに託し、ブレンと別れたジークフリートは、一人夜の浜辺に佇んでいた。ゆるくこぶしを握りしめ、顎を軽く空へ向けて。
 額を流れるブロンドの髪が、夜風によって揺れ、きらきら淡い光の粒を放つ。ジークフリートは前髪越しに見える、筆でぼかしたような白い星々を、ただじっと見つめていた。
(長い船旅だった)
 そう思った途端、胸の内側に疲れが舞い降りてきた。長い船旅だった。本当にそうだ。仲間を失って。ブリュンヒルデと出会って。そうしてやっと、陸を踏みしめている。足を見下ろした。天空に広がる星と同じ色をした白い砂が、つま先にかかっている。その小さな粒子を見ていると、途端に靴を脱ぎたくなった。踵に指を引っ掛け、右足から靴を脱いでいく。中に履いていた薄い白の靴下も脱いで、コートの右ポケットに、両方とも無造作に仕舞った。夜風で少し出た靴下の先が、細かく揺れる。
 久々に裸足で触れた砂浜は、さらさらとして、想像以上に気持ちが良かった。ジークフリートは、喜びから、口角が上がるのを止めることができなかった。そのよろこびは、幼い少年のような汚れのないものだった。久々に生命の内側から溢れ出た感情だった。舌先が、痺れるほどの甘いうずき。
 足を一歩ずつ、ゆっくりと踏み出してみる。
 指先に触れてかかる白い砂が、痺れるほどに嬉しい。とがりのない、痛みのない、たださらさらとした心地のよさ。
 ジークフリートは、気付けば速度を上げて歩いていた。少しばかり爪先にかかるだけであった砂は、跳ね上がり、宙を舞う。夜に溶けて白く淡い光を放ち、静かに消えていく。
 体は傷ついた頑丈な男の体。
 だが今、すべてのしがらみから解放されて、遠い昔の、少年の夏に戻っていた。
 いつの間にかコートを脱ぎ捨てていた。ばさりと音を立てて砂浜に落ちたそれは、やがてゆったりとくずおれていく。彼はそれに目も止めず、ただ満面の笑顔で砂の上を駆けていく。砂はしぶきを上げて、舞い落ちていく。夜の闇に、白で絵を描くように。

「  」 

 彼の喜びは、冷たい刃のような一声によって、ぷつりと切り裂かれた。無垢な笑顔は瞬時に軍人としてのそれに戻る。眉間に皺を寄せ、声のした方を振り返る。

「  」

 ジークフリートは体制を整えた。背筋を伸ばすと、声のした方へまっすぐに視線を向ける。眉は寄せられ、眉間には、さきほどは艶やかに伸びていたはずのところに、深い皺が刻まれる。
 風が吹く。より強く。冷たい風が。彼の金の前髪を揺らし、星の光よりも鮮やかな蒼いともしびが、眸の中央に浮かび上がる。
 ジークフリートの視線の先には、砂よりも白い、純白の岩の上に腰掛けた女がいた。指で少し引っ掛けば、ほろりと崩れてしまうのではないかと思うほどの。岩肌はなめらかで、月の光を浴び、暈《かさ》を帯びてぼやけている。その上に座る女の肌もまた、白くぼやけていた。
 もっとも、かけた腰は、ヘそのあたりからくびれ、そこから下はグラデーションを描くように赤く染まって金魚の尾鰭のようになっていたが。
 ジークフリートがかけられた声は、歌だった。それもひどく甘美な。女にしては低音の。ひびきが豊かな歌だった。
 目の前に、人魚がいた。岩に座り、夜の海を見つめながら。
 豊かで波打つ黒髪は、夜の海と同じ色をしている。光沢は少しの緑を宿して。雪のように白い肌に、似合いの色。彼女が喉を鳴らすたびに、細やかに揺れて背に線を描く。質量を持っているのに、絡まりのない滑らかな細い線。
 通った喉は、声帯がよく鍛えられているのがわかる筋力を持っていた。そこから紡がれる声は、海でジークフリートが聞いたよりも深く、低い歌声をしていた。ブリュンヒルデの歌声は、甘く軽やかで、高い音程に魅力を感じた。だが、この紅い人魚の歌は、低くひく響く。心の奥底を揺り動かすような魅力ある低音を放っていた。目の前の黒い闇色の海は、彼女によって揺らされているのではないかと思うほどの。
 ジークフリートはいつの間にか、震える右手を上げて己の髪をかきあげていた。手のひらにざらりとした質感がする。はしゃぎすぎて、いつの間にか、砂が頬にかかっていたらしい。潮で湿った肌が、歌を聞いた高揚で火照っていた。海で人を誘う人魚の嬌声のような歌でもない、生きていることを思い出させてくれるような、そんな歌。黒髪の、紅い人魚の放つ声は、ジークフリートの渇いた魂を、暖かく濡らしていった。
 彼女が歌うたびに、尾鰭《おひれ》よりもさらに深い色を持った、ぽってりと厚い紅のくちびるが揺れる。
 ふと、音が止まった。語尾から消え入る。
 ジークフリートも息を止める。うすく開けたくちびるが、少しばかり震えていた。
 人魚がゆっくりとこちらを振り向く。
 ジークフリートを凝視したまま、動きを止めた。冷たい潮風に、その漆黒の濡れた髪をなびかせるだけである。
 彼女の眸は髪と同じ黒であったが、少しばかり明るい色をしていた。虹彩は筋を持った紅茶色をしている。うっすらと涙の幕で覆われたそれは、彼女が眸を揺らすごとに、きらきらと輝いて。
 やがて、その紅いくちびるがゆっくりと開いた。薄紅の光の粒が、表面でてらりと光る。
「ーー月色の髪」
 ジークフリートは刹那、何を問われているのかがわからなかった。
 黒髪の人魚の紡いだ声は、歌っている時と違い、普通の女の話し声のようなトーンであった。だがそこに、独特の低音が特徴的であった。
「そなたの」
「俺の髪か……?」
「ああ」
 黒髪の人魚は当たり前のように頷いた。
 ジークフリートは月の光が彼女の頬を撫で、輪郭を白く煌かせているのを目の前にし、彼女の肌こそが、月色をしていると感じた。だが、それを口に出して問うことはなかった。彼女の体は小さいが、威厳を感じさせる佇まいをしていたからだ。見た目は若く、二十代のはじめに見える。だが、彼女からは老成した何かを感じた。
 人間の男に肌を見られても、歌っている姿を聞かれていても、動じることのない、芯の通った何か。
 黒髪の人魚が少し動くと、豊かな黒髪はさらりと動き、みどりの光沢を放って揺れる。
「人間」
 アーモンド型の大きな瞳で、ジークフリートを見つめていた人魚は、やがて少しばかり首を下げて眉を寄せた。
 彼を、睨んでいるように見える。
 茶色の煌めきを宿した眸は、半分伏せられた丸いまぶたで妖しい炎を灯す。
 ジークフリートはいつの間にか、自分の喉が渇いているのを感じた。
「何をしに来た」
 人魚の声は、歪んでいた。
 潮風で焼かれてしまったのか、わからない。だが、ジークフリートの喉はいつになく渇いていた。
 あたりは湿っているというのに。海は枯れることはないというのに。
 ジークフリートが答えられずにいると、黒髪の人魚は、音が鳴るのがわかるほどに舌打ちをした。そして嫌そうに形の良い眉を歪める。さらに彼女の瞳の細い鋭利な光が、その瞳に炎のように宿っていた。その炎は、月の光と同じ色をしていた。鈍い雫のともしびが、ジークフリートをまっすぐに射抜く。
「……人間はいつもそうだ。答えられない質問は、都合よく無視する」
「俺は」
 ジークフリートは一歩踏み出して口を開けた。
 黒髪の人魚の体に、一際強く潮風が当たる。
 冷たいそれは、彼女の真っ白な肌を撫で、肩から胸にかかっていた豊かな黒髪も舞い上がらせる。昔絵本で目にした人魚のように、貝殻のブラジャーも身につけていない、剥き出しの乳房があらわになる。
 ジークフリートはその頂《いただき》から目を逸らそうと視線を彼女から逸らした。こめかみに、体温よりも熱い汗が流れる。
「……海の軍人だ。先日海から久しぶりに陸に上がってきた」
「ほう、名は」
 人魚から発せられる声が、幾らか高い音に響いた。ジークフリートはそこにあかるさを感じ、逸らしていた瞳をそっと上げて、再び彼女を捉える。
 人魚は手を顎に添え、体を少しばかり乗り出していた。つめたく伏せていた瞳は、大きく見開き、先ほど見えなかった明るいともしびが、爛々と光っている。
 ジークフリートは数秒、彼女の瞳に吸い寄せられるように見つめていた。女の瞳の中に映る自分の顔を初めて見た。白い顔に、蒼いふたつの瞳だけがぼんやりと浮かんでいる。それはひどく疲れている顔だった。前髪は潮風で乾き、月色に光っている。切長の瞳の下には、影ができていた。頬は渇いており、とてもなめらかとは言えない。少しばかり髭が浮いていた。髪のブロンドと同じ色の髭。彼は片手を上げると、そっとその髭を触った。ざらりとした感触は、白い砂と同じであった。
「人間。お前に興味がある。何か困ったことがあれば、この先手助けしてやらんでもないぞ。私は群れから離れた、孤高の人魚。一人でこの混沌とした海の中を生きる存在。私が人魚の中で、一番強いのだ」
「孤高の人魚……」
 ジークフリートは唖然としたまま、人魚の言葉を繰り返し呟く。
 彼女の言葉からは、自分に対する確かな自信が感じられた。その自信は、決して嫌な感じがするものではなかった。
 風が、海からさらなる力を持って吹いてくる。
 黒髪の人魚の横顔を濡らすように流れたそれは、先ほどよりも温かかった。豊かな黒髪はみどりに煌めき、夜を背景にさらに黒く流れていく。先で絡まりそうになるが、彼女の髪質により、それはほどけて、一つの筋を描く。
 人魚はただ何も言わずにしばらく神妙な顔をしていたが、やがてさらに身を屈める。よく見れば彼女の前髪は、いつか見た日本人形のように真っ過ぐに切りそろえられ、背に流れる豊かな黒髪も、先がまっすぐに切り揃えられていた。お辞儀をするように屈められた彼女の前髪は、風によって少しばかり開き、その白い富士額がちらりと覗いて、卵のように光っている。伏せられた睫毛は長く、白い頬に影を落としている。やがてゆっくりと開いた瞳は、金の虹彩を宿し、ジークフリートの顔を楽しそうに映していた。彼女がわずかにまなじりを動かすだけで、瞳の表面は潤んで泉の水面のようになる。いつの間にか、鼻と鼻が触れ合うほどの距離まで顔を近づけられていた。
「そなた、名は」
 紅く熟れたくちびるが、目の前で動く。
 ジークフリートはその色彩から目を逸らすことができなくなった。渇いた喉はいつの間にか潤い、生唾がひとつ、ごくりと彼の首を通って消えていく。
 彼と彼女の視線が一直線に交わり、そこにはまた別の闇が生まれていた。異種の者と交わったような、長年の友と再会したような、どっちつかずの、不可思議な。
「ーー俺は、ジークフリート・アドルフ」
「ふん、つまらない名前」
 人魚は鼻を鳴らして首を揺らす。
「お前は」
 ジークフリートがつぶやくと、人魚はよくぞ聞いてくれたというように、妖艶に微笑んだ。くちびるが、半月の形に咲《え》む。
「私は、ロゼ・十六夜・ダルク。ロゼもしくは十六夜、好きな方で呼べ。姓は、炎で焼かれた姫騎士と同じ名だから好きじゃない。この紅い金の魚の鰭《ひれ》と、ぬばたまの髪を、覚えておけ」
「イザヨイ……」
 ジークフリートは咄嗟に呟く。ジャポニズムな彼は、そちらの名前に勝手に心が惹かれた。
 ジークフリートがうつむくと、黒髪の人魚ーー十六夜は、くちびるが触れ合うのではないかというほどの至近距離で、彼の顔を覗き込んでいた。
(また、女の瞳の中に映る俺を見た)
 ジークフリートはそう思った。くっきりとした陰影で、彼女をまっすぐに見つめる自分の顔が見えた。
 十六夜はくっと口角を上げると、どこか邪悪な笑みを浮かべてジークフリートから離れていった。彼と彼女のくちびるの間に、冷たい風が流れる。背後へくずおれるように、十六夜は倒れていった。白い砂浜の上に、扇のように黒髪が広がる。口元は艶やかに笑み、頬は桜色に染まっている。これから男に抱かれる女のようであった。胸の頂は、ちょうど彼女の黒髪の房で見えなくなっている。
 十六夜は腰から緩く広げていた腕を、夜空へ向けて伸ばした。
 あまねく白い星々は、彼女のためにあるかというように、漆黒の中に浮かぶはしばみの間に、その煌めきを映している。
「ふう……」
 十六夜はうっとりと瞳を伏せ、吐息をこぼした。墨色の空に、直接触れるかのような。
 星も月も、白い砂浜も、海も、今は全て十六夜のものであるかのようであった。
 ジークフリートは彼女を見下ろしながら、瞬きも出来ず蒼い眸を揺らした。
「お前は……」
 十六夜は星を眺めていた視線をくっと逸らすと、ジークフリートを見つめ、深紅の薔薇の花が咲くように、たっぷりと余裕を浮かべて微笑んだ。
「じゃあな。人間、いや、『ジーク』といったか」
「はっ……」
「また現れてやる。縁があれば、だがな」
 十六夜はそう告げると、腰を跳ね上げ、鼻先が触れるほど近く、ジークフリートに顔を寄せた。
 彼はまた、女の瞳に映る自分を見るはめになった。その顔はひどく気の抜けた顔をしており、自分でも恥ずかしくなるほどであった。うすく頬を朱に染める。
 十六夜はジークフリートの目の前で、くっと口角を上げた。八重歯を見せて微笑むと、首の力を抜いて、ジークフリートに顔を寄せる。彼が少しでも首を動かせば、くちづけできるのではないかと思えるような距離だった。
 だが、十六夜は再び首をしなやかに俯かせると、再び小声で「じゃあな」と呟いた。吐息のような、かすみの声。
 ジークフリートが瞬くと、十六夜は一瞬のうちにその身を翻し、夜の海へとすっと潜って消えていった。
 彼の瞳に残ったのは、彼女の紅い尾鰭の残像だけであった。
 引いていく潮騒の先端が、真珠のつらなりのように、鈍く光っていた。
「アドルフ司令官、大丈夫ですか? 熱でもあるんじゃ……」
 ジークフリートの視界には、ぼやけた淡いむらさきが広がっていた。昨日の浜辺での夢のような一件から酔いが覚めないままだった。だが、ブレンの高い一声で、羽が舞い降りるように、意識が現実に呼び戻される。
 ちかっと一瞬、火花が目の前で爆《は》ぜたかと思うと、心配そうにこちらを見上げているブレンの大きな瞳と目が合った。
 大丈夫ですか?
 もう一度ブレンがか細い声で呼びかけてくる。この子が歌えば、良いボーイソプラノの響きが聞けるかもしれないな。なんとなくそう思い、ああ、自分は十六夜と出会ってから、歌のことしか頭にないのだな、という事実を噛み締める。
 前髪を緩く片手でかきあげ、作り笑いを浮かべる。
「ああ、大事ない」
「よかった」
 ブレンは安心したように笑った。花のような微笑みであった。やわらかな頬が、薔薇色に染まって大変血色がよく見える。浮いたそばかすさえも、金色に浮き上がって光っているように見えた。そのそばかすに触れたい、という欲求が、何故か胸の内側から暖かく湧いてきたが、やがて水面に凪が訪れるように、ゆっくりと引いていった。それは、幼な子に対する親のような気持ちであった。
「ーーアルベリヒは」
 ジークフリートは己を取り戻すように、ブレンに優しく問いかけた。
「ああ、ベルツさんなら、さっき酔っ払って大通りをふらふらしていたところを回収してきましたよ」
「そうか。労をかけたな」
「いえ」
 ブレンが軽く肩を上げた。その仕草は愛らしく、彼がまだ幼い少年であるということを思い起こさせる。こんな少年にさえも、自分たち大人は、武器を手にして戦うように命じていたというのか。せつない帳《とばり》が、そっと胸に舞い降りる。
 ジークフリートは僅かにくちびるを噛み締めて、そっと片手を伸ばすと、ブレンの髪を、てのひらの表面だけで撫でた。触れているのかいないのか、わからないほどのかすかな感触。ブレンは口を丸く開け、あどけない子供の顔で呆然としていた。
 やがてジークフリートは、再び羽が剥がれるように、そっとブレンの頭から手のひらを離す。
 しばらく彼らの間に金色の時間が流れた。
 ジークフリートは、その時間の中で、自分が微笑んでいることに気づいて、僅かに驚いた。
(思えば、ブレンは俺たちと別れた後、どうするというのだろうか)
 ブレンの家庭のことについては、上官として少し知っている。確か両親は二人とも戦死しており、祖父と二人暮らしであったが、その祖父も、ブレンが海で戦っている時に一人で老衰してしまったと聞いた。その知らせを伝書鳩から受けた海のおさない少年兵は、どう思っただろう。ジークフリートとアルベリヒの首より、幾分も細いブレンの首筋を見て、ジークフリートは眉を寄せた。
(ブレンを俺の家で使用人として雇うか……?)
 ふとそういった思いが浮かんだ。
 使用人。
 柔らかなブロンドの巻いた髪質の少年が、家で箒を持ちながらリリューシュカと話している光景が、フィルムが滲むように目の前に浮かぶ。
(そんな未来も、あるかもしれん。戦場ではそんなことは、考えもつかなかったが……)
 ジークフリートは近距離で近寄らなければわからないほどに、薄く口角を上げた。
 上官の蒼い瞳が揺れたことに、ブレンは気づかず、道を見つめ続けているだけであった。
 真っ直ぐに街から見える沖を見つめる少年の横顔を、まともに陽光が照らしていた。この分だと、さらにブレンのそばかすは増えてしまいそうだ。
「あーあ。家に帰ったら、早くプディングが作りたいなぁ」
「プディング?」
 ジークフリートは少し腰を屈めてブレンを覗く。
 ブレンはそれに気づくと、はっと顔を上げて、真顔でジークフリートを見つめたが、やがて照れたように微笑んだ。本当に独り言だったらしい。
「いや、プディングを作るのが好きなんですよ。ほら、僕んち貧乏だから、そんなに凝った素材の料理は作れないし。プディングなら、一般家庭で誰でも作れるじゃないですか」
 ジークフリートは脳内で、自分が食したことのあるプディングを思い浮かべた。プディングは、肉に干し葡萄を加えたり、砂糖を入れて甘くしたりしたものもある。クリスマス・プディングは英国の小説にもよく登場するが、これも世紀の初頭には肉と干し葡萄を入れたご馳走だったという。時代が進むにつれ、肉を使わないメニューが増えた。布袋にはドリッピング(牛脂)(牛脂)を塗り、ビーフブイヨンとオートミールを入れたプディングや、スエット(これも牛の成分だが、固形)と卵と牛乳という、今のプリンに細切れの肉の脂が入っているような想像が難しいレシピもあった。小麦粉と牛乳とバター、砂糖、牛乳で作る、ホットケーキに似たヨークシャープディングも有名だし、ライスプディングは定番だ。プディングは安い食材でできて、ボリュームと栄養を兼ね備えた、庶民の強い味方であった。大きな家でも、子供の昼食や使用人の食事にはお決まりのメニューだ。
(プディングか)
 ジークフリートも、プディングを最後に食べたのはいつだったろうかと考えるほど、遠い記憶である。
 確かリリューシュカが家で作ってくれた。
 あれはいつであっただろう。味覚や聴覚、触覚が、当時に戻っていき、舌先が溶けて沈んでいく。昔を思い出すときは、いつもそうだ。心を遠くに飛ばして、己を俯瞰して見上げる。そうすれば現在の狂おしい辛さも、優しい日常へと帰っていける。
 プディング。プディング。リリューシュカのプディング。
 確か、肉の塩味と干し葡萄の甘味がほどよく混ざっていた気がする。リリューシュカは舌が敏感なのだ。だから、料理の腕はとても良かった。
(なぜ今まで忘れていたのだろう)
 尊い妹が作ってくれたプディングの甘味が、舌全体に蘇《よみがえ》るようだった。
(ああ、またあの味が食べたい。そうすれば、すべてを思い出すはずだ)
 ジークフリートは舌先を軽く丸める。
 目の前には、現実があった。また、音が戻ってくる。
「……アルベリヒ」
「ふぁっ? もう朝か」
「昼だ、馬鹿」
 ジークフリートは通りで横たわっているアルベリヒの前で、腕を組んで仁王立ちしていた。髪と同じ金色の睫毛が冷たく伏せられ、瞳に影を作る。薄いくちびるは、軽くくの字に曲げられている。長い脚を折り畳み、アルベリヒの前でしゃがむと、攻めるように彼に顔を近づけた。灰色の影が、薄氷《うすらい》のように顔の表面を覆う。
「立て」
「はっ? うわっ、ってぇな! 急に二の腕引っ張んなや」
「こんな往来で、人の目につく方が恥ずかしいだろうが」
「クソうるせえ司令官様だぜ」
「部下の恥を心配してやっているんだろうが」
「はいはい」
 アルベリヒは片手で髪をがしがしと掻く。眉を寄せ、ふあぁとあくびをひとつすると、腰を跳ね上げて、勢いをつけて飛び起きた。
 ダークブルーのズボンを履いた尻についた砂埃を、手のひらで鬱陶しそうに叩き、鼻の頭を人差し指で一度引っ掻いて前を向く。気怠そうな面《おもて》は、いつも見慣れた友の顔だった。
「整ったか」ジークフリートは真顔で問う。
「ああ」アルベリヒは応えた。
 ブレンはそばで二人を交互に見ていたが、やがてひとつ唾を飲み込むと、にこりと笑んだ。彼の睫毛の先が白く透き通っているのを見て、ジークフリートは穏やかな気持ちになった。
「行きましょう。ね、ヒルデ」
 ブレンが踵を少し上げて、つま先に重心を置いてくるりと回る。小柄な彼が背負ったブリュンヒルデの駕籠は、重量が感じられて、ずっしりとした密度があった。薄い膜で覆われた箇所は、ステンドグラスのように薄緑に光り、そこから覗く二つの瞳は、三人を照らす灯台のあかりに見える。
 膜の向こうでブリュンヒルデの髪が揺れる。ブロンドに枯葉色の光沢を見せる彼女の髪。昨夜見た、漆黒の十六夜の髪と、色も髪質も違うが、ジークフリートはその髪艶が好きだということを改めて思い出した。
「さあ」
「……ああ」
 薄く頷き、ブーツを前に出して歩み始める。
 コツ、という音が響き、彼の足は歩み出す。
 ブーツの先が、鈍い飴色に光る。
 ブレンとアルベリヒはジークフリートの後ろをついていった。
「なあなあ、司令官様よ。もう一度市場に戻るか?」
 アルベリヒがズボンのポケットに両手を突っ込み、屈んで下から見上げてくる。
 ジークフリートは瞳だけを動かし、アルベリヒを見た。
「……いや、寄っていきたいのは俺も山々だが、というか」
 ごほん、とジークフリートは拳を丸めて口元につけ、咳をする。気のせいか、少し頬が朱に染まっているようにアルベリヒには見えた。
「……ジャポニズムとしては、もっと街を散策したい」
 アルベリヒはポカンと口と目を丸く開けていたが、やがて乾いた笑い声を上げた。
「ったく。オタクには負けるぜ」
 指先を鳴らし、ジークフリートの前を歩くと、早く来いというふうに背を向けながら手招く。彼の巻き毛が赤く光っていた。
 
「アドルフ司令官、大丈夫ですか? 熱でもあるんじゃ……」
 ジークフリートの視界には、ぼやけた淡い紫が広がっていた。昨日の浜辺での、夢のような一件から酔いが覚めないままだった。だが、ブレンの高い一声で、羽が舞い降りるように、意識が現実に呼び戻された。
 ちかっと一瞬、火花が目の前で爆ぜたかと思うと、心配そうにこちらを見上げているブレンの大きな瞳と目が合った。
 大丈夫ですか?
 もう一度ブレンがか細い声で呼びかけてくる。この子が歌えば、良いボーイソプラノの響きが聞けるかもしれないな。なんとなくそう思い、ああ、自分は十六夜と出会ってから、歌のことしか頭にないのだな、という事実を噛み締める。
 前髪を緩く片手でかきあげ、作り笑いを浮かべる。
「ああ、大事ない」
「よかった」
 ブレンは安心したように笑った。花のような微笑みであった。柔らかな頬が、薔薇色に染まって大変血色がよく見える。浮いたそばかすさえも、金色に浮き上がって光っているように見えた。そのそばかすに触れたい、という欲求が、何故か胸の内側から暖かく湧いてきたが、やがて水面に凪が訪れるように、ゆっくりと引いていった。それは、幼な子に対する親のような気持ちであった。
「ーーアルベリヒは」
 ジークフリートは己を取り戻すように、ブレンに優しく問いかけた。
「ああ、ベルツさんなら、さっき酔っ払って大通りをふらふらしていたところを回収してきましたよ」
「そうか。労をかけたな」
「いえ」
 ブレンが軽く肩を上げた。その仕草は愛らしく、彼がまだ幼い少年であるということを思い起こさせる。こんな少年にさえも、自分たち大人は、武器を手にして戦うように命じていたというのか。切ない帳が、そっと胸に舞い降りる。
 ジークフリートは僅かに唇を噛み締めて、そっと片手を伸ばすと、ブレンの髪を、手のひらの表面だけで撫でた。触れているのかいないのか、わからないほどの微かな感触。ブレンは口を丸く開け、あどけない子供の顔で呆然としていた。
 やがてジークフリートは、再び羽が剥がれるように、そっとブレンの頭から手のひらを離す。しばらく彼らの間に金色の時間が流れた。
 ジークフリートは、その時間の中で、自分が微笑んでいることに気づいて、僅かに驚いた。
(思えば、ブレンは俺たちと別れた後、どうするというのだろうか)
 ブレンの家庭のことについては、上官として少し知っている。確か両親は二人とも戦死しており、祖父と二人暮らしであったが、その祖父も、ブレンが海で戦っている時に一人で老衰してしまったと聞いた。その知らせを伝書鳩から受けた海の少年兵は、どう思っただろう。ジークフリートとアルベリヒの首より、幾分も細いブレンの艶やかな首筋を見て、
 ジークフリートは眉を寄せた。
(ブレンを俺の家で使用人として雇うか……?)
 ふとそういった思いが浮かんだ。
 使用人。
 柔らかなブロンドの巻いた髪質の少年が、家で箒を持ちながらリリューシュカと話している光景が、フィルムが滲むように目の前に浮かぶ。
(そんな未来も、あるかもしれん。戦場ではそんなことは、考えもつかなかったが……)
 ジークフリートは近距離で近寄らなければわからないほどに、薄く口角を上げた。
 上官の蒼い瞳が揺れたことに、ブレンは気づかず、道を見つめ続けているだけであった。
 真っ直ぐに街から見える沖を見つめる少年の横顔を、まともに陽光が照らしていた。この分だと、さらにブレンのそばかすは増えてしまいそうだ。
「あーあ。家に帰ったら、早くプディングが作りたいなぁ」
「プディング?」ジークフリートは少し腰を屈めてブレンを覗く。
 ブレンはそれに気づくと、はっと顔を上げて、真顔でジークフリートを見つめたが、やがて照れたように微笑んだ。本当に独り言だったらしい。
「いや、プディングを作るのが好きなんですよ。ほら、僕んち貧乏だから、そんなに凝った素材の料理は作れないし。プディングなら、一般家庭で誰でも作れるじゃないですか」
 ジークフリートは脳内で、自分が食したことのあるプディングを思い浮かべた。プディングは、肉に干し葡萄を加えたり、砂糖を入れて甘くしたりしたものもある。クリスマス・プディングは英国の小説にもよく登場するが、これも世紀の初頭には肉と干し葡萄を入れたご馳走だったという。時代が進むにつれ、肉を使わないメニューが増えた。布袋にはどリッピング(牛脂)を塗り、ビーフブイヨンとオートミールを入れたプディングや、スエット(これも牛の成分だが、固形)と卵と牛乳という、今のプリンに細切れの肉の脂が入っているような想像が難しいレシピもあった。小麦粉と牛乳とバター、砂糖、牛乳で作る、ホットケーキに似たヨークシャープディングも有名だし、ライスプディングは定番だ。プディングは安い食材でできて、ボリュームと栄養を兼ね備えた、庶民の強い味方であった。大きな家でも、子供の昼食や使用人の食事にはお決まりのメニューだ。
(プディングか)
 ジークフリートも、プディングを最後に食べたのはいつだったろうかと考えるほど、遠い記憶である。確かリリューシュカが家で作ってくれた。
 あれはいつであっただろう。味覚や聴覚、触覚が、当時に戻っていく。舌先が溶けて沈んでいく感覚がする。昔を思い出すときは、いつもそうだ。心を遠くに飛ばして、己を俯瞰して見上げる。そうすれば現在の狂おしい辛さも、優しい日常へと帰っていける。
 プディング。プディング。リリューシュカのプディング。
 確か、肉の塩味と干し葡萄の甘味が程よく混ざっていた気がする。リリューシュカは舌が敏感なのだ。だから、料理の腕はとても良かった。
(なぜ今まで忘れていたのだろう)
 尊い妹が作ってくれたプディングの甘味が、舌全体に蘇るようだった。
(ああ、またあの味が食べたい。そうすれば、すべてを思い出すはずだ)
 ジークフリートは舌先を軽く丸めると、俯いた。目の前には、現実があった。また、音が戻ってくる。
「……アルベリヒ」
「ふぁっ? もう朝か」
「昼だ、馬鹿」
 ジークフリートは通りで横たわっているアルベリヒの前で、腕を組んで仁王立ちしていた。髪と同じ金色の睫毛が冷たく伏せられ、瞳に影を作る。薄いくちびるは、軽くくの字に曲げられている。長い脚を折り畳み、アルベリヒの前でしゃがむと、攻めるように彼に顔を近づけた。灰色の影が、薄氷のように顔の表面を覆う。
「立て」
「はっ? うわっ、ってぇな! 急に二の腕引っ張んなや」
「こんな往来で、人の目につく方が恥ずかしいだろうが」
「クソうるせえ司令官様だぜ」
「部下の恥を心配してやっているんだろうが」
「はいはい」
 アルベリヒは片手で髪をがしがしと掻く。眉を寄せ、ふあぁとあくびをひとつすると、腰を跳ね上げて、勢いをつけて飛び起きた。
 ダークブルーのズボンを履いた尻についた砂埃を、手のひらで鬱陶しそうに叩と、鼻の頭を人差し指で一度引っ掻いて前を向く。気怠そうな面は、いつも見慣れた友の顔だった。
「整ったか」ジークフリートは真顔で問う。
「ああ」アルベリヒは応えた。
 ブレンはそばで二人を交互に見ていたが、やがてひとつ唾を飲み込むと、にこりと笑んだ。彼の睫毛の先が白く透き通っているのを見て、ジークフリートは穏やかな気持ちになった。
「行きましょう。ね、ヒルデ」
 ブレンが踵を少し上げて、つま先に重心を置いてくるりと回る。小柄な彼が背負ったブリュンヒルデの駕籠は、重量が感じられて、ずっしりとした密度があった。薄い膜で覆われた箇所は、ステンドグラスのように薄緑に光り、そこから覗く二つの瞳は、三人を照らす灯台のあかりに見える。
 膜の向こうでブリュンヒルデの髪が揺れる。ブロンドに枯葉色の光沢を見せる彼女の髪。昨夜見た、漆黒の十六夜の髪と、色も髪質も違うが、ジークフリートはその髪艶が好きだということを改めて思い出した。
「さあ」
「……ああ」
 薄く頷き、ブーツを前に出して歩み始める。
 コツ、という音が響き、彼の足は歩み出す。
 ブーツの先が、鈍い飴色に光る。
 ブレンとアルベリヒはジークフリートの後ろをついていった。
「なあなあ、司令官様よ。もう一度市場に戻るか?」
 アルベリヒがズボンのポケットに両手を突っ込み、屈んで下から見上げてくる。
 ジークフリートは瞳だけを動かし、アルベリヒを見た。
「……いや、寄っていきたいのは俺も山々だが、というか」
 ごほん、とジークフリートは拳を丸めて口元につけ、咳をする。気のせいか、少し頬が朱に染まっているようにアルベリヒには見えた。
「……ジャポニズムとしては、もっと街を散策したい」
 アルベリヒはポカンと口と目を丸く開けていたが、やがて乾いた笑い声を上げた。
「ったく。オタクには負けるぜ」
 指先を鳴らし、ジークフリートの前を歩くと、早く来いというふうに背を向けながら手招く。彼の巻き毛が赤く光っていた。
 ブリュンヒルデは籠の中から外を見ていた。
 薄青い空の下に広がるセピア色の街。
 そこに生きる人々の明るい笑顔。動き、仕事をしている様子。
 そのどれもが、海の世界しか知らなかった彼女にとって、新鮮なものだった。
(陸には、こんな世界が広がっていたの)
 ブリュンヒルデは胸の内側に静かな感情が広がっていくのを感じていた。それは、好奇心というものだった。
 頭の中央に、熱い雫を落とされて、それが彼女の体を巡る血潮に染み渡り、広がっていく。なんだか不思議な心地だったが、決して嫌な感じはしなかった。むしろ、長い間眠っていた生命力を、心臓が取り戻したような気がした。
(私が知らない町、人、文化、食事ーーこの世の中にはたくさんあるんだ)
 ブリュンヒルデの大きな瞳が、虹色に輝く。
 ごとり、と籠が揺れて、背筋を伸ばしていたブリュンヒルデは「あっ」と声を上げて僅かに体制を崩した。
 彼女の尾鰭がぱしゃり、と腰の位置まで入れられていた海水を叩いて透明な飛沫を作る。
「すまん。大丈夫か」
 籠の壁の外から、小声でジークフリートの声が聞こえた。声色から、こちらへの気遣いを感じる。
 ブリュンヒルデは幼さの残る右手をそっと口元につけ、壁に桜色のくちびるを直接つけて「大丈夫」とジークフリートにしか聞こえない程の音量で返した。
 壁の向こうで「そうか」という声が聞こえた。心なしか、その声には暖かな色を感じる。
 ブリュンヒルデは微笑むと、尾鰭を自身が苦しくない程度に曲げて、膝を白い両腕で抱いた。そして、そこに顎を乗せる。
(兄さん。ニンゲンも、悪い人ばかりではないみたいよ)
 海の深く。
 珊瑚の群れの上を明るい兄に手を引かれながら、泳いでいた夏の日の、幼い記憶が蘇る。
 珊瑚は薄紅と橙色を混ぜたような、艶やかな色をしていて、とても美しかったのに、なぜかその棘が怖くて、怯えながら兄の手を強く握っていた。
 海の中は冷たいのに、兄の手は暖かった。その温もりと同じものを、ジークフリートには感じていた。
(感じてはいけないのかもしれない。だけれど……)
 人間に対し、いまだにどういった距離感で接していいのかが、接することが許されるのかが、わからなかった。
 姉様人魚たちを屠られた事実は消えない。
 こちらも、ジークフリートたちの仲間を殺した事実は消えない。
 なのに、彼らへ感じるぬくもりを、冷たいものとして返すことが、ブリュンヒルデにはできなかった。
(どうすればいいの。どうすれば……)
 悩みは苦しみへと変わり、少女の小さな胸をきりきりと痛めつけた。富士額には縦に細かな皺が刻まれ、形の良い金色の眉は中央へきつく寄せられる。丸いまぶたもきつく伏せられ、彼女の白い頬に花弁のような形の影を落とした。そのまま額を膝の上につけ、しばらくの間、顔を上げることはなかった。
 再び顔を上げたとき、先ほどよりも陽光が白く光って見えた。
(あれ、私……)
 茫としたまなざしを、籠から僅かに開いた窓から見る。薄い水色のそれ越しに見る外の景色。それは、なんだかいつも見上げていた、海の中から見る空に似ていてーー。
 するとそこを少女が1人、通りがかった。
 歩く速度が速かったので、ブリュンヒルデの視界に一瞬映っただけであったが、彼女の流れる榛色の髪と、その結い方に、ブリュンヒルデは心奪われた。それは海の世界では決して見たことがないものだったからだ。同じ年頃の少女。全く違う地上と海水で生きるふたりの命が、その一瞬だけ交差した。
「ーージーク」
 ブリュンヒルデはじっと外を見つめたまま、気づけば背中のジークフリートに話しかけていた。
「あのね。無理だとは思うんだけれど……お願いがあるのーー」
 ブリュンヒルデは微かな声でそう告げると、
 海水に浸っていた自分の髪を、一房指先で持ち上げた。それを膝のあたりで、たらりとぶら下げて、じっと見つめる。自分の体の部位で、一番気に入っている、滑らかなブロンドの髪だった。ゆるく曲げると、緑の光沢を放つそれは、亡くなった兄と同じ色をしている。
 ジークフリートはブリュンヒルデの願いを聞くと、ゆっくりと速度を落とし、人気のない路地裏で、彼女を地へ下ろすと、籠の蓋をそっと開いた。
「はぁ」
「久々の外の空気はどうだ」
 ジークフリートは立てた膝に腕をかけてブリュンヒルデに尋ねた。
「うん。見慣れない人が多くてびっくりしちゃったけれど、すごく美味しい」
「そうか。そりゃよかった」
 アルベリヒはブリュンヒルデの笑顔を見て、眉を上げて笑う。
「ブリュンヒルデさんのお願いって、なんですか?」
 ブレンが立ったまま不思議そうな顔で彼女に問う。下から見上げると、ブレンと他の男ふたりの背の高さの違いがよりはっきりとわかる。ブレンはアルベリヒとジークフリートの、肩と腰の中間の背しかなかった。そんな彼でさえも、戦士なのだ。そのことに今更気付き、ブリュンヒルデは、ジークフリートに借りた腹巻の内側に隠した淡い胸がきりりと痛んだ。
「あの……あのね」
「いいですよ。ゆっくりで」
 にこりとブレンが人の良い笑みを浮かべる。
 ブリュンヒルデはそれをまともに見て、心に暖かなともしびが灯るのを感じた。
「あのね。わがままなのは、わかっているのだけれど、私の髪」
 ブリュンヒルデは両手でこめかみを流れるふたつの房をきゅっと握りしめると、真顔で彼らを見上げる。
 気のせいか頬が熱い。
「私の髪を、結って欲しいの」
 三人はそれを聞いて、しばらくポカンとした顔をしてブリュンヒルデを見ていた。
 ブリュンヒルデは今にも泣きそうな顔でくちびるを引き結び、強い目力で三人を見上げている。
「ブリュンヒルデさん」
「えっなに?
「顔真っ赤ですよ! 大丈夫ですか?」 
「えぇっ、うそ!」
 ブリュンヒルデは房から手を離すと、ぱっと両手で己の頬を包んで俯いた。手のひらに、熱が伝わってくる。
 側から見れば彼女の白い頬は、熟れた桃のように濃いピンクに染まっていた。
 その色は、三人の男の心を和ませるのに、ぴったりの色だった。
「で、ヒルデの嬢ちゃんよ。俺らにどうして欲しいってのさ」
「おい、あまりブリュンヒルデをいじめるな」
「いじめてねえよ! 元からこういう嫌味ったらしい声してんだよっ! ごめんね〜」
「ブリュンヒルデ、俺に何をして欲しいんだ」
「おいっ、無視すんなよっ!」
「……髪を……、結ってほしいの……」
「へ?」
「髪を」
「……うん」
 そういうと、ブリュンヒルデはさらに顔を俯け、真っ赤な薔薇のように染まった。
 ジークフリートとアルベリヒは顔を見合わせると、再びブリュンヒルデに視線を向ける。
「なるほどな。確かにクソ長いもんな。嬢ちゃんの髪は」
「女性の髪に対して『クソ』ってつけるの、どうかと思いますけどー」
 アルベリヒが納得しているのを、ブレンが突っ込む。
 ジークフリートはしばらく瞼を半分伏せてブリュンヒルデを見つめていたが、やがて口を開いた。
「……いいぞ。やってやろう」
「え、本当に?」
 ブリュンヒルデは、俯いていた顔をぱっと上げる。その大きな瞳はオパールのように輝いていた。彼女の嬉しさを、わかりやすくあらわにしている。
 それを見て、ジークフリートは不意にクリスマスイブの次の日の朝の、プレゼントをツリーの靴下から見つけて自分に喜んで見せに来たリリューシュカの冬晴れのような輝いた顔を思い出した。
「どんなものがいいんだ」
「あのねっ。あのねっ。あの」
「落ち着いて言え」
「あっ、ごめんなさいっ」
 ブリュンヒルデは慌てて口元を両手でおさえる。
 ジークフリートはその様子を見て、勝手に目元が柔らかくなっていた。
 薄く口角を上げる。
「あのねっ。さっきすれ違った子覚えてる?」
「すれ違った?」
「うん。こう、髪がこんな風になってた子!」
 ブリュンヒルデは、後ろ髪もこめかみの房と共に両手で束ねた。ちょうど、二房のおさげが、彼女の白い手に結われて出来上がっている。
「それで、この房が、ええっと」
「嬢ちゃん、もしかして、髪編んで欲しいんじゃねえの? みつあみによ」
「……ああ。なるほど」
 アルベリヒに指摘されて、ジークフリートはようやく理解した。
(アルベリヒが乙女心を察したのも、なんだか愉快だな)
 ジークフリートは内心笑っていた。
 ブリュンヒルデの前でしゃがむと、彼女の掴む髪の先を、そっと右手のひらに乗せた。さらさらとしているが、豊かなその髪は、上等の手触りだった。
「やってやる」
「おっ、女落とす時はそうやってるんですか。司令官殿」
「ベルツさんっ! うるさいですよー!」
 間近で見るブリュンヒルデの瞳は、砕いたばかりのオパールのように、ひときわ輝きを増した。あまりの喜びで、ジークフリートと鼻先が触れ合ってしまいそうなほどに顔を近づけ、満面の笑みを浮かべた。長いまつ毛は満開のたんぽぽの花のようだった。
「ジーク! ありがとう!!」
「背を向けろ」
「うん」
 ブリュンヒルデは、ぱっと自分の髪から手を離すと、くるりと回り、ジークフリートに背を向けた。
 金の髪を左右に分けると、柔らかく白い肩と肩甲骨が剥き出しとなる。ブリュンヒルデが年頃の娘だという事実を思い出したジークフリートは、直視していいものか悩んだが、リリューシュカのことを重ねて、ひとつにまとめた髪を編むことに集中した。
 ブリュンヒルデの髪は、長い間海の中で暮らしていたとは思えないほど柔らかく滑らかで、適度な水分を含んでいた。絹よりも触り心地の良いブロンドだった。うっかりすると、編んだものがすぐに解けてしまう。
(この髪を編むのはなかなか至難の技だな)
 試行錯誤していたが、ジークフリートはなぜか彼女の髪を編むのを心から楽しんでいた。
 やがて一房の髪を編み終わり、もう一房の髪を先まで編んでポケットに入れていた深緑色の髪ゴムで纏めた後、大人しく前を向いているブリュンヒルデに声をかけた。
「できたぞ」
「えっ、本当!? ありがとう!」
 喜ぶブリュンヒルデは、ぱっとこちらを振り向いた。同時に、彼女の編んだ2つのおさげが円を描いて揺れる。 
 まとわれた光の粒子は、ペールグリーンの色をしていた。蛍のようなその細かな光は、彼女のおさげの先が重力を伴って地の方へ落ちるとやむ。
「わぁっ! ブリュンヒルデさん! 似合ってますよ! かわいい!」
 ブレンが心から嬉しそうな笑顔を浮かべてぱちぱちと指先だけを合わせる拍手をブリュンヒルデに送った。
「そ、そう? ありがとう。嬉しい」
 ブリュンヒルデの頬は血色の良い薄紅に染まり、口角が愛らしく上がる。柔らかな頬の頂点が陽光を受けて鈍く光る。
 その後、ブリュンヒルデを籠に戻し、背負い直したジークフリートは、一行を連れて先へと歩き出した。
 ここに、この世でただ1人の、みつあみの人魚が誕生した。
「なあ。何食う何食う?」
「ちょっ……。ベルツさん! 重いですよ! その腕を退けてくださいって」
 ブレンは肩に回されたアルベリヒの腕を嫌そうに退けた。片目を瞑った彼の、もう片方の一つ目は、きらりと光ってアルベリヒのうっすらと生えた顎髭を睨む。
「はっ。俺は鍛えてるからなぁ。『重い』って言葉は、褒め言葉になるんだぜ」
「変なことでチョーシに乗らないでくださいっ!!」
「……おい。お前らうるさい。少しは口を慎め」
「はぁ!? テメェがまた街を見たいって言ったんだろうがっ!」
 ジークフリートが横目で後ろを睨むと、アルベリヒが噛み付くように上体を起こして吠えた。
「はあ……」
 ジークフリートは背中のブリュンヒルデを背負い直すと、背後でどたどたと足踏みする二人を無視して通りを歩き始めた。彼の長い脚が前後するたびに、店番をしているクルワズリの若い娘たちは黄色い視線を送っていた。だが、ジークフリートはその色に気付かず、自身の髪を片手で触っている。
(ブロンドは、ここでは珍しい髪色なのだろうか?)
 自身の前髪を人差し指と親指で摘んで、じりじりと動かしてみたが、そこには、さらりとしたわずかな感触しか感じられなかった。陽光に透き通り、さらに金が白く薄く溶ける。
(そういえば俺のブロンドは、リリューシュカよりもいささか濃い色をしている)
 ふと、そんなことを思った。
 顔を下ろし、周囲を見渡す。
 クルワズリの商店街は、先に通った時にも
 感じたが、全体的に色調が落ち着いている。全ての色に、セピアがかかっているかのように見えるのだ。
(あの色合いは……ああ、確か色味辞典で見かけたことがある。アズキ色、というのだったか)
 近くにあった店の、でっぷりと体格の良い女性が、つけているソムリエエプロンを見ながら、ジークフリートはそう思った。
 その時である。
 通りの向こうから、ぱたぱたと黄色い土を蹴る軽やかな足音が二つ、鳴り響いてくる。
(この足音はーー)
 ジークフリートはわずかに瞳を見開いた。
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