少女人魚ブリュンヒルデよ、海上で平和の歌をうたえ
フレデリック
ジークフリートが屋根の上につながる梯子を降りると、かすみのような泡が、足元から彼の胴体へと広がっていった。
やがて地へ降り立つと、静かに泡たちは消えていく。
「ここが、イザベル様の部屋です」
上から羽が舞い降りるように、カスターニエの声が聞こえたかと思うと、彼女はいつの間にか彼らの前にいた。人間の貴族の部屋と、作りは同じなのに、カスターニエがうっすらと宙へ浮いているように見えるのは、彼女が海の生物であるからだと、改めて認識させられる。
白いレースのような尾鰭が、ひらひらと蒼い海の中に漂う。カスターニエが片腕を広げると、まるで客人を屋敷に迎え入れる貴族の館の侍女のようだった。
伏せていた瞼を上げると、ブリュンヒルデがカスターニエの傍に泳いで近寄る。
「カスターニエ、イザベルや双子は、今部屋にいないみたいだけど」
「……ええ、きっと今はどこか別の場所に移動しているのでしょう。ですが、時期にこちらに戻ってくるはずです」
「そうね」
ブリュンヒルデはぽってりと厚い桜色のくちびるを軽く引き結ぶ。どうすれば良いのか、考えあぐねているのだろう。
「待つか」
ジークフリートが言うと、ふたりの人魚はこちらを振り返った。彼女らの白い顔の周囲に細かな泡があぶくのように立つ。
「待つって……イザベルの部屋で」
「危険ではないでしょうか」
「だが、それ以外に方法はあるか? 他の部屋に行こうと扉を開けて、この屋敷の人魚が攻撃してきたら、どうする。それよりも今は無人のこの部屋で自分たちの身を護る術を考えながら、イザベルがあらわれるのを待った方が良いのではないか」
「確かに……そうですね」
「カスターニエ。イザベルは双子に危害は加える気は無いのだろう? 理由は定かではないが」
「ええ、そうだと思います」
「その理由、教えてもらってもいいか」
カスターニエが真っ直ぐにジークフリートを見返す。
ジークフリートはずっとこめかみのあたりで気になっていた。アオイのイルカのような咆哮、それで止まった人魚たちの歌声。双子を連れ去ったイザベル。
多分だが、イザベルの目的はアオイだけにあり、アカネはアオイのそばにいて、巻き込まれた形で共に連れ去られたのだろう。
(カナメと言っていたか)
カナメ。
人魚はそう叫んでいた。
「カナメ」というのが、人魚たちにとって何か大事なことなのだろう。
現に、耳の聞こえないアオイには、人魚の歌声の誘いざないが通じず、かつ彼の持つイルカのような咆哮は、人魚を怯ませた。
(アオイを手中に収めることが、彼女たちの目的か)
ジークフリートはようやく話の筋を掴んだ気になった。
すっと顔を上げた彼の海と同じ色を持つ瞳は、それまでとは別の色合いを含んでいるように、ブリュンヒルデは見えた。
がたり、と扉が開く音で、3人は頬を叩かれたようにはっと顔を上げた。
きぃという音を立てて、何者かがこの部屋へ入ってくる刹那、カスターニエはその白く細い両腕を広げてジークフリートとブリュンヒルデをかき抱くと、部屋の食器棚の背後にするりと滑り込んだ。
呆然とするジークフリートとブリュンヒルデに向かい、ひとさし指を唇の前にたて、「しっ」と音を出すかのように歯を見せて沈黙の合図を送る。
「ああ、もう! 人間の子供は好き嫌いばかりで嫌になるっ!! なんっで海の幸をあないに嫌がるのじゃっ!!」
彼らが声のした方へ目を向ける前に、何かがどっ、と音を立てて倒れる音がした。
カスターニエが眉を顰めてふたりを見やり、声にならない声を出す。
(イザベル様が尾鰭でテーブルを蹴り倒したのです)
ブリュンヒルデとジークフリートは目を丸くした。
イザベル。
この人魚の砦の女王。
彼女がやってきたのだ。怒りを伴って。
イザベルは己の白い肩にかかった紅いつややかな髪を鬱陶しそうに片手で払うと、その高い鷲鼻を鳴らした。
「ふぅっ」
「イザベル様。別に人間の子供などに好かれなくても良いではありませぬか。腹を満たして、死なない程度に飼い殺せばよいだけです」
共に部屋に入ってきていた人魚が苦笑いを浮かべながらイザベルを悟す。
ジークフリートは物陰から彼女らの様子を遠目に確認した。
(おつきの人魚は人間でいうと五十代ほどに見える……。イザベルは二十代後半から三十代か……、イザベル。あれが、この人魚の群の女王)
白い肌に、銅を磨いたような色をした紅い髪を持っている。髪の光沢は金色で波打つようだった。
諭すおつきのわずかに老いた人魚を見やりながら白い頬をふくらまし、眉を寄せて睨むようにすねるその様だけを見ると、子供のようにも見えた。
「ふんっ、まあ良いわい」
イザベルは己を納得させるように顔を揺らすと、ぷい、とおつきの人魚から顔を逸らして離れていく。
(危ない)
カスターニエはこちらの気配に気づかれることを恐れ、背後のふたりを守るように両腕を広げてさらに壁に押し付けるようにする。
かすかな衝撃で、ジークフリートは大きな息を歯のすきまから漏らしたが、それはブリュンヒルデの作ってくれた泡の中で溶けて消えていく。
イザベルは怒りを鎮めるように、部屋をうろうろと歩いているだけであった。
海の中だと言うのに、暑さを逃すように片腕をひらと顔の横で仰ぐ動作をする。
(双子は死んでない……。この屋敷のどこかに囚われて生かされている……)
『食べ物を与えようとしている』というイザベルたちの会話の情報からそれを得たジークフリートは心のどこかで乾いていた不安が、小雨が降ったように濡らされていくのを感じ、ゆるく拳を握った。
イザベルは食器棚に、ジークフリートたちに背を向ける形で伸びをした。
「はぁ……、疲れたから肩が凝ったわい」
細い両の肩を、上下に動かして、こきこきと鳴らす。
彼女の肩にかかった紅い髪が、そのリズムに合わせてみだらに揺れる。
気怠げに眉を寄せて瞼を伏せていたイザベルであったが、頭のすみに電流が走ったように、くわっと目を見開いた。
彼女の肌から、殺気がほとばしるのを、ジークフリートは目にしたように感じ、咄嗟に身構えた。
「……ディーナー。ネズミが入ってきおったぞ」
「ネズミ……? ははっ、主人あるじは面白いことをおっしゃる。この海底に潜り込めるネズミなんて、超がつくほどに有能でございますよ」
「ああ、その有能なネズミが、この屋敷に紛れ込みおった」
先ほどと違い、声のトーンを低めて嘲笑するようなイザベルに、ブリュンヒルデはこめかみから脂汗が浮くのを感じた。
(まずい……バレた?)
ブリュンヒルデはうすくくちびるを開けたが、それは言葉を紡がず、ただ丸の形を保っただけであった。
イザベルが腰に両手の甲を当ててこちらをくるりと振り返る。
その表情かおは、先ほどと打って変わっていた。
眉と目の間に、深く濃い縦皺が刻まれ、眼光は鋭く、獲物を探す狩人のようであった。
ブリュンヒルデは恐れから、肩をこわばらせ、片手でくちびるを覆う。
その時、彼女の肩に、ふわりとやわらかいが、確かな重みと熱を持ったものが触れた。半分魚体であるために、高音に弱いブリュンヒルデの体であったが、なぜかその時は、その熱がひどく心地いいと感じた。
「ジーク……」
横を見やると、ジークフリートがイザベルの方を険しい顔で睨みながら、ブリュンヒルデの小さな肩を支えていた。
ブリュンヒルデは、彼の痩せた横顔を見て、切ないほどの安堵を感じた。
イザベルはすぅっと海に漂う空気を集めるように息を吸うと、大声を上げる。
「そこにいるのはわかっておる。ネズミ、姿を見せい!!」
ブリュンヒルデの肩に置かれた手に、力が込められたのを、イザベルの方を怯えて釘付けになって見ていた彼女には感じられた。
イザベルがこちらへ近づいてくる前に、ジークフリートは咄嗟にカスターニエとブリュンヒルデの肩を両手で押し退け、己の背後へ彼女たちを庇った。
刹那、目の前で大きな音を立てて食器棚が右へ倒れる。海の中なので、床とぶつかって砕けはしなかったが、鈍い音と細かな泡が周囲へと広がっていく。
ジークフリートは形の良い金の眉が寄せた。
「きゃっ」
背後でブリュンヒルデが驚いて怯ひるむ声がする。
食器棚が真横になると同時に、泡立った周囲が落ち着きをみせ、彼らの眼前にイザベルの姿があらわになった。
腰に両手首を当て、顔を上向かせてその厚いくちびるを引き結んでいる、きりりと釣り上がった黄金色の瞳は切長。それが、彼らの心臓を射るように冷たいが、火の粉を感じさせるような怒りを伴った視線を投げていた。
眸の中央に弓矢のような細長く鋭利な白い光が真横にスッと通っている。
前髪はゆるく七三に分けられ、その赤毛には、そって流れるような金の光沢が描かれている。
瞼の上には人間の女のように厚いアイシャドウが塗られているのだろうか、二重ふたえの間に、夜光貝やこうがいの色が煌きらめいていた。
じっと射抜くようにジークフリートたちを見下ろしていたイザベルであったが、やがてどうでもいい、というように、ふんと鼻を鳴らすと、くちびるの端をかすかに上げた。
「見ろディーナー。やはりネズミがいたぞ」
イザベルが尾鰭で、ばんっ、と勢いよく地を叩いた。
それと同時に、ジークフリートはふたりに置いていた両手をさっと後方へ流すようにすると、片足を前へ極限まで広げて飛び出した。
ふところから黒い銃を取り出すと、腰を低めてイザベルにその銃口を向ける。
イザベルはそれを見て、頭に血が上ったようで、顔を真っ赤に染めると、尾鰭を前へ突き出し、まるで回し蹴りをするかのように、ジークフリートの顔を横殴りにした。
「ジーク!!」
ブリュンヒルデが飛び出して倒れた彼に寄り添った。
「バカが!! 海の中で陸の飛び道具が使えるとでも思うたかっ!! 見よディーラー、人間が、人魚を庇った!! あの人間がっ、忌まわしき悪魔が……!! あははははっ、あはははっ、あはははははっ……」
イザベルは信じられないものを目にしたとでもいうように、嘲笑を漏らすと、両手を腹に当てて前後に揺れた。
その笑いは、どこか悲しい色をしていると、カスターニエは感じた。
薄墨のような色が、視界いっぱいに広がっている。
ほこりが撒いて吐かれて、砂子のようになっているその空間に、粉雪のようなかすかな光がちらちらと舞っている。
ジークフリートは茫洋とした己のまなざしが、徐々にあかるくなっていくのを感じていた。
「……っ」
うっすらと瞼を開け、三白眼で上を見やる。
「はっ、人間風情が。大人しく寝ておれ。永遠にでも良いのじゃぞ?」
「もうやめてっ!!」
ブリュンヒルデの悲痛な叫びがすぐ隣から聞こえたので、そちらを振り向こうとした刹那、風を鋭く切るような鈍い音と共に、衝撃が顔の骨に到達した。
「ぐっ……っ!」
「ジークフリート!!」
カスターニエが自分を呼ぶ声が、聞こえたが、語尾が掠れていた。それは彼女の声が掠れていたのではなく、ジークフリートの耳が傷によって僅かに遠くなっていたからであった。
(体が重い……。鉛のようだ)
横に倒れそうになるジークフリートを、下から支えるものがあった。
ブリュンヒルデが、己の頭を用いて彼の肩を下から突き上げる形で押してくれたのだ。
横目で彼女を見やると、白い鼻筋と金色の髪のまぶしさが目に映った。
「……ブリュンヒルデ」
ブリュンヒルデはジークフリートの呼びかけには応えず、代わりに目の前で腕を組んで仁王立ちをして、彼らを見下ろしているイザベルを睨みあげた。
「イザベル。もうやめて」
はっきりとした硬い声音だった。
彼女が怒っているのがわかる。
無意識に薄く開いていたくちびるを、舌先で舐めると、皮が乾いて錆びた血の味がした。
(これは……)
背後の回された腕は、何かロープのようなもので固定されており、ぐっと精一杯の力を込めてみても、動かない。
(……なるほど。捕らえられたか)
状況を理解する。
「ふんっ、先ほど散々尾鰭で痛ぶってやったというに、まだ意識を取り戻せるのか。人間の体というのは、面白いのう。なぁ、ディーナー」
語尾には嘲りが含まれていた。
本当に、人間を実験道具としか思っていないような。
傍にいた先ほどの初老の人魚が、困ったような笑みを浮かべて「は、はい」と言って頷くのを、ぼんやりとジークは見上げていた。
ふ、と隣に視線を落とすと、ブリュンヒルデの柔らかく細い腕も、後ろでくくられていた。
その隣にいるカスターニエもだ。
彼女たちは尾鰭を一度曲げるような形で、地へと座らされている。
ジークフリートは己の膝を見下ろす。
(ああ……)
彼の膝は曲げられた形だった。これは、日本の書物を手にした時に目にしたことがある座り方だ。正座だ。
「おい、人間、聞こえているか。人間。返事をせいっ!」
再び、横から蜂が飛ぶような「ブン」という鈍い音が鳴ったかと思えば、衝撃が訪れて視界が刹那、真っ白に濁る。
「イザベル!!」
隣でブリュンヒルデが腹の奥底から唸るような大声で怒る声を聞きながら、それだけを頼りに、ジークフリートはなんとか薄れかけてゆく意識を保っていた。
「おらおらおら、まだ耐えられるであろう? そなたの強い兵士の頭蓋であればのう!」
「ふっ……、くっ……ぅうっ……」
「やめて……っ。もうやめてっ……!」
「っ……」
びたん、びたんと、前後左右にジークフリートの顔を、イザベルが尾鰭で打つ音が、部屋に鈍くこだましている。
永遠にも思われるほどの、その一方的ないじめのような攻撃に、すぐ隣で見やっていたブリュンヒルデは耐えられなくなり、きつく瞼を閉じながら顔を俯けて耐えていた。まなじりから流れた涙は真珠の粒となって地へ落ちてゆく。海の中で流した涙は真珠と変わる、という人魚のその特性を、ジークフリートは濁った視界で目にすることができなかった。
カスターニエは絶望の色を眸に灯しながら、どこともつかない視線で、薄いくちびるを奥へ巻くように噛み締めていた。白すぎる肌が、さらに透き通るような青みを帯びて白くなっている。
三人とももう限界だった。イザベルの拷問は、果たしていつまで続くのか。女王のきまぐれにジークフリートの命がかかっている。
ジークフリートには、濁った視界にちら、ちらと煌めいて見える色があった。イザベルの尾鰭の色であった。電光がほとばしるように、すばやくその色は変わっていく。彼女の尾鰭は、髪色と呼応するように、まだらな苔のような緑をしていた。海で暮らすものたちにとって、陸の緑色は、とても貴重でうつくしく見えるだろう。姿だけ見れば、彼女はとてもうつくしかった。そのうつくしさの奥に潜む邪悪な心がなければーー。
ジークフリートを叩いている時のイザベルは、とても気持ちよさそうな嘲笑を浮かべていた。目元と口の端は歪み、今にもよだれをたらしそうである。
ジークフリートは口の中に忘れていた味が広がっていくのを感じていた。
鉄の味ーー血の味。
それは、戦場で幾度も感じたものだったはずなのに。
(……そうだ……。ここは戦場なんだ)
痛みを覚えて痺れる脳裏でぼんやりと思った。
ひときわ強い力で、イザベルがジークフリートの顔を横殴りにすると、ジークフリートは途切れそうな意識がぷつり、と切れかけるのを感じた
それは、灯した蝋燭の火が、下に落ちていく蝋と共に流れ消えていく光景にも、女を抱いた時に最後に感じるエクスタシーにも似ていた。
満足したのか、イザベルの尾鰭がジークフリートから木の葉のように剥がれていくと、ブリュンヒルデは俯いたまま、肩を小刻みに震わせた。小さな身のうちに、真っ白い怒りが、渦を巻くように吹雪いているのだ。
「イザベル。あなた、なんでこんなひどいことするの……?」
「はっ、ひどいじゃと? どの口が言うか。人間共に、最もひどいことをされたのは、お主ら人魚ではないか」
ブリュンヒルデはくちびるを引き締めて、何も言葉を紡がなくなった。隣のカスターニエが彼女を見やったが、下りた前髪が金色のとばりとなって、月にかかった薄墨の雲のように、表情を隠してしまっていた。
イザベルが、もうひとビンタくれてやるというように、彼女の肢体よりも大きな尾鰭を海中でぶんと音が唸るほどに振った時である。
かたり、と部屋の扉が開く音がした。
俯いて真珠の涙をこぼしていたブリュンヒルデは、その音に反応し、ゆっくりと首を起こす。
「いや〜すまない。イザベル。調べるのに時間がかかってしまってね。さぁ。落ち着いたから、お茶にしよう」
男の声だった。
ジークフリートはその声を聞いて、薄れかけていた景色が徐々に眸の中央に収束して戻ってくるのを感じていた。それは海の深くに潜ってから海面に顔を出し、ふたたび天色あまいろを目にした時の感覚にどこか似ていた。
「人間」
さっき散々イザベルに殴られながら呼ばれた言葉を、ジークフリートが掠れた声で呟く。
それは扉を開いて現れたものに対しての言葉だった。
イザベルの部屋はいささか薄暗い。開いた扉から漏れ出る光はここよりも青く、澄んだ水色だった。その色を背に纏って現れたのは、ジークフリートと同じ、陸の生物・人間だった。
イザベルが最も嫌う生物が、彼女に対して親しげに話しかけている。
(これは……どういうことだ)
ジークフリートは腫れて赤くなった瞼をうっすらと開けて、切れたくちびるで掠れた言葉をなんとか紡いだ。その声音には驚きと怒りが血のように滲んでいた。
ブリュンヒルデも、二の句がつげなくなっている。
丸く輝く大きな宝石のような瞳が、さらに大きく見開いている。
その揺れには、不安定さがあった。
「えっ……?」
ブリュンヒルデが咳をするように声を漏らす。そしてゆっくり片手をくちもとに当て、扉の人物を見つめている。その手は、あまりの驚きで震えていた。
カスターニエはくちびるをさらに奥へと引き結び、黙っていた。眉は顰められて、その皺には、灰色の苦悩が浮かんでいる。
その男は、丸い眼鏡をかけていた。海に漂う薄水色の光を、その分厚いレンズに反射している。そこに宿った鈍い光で、男の表情は伺えなくなっていた。
白衣を纏い、ダークグリーンのシャツに紺色のスラックスを履いたその姿は、医者のように、一見きっちりとしているように見えるが、たぷんとわずかに盛り上がった下腹から生活感が滲み出ていた。
白人にしては背が低く、小柄だった。
髪は栗の渋皮煮のような濃い茶色で、それを綺麗に七三に分けている。見えた額は白く、年齢を感じさせる皺が、真横に等間隔でくっきりと三本刻まれている。
鼻は丸く、てらりと光って大きかった。
口元はたおやかな笑みを浮かべており、肉付きの良い柔らかそうな顎をしている。ぽつんと窪んだえくぼはうっすらと影を帯びている。
一見人の良さそうな笑みに見えるが、ブリュンヒルデには、彼の笑顔がいやな含み笑いに映っていた。
その顔の周囲には、ジークフリートとひとしく、人魚の泡の守護があった。
「フレデリック」
イザベルは動揺しているジークフリートたちをかすみも気にしていない素振りで、堂々と男の方を見ていた。
その口角は、わずかに上がっていた。
彼の来訪を喜んでいるようにも見える。
フレデリックと呼ばれたその男は、両腕を腰に回し、軽く指先を組んでしとしととしたリズムでイザベルの方へ歩いて行った。
イザベルはフレデリックを歓迎するように、わずかに後退り、彼の財するための空間を作ってやる。
その態度は先ほどジークフリートに対する態度とは、全く違ったものだった。
同胞を歓迎する主のような。
ジークフリートはかすみがかった眸で、フレデリックの横顔を見ていた。穏やかな医者のようなその風貌から、彼がどういった人間なのか、理解できなかった。
フレデリックはイザベルと数分話すと、こちらに気がつき、振り返る。その動作は、落ちていたゴミに気付いた者のようだった。
「ああ、なんだ。そこにいたのか」
低いが確かな重みを持ったその声。
先ほどまで穏やかな暖かさを持っていた、その色が、剥がれ落ちていくように、冷たい氷が目の前に現れる。
ゆっくりと顔を上げたジークフリートとフレデリックの視線がかち合う。
かすみがかった瞳で、男をじっと見ている。
何か、霧が晴れて行くような心地になった。
その霧の先にあったものは、不快なものだった。
「お前……お前は……」
ジークフリートは半分伏せていた瞼を徐々に開いていく。
彼の眸に、鏡のように映る、フレデリックの丸い老いた顔。
そのポーカーフェイスから、何も感情が伺えない。
「お前は……、敵の軍にいた軍医……」
「……ああ、なるほどねぇ……」
フレデリックは瞳を眇めてジークフリートを見つめると、満足げに口角を上げて親指と人差し指の腹で顎を触る。そこには嘲笑の色が滲んでいた。
背後からふたりの様子を真顔で見ていたイザベルは、隣に並ぶと、尾鰭を上向かせ、ジークフリートの顎に下から添わせるように、グッと持ち上げた。
そしてジークフリートの方には目も向けずに、フレデリックの方を見やる。
「フレデリック。こやつと知り合いなのか」
フレデリックはしゃがんで顎を上げられたジークフリートの横顔を見つめる。
「知り合いっていうか。戦場の仲間っていうか。あれですよ。戦場で殺し合った友達っ」
「貴様ぁっ!!」
目の前に迫った憎らしいほどのフレデリックの笑みに、ジークフリートのあの頃の血に塗れて、それでも敵を屠り続けて自分と自分の仲間の命を守り続けなければならなかった、極限状態の日々を思い返す。
「まぁ、いいでしょう。もうじきこの男は死ぬんだ。あんたら人魚に食い殺されて、惨めに自分の骨が砕ける音を聞きながらね」
フレデリックはよいしょ、という声と共に腰を上げると、床に尻もつけていないというのに、自分の大きな尻を払った。
「教えてあげましょうか?」
嫌味ったらしい皮肉を語尾に込めながら、フレデリックが眼鏡の縁を上げて言う。
「は?」
ジークフリートは眉と瞼の間に縦皺を刻んでフレデリックを睨み上げた。
早くこの鬱陶しいイザベルの尾鰭から顎を離したいが、身動きできない身の上がもどかしく、体内で怒りが爆発してしまいそうだった。
「人間と、人魚の歴史を。私たち人間の戦争と一緒ですよ」
そういうと、フレデリックは教え子に諭すように、腰に緩く手を当ててつかつかとジークフリートたちの前を左右に歩き出した。
「かつて、人間と人魚は共に暮らしていた」
フレデリックは部屋にあった深紅のベルベットのソファが付いている丸椅子をジークフリートたちの目の前に持ってくると、そこに腰をかけて話し始めた。上体を落とし、両の二の腕を肩幅まで開いた両足の膝にそっと置いて。指先を体の中央で組んで。
その淡々とした口調と態度は、歴史教師のようであった。
「共に暮らしていた、という言い方は語弊があるかもしれないな。白い砂浜。海と陸が交わるところで、人間と人魚は同じ時を過ごすことが多かった。人魚は人間に海の幸と美しい歌声を届け、代わりに人間は人魚に陸の幸と逞しい筋肉を施した」
フレデリックはどこつく顔でほくそ笑む。
「穏やかで愛おしい時間だった。どちらにとってもだ。だが、その細い細い均衡は、いつの間にかマグマに向かって垂れ落ちた、天女がぶら下げた蜘蛛の糸のごとく、ぷつり、と途切れた」
フレデリックの眸に、夜に向かっていくような空の色が微かに灯る。
「ある日、人間と人魚の間に諍いが起きた。それは些細な諍いであったが、その小さな粒はやがて大きな波紋となって広がる。人間は人魚を「友」としてではなく、「肉」として求めるようになったのだ。人魚の白く柔らかく甘い肌を食らえば、不老不死になれるという古いにしえからの教えを信じ込んでしまった」
フレデリックは笑った。嫌な含み笑いだった。
「ーーそんなこと、確証を得たものがいれば、不死として名をなすというのにね。
まぁ、それで港の人魚たちは次々と銛で刺されて襲われたのだ。白く美しい浜辺は、一瞬で鮮やかな血の色へと染まる。人魚の透き通る歌声は、絶命の音頭へと変化して。
みんな、屋根の下へ巣を作る燕つばめのように、人間のことを信じていたというのに。生き残った人魚たちは、海の深くへと帰っていった。二度と地上へは姿を見せなかった。頭がわずかでも、青黒い海面から出ることもなく。人間の中から、人魚の記憶が消え去ろうとしている頃ーーまぁ、人間という生き物は、自分に都合が良いようにできているのさーーひとりの人間の男が、砂浜へと足を運んだ。今日の海の様子を、なんとなく拝見しに来たのさ。すると打ち寄せる波と共に現れた海と同じ色をした鱗を持つ人魚に、ぱっくりと攫われてしまった。その男の結末? ふふ、想像してくれよ。
翌日のことになる。薄汚れた老婆が海を徘徊していた。何か金目になるものが落ちていないかって油の抜けた白髪を、潮風になびかせながら。腰をかがめて。瞳を眇めて。砂浜に何か光る物が見えたと気づいてーーまあ、それはただのシーグラスだったわけだがーー老婆が枯れていた瞳を輝かせたその時だった。
すみやかな青のヴェールを重ねたような穢れなき海が、じわりと下の層に赤黒いインクをこぼされたように、色が変化していった。
老婆はかがめていた腰をあげ、まばたきもできずにその様子を眺めていた。
ついで浮かんできたのは、人間の断片がまばらに散らばった肉片だった。ぷかり、ぷかりと静かな波が浜へ打つごとに、それらは老婆へ押し寄せる。
老婆は『ヒッ』という掠れ声と共に、両腕を地へつき、腰を抜かせた。老婆の白髪が、ぱらりと開く。
まぁ、今までの話聞いててなんとなく察しただろう? この肉片は、先程の男さ。人魚に襲われ、人魚の牙で食われて殺されたんだよ。
戦いは戦いを生み出し、復讐は復讐を生む。そんなの、軍人のあんたたちにはわかりきったことだろう?」
ジークフリートは少し首を俯けてフレデリックの話を聞いていた。前髪が溢れて、表情は見えずらくなっていたが、横目に彼を見やったブリュンヒルデの眸には、彼の頬から目の下にかけて灰色のうすい影が出来ているのを感じた。その影が孕むものは「虚しさ」だった。
フレデリックがひといきつくと、腕を組んでそばでじっとしていたイザベルが緩く動いた。そして微かにジークフリートたちに近寄る。
「人間が人魚の肉を求めるようになるのと、少しばかり遅れてから、人魚も人間の血肉を求めるようになった。海や陸、どこで獲れる幸よりも、一番うまいのは人間の血肉だということに、我らも気がついたのだ。そこからはもう、互いが互いの肉を求める、獣同士の関係よ」
ジークフリートが隣ではっと瞳を見開いたのが、ブリュンヒルデには感じられた。彼は、こちらに視線を移そうとしている。だが、こちらを見やるのは、何か彼の中で御し難い物があるらしく、神経を目の前のふたりに注いでいた。
「昔の人間は、人魚側にとっては都合が良かった。人生に絶望した者たちが、海の底に第二の世界があると信じて入水してくれていたからな」
イザベルはわずかに口角を上げる。形の良いくちびるの艶やかさが増した。ああ、人間を食ったことがあるのか、とジークフリートは虚な瞳で彼女の覗いた白い歯を見ていた。
「だが、今の人間は、そこまで海に己の身を投げることはのうなった。人間も軍事力を持ち、女の方が多い人魚が戦って勝てる相手ではのうなってしもうた。なので、わらわは」
イザベルは組んでいた腕をとき、片腕を緩やかな曲線を描く腰に、もう片腕をまっすぐにあげて隣のフレデリックにぴっと突き刺した。彼女の爪は鋭利に伸びていて、それで引っ掻かれるととても痛そうだ。その爪が宿す色は、くちびると同じ血のような深紅だった。
薄暗く蒼い海の中で、その色はひどく目立った。熾火の中で燃える炎の中心のように。「ここにいる、海軍司令官フレデリックどのと手を組んだ」
「……覚えているぞ……。アーガナイトの司令官……。フレデリック・ツィマーマン。俺たちの宿敵の国……」
ブリュンヒルデがジークフリートの方を見やると、彼は漣のように全身を震わせていた。
ブリュンヒルデは驚き、目を瞠る。
先程まで薄灰色の影を落とすばかりであったジークフリートの眉間には、宵闇のごとく黒い影が刻まれていた。上げた瞳は、深い青をたたえながらも、きつい光線が隠しようもなく水面に浮かび上がっている。それは怒りだった。どうしようもなく、生命から湧き上がる。
「アオイはどうして連れて行ったの?」
「アオイは『カナメ』だからじゃ」
「カナメ?」
「『カナメ』。人魚の歌の力が効かず、なおかつ人間どもの中で、唯一人魚の歌声を向こうとできる「跳ね返し」の声の持ち主である。
あやつの存在は、我らにとって危険すぎるのじゃ」
「……アオイをどうするつもりだ」
ジークフリートはフレデリックに向けていた怒りの蒼いともしびを、手にしていた炎の枝をうつすように、イザベルへと向けた。
「海の生物として飼い慣らし、抵抗すれば殺すだけよ」
イザベルはさも当たり前のことのように、自信のある顔でそう告げた。彼女の睫毛の先に、火が灯ったようにちらつく。その光を、ジークフリートは鬱陶しいと感じる。夏の朝に、直接陽光を目の中に差し込まれたような感覚。
ブリュンヒルデは、薄くくちびるを開いたあと、ぎゅっと強く噛み締めた。隣で蒼白い顔をしているジークフリートの肉のない横顔を見やる。影を纏うほどに、彼はうつくしくなると感じる。ついで、まばたきをひとつ落とすと、真っ直ぐにイザベルを見上げた。
「イザベル。お願いがあります。私がアオイの代わりにあなたたちの群れの捕虜になります。なので、アオイたちを地上へと返してくれないでしょうか」
空間に間が空いた。
ジークフリートとイザベルが、同時に「あ」の字になって固まったからだ。
フレデリックは腕を組んで、ふぅ、とひとつ鼻息をこぼした。それが泡の守護の中で溶けて消える。カスターニエも「本気ですか」と一言小さく呟いた。
ブリュンヒルデは大人たちの様子は気に留めず、花が綻ぶように笑む。まなじりに集まった睫毛の束が、海の底で咲く、金色のガーベラのブーケのようだった。
「ローレライの人魚なんて希少だもの。先の戦いで人間と戦って負けた落ちぶれた貴族。一匹で生きてゆくよりも、あなたたちの配下に加わるわ」
イザベルは瞳の水面を動かさず、じっと怜悧にブリュンヒルデを見下ろしていた。春の空気と、冬の空気が海底で交わっているような温度差だった。
「……人間に飼い慣らされた、人間臭い人魚の小娘を、それも別のコロニーの者を、今更私が快く仲間に加えるとでも思うたか」
静かな時が、海底に鈍い光を孕んだほこりのように降り積もる。ブリュンヒルデが瞳の水面を震わせたそのときだった。
何か大きな音がした。泡が割れるような、はっきりとした音。
「何やつ!」
イザベルは目を見開き、音のした方角に目を向ける。
ジークフリートたちも、あまりにも大きな音に驚き、首を背後へと巡らせた。
ばたん、ばたん、と何かが破裂する音が、連続して響く。その響きは徐々に大きさを増していき、こちらへと近づいてくる。
ブリュンヒルデが気配の変化に気づき、はっと目を向ければ、イザベルは白い歯を食いしばり、両腕を胸の前で交差させ、己の上半身を抱きしめていた。歯が、かたかたと鳴っている。彼女は恐怖を感じているのだ。
フレデリックが眼鏡を中指の第一関節を曲げて直し、体制を整えようとする最中であった。
パリッ。
鈍く重い扉に、斜めに雷光が走った。
何か、と皆が思った刹那、扉は左右へばらり、と剥がれるように落ちる。
淡い逆光を背に受け、現れたのは、一匹の人魚であった。
鱗は真紅で金魚の尾鰭をし、髪は射干玉の黒。ゆうらりと扇のように広がったそれに守られるように、金の髪をしたひとりの少年が、その白い肩から驚いた顔を覗かせるのが見えた。
「ふぅ。てこずらせおって。城の場所を数年前と変えたか? こぉんなでかいものにするとはな。あぁ、久しぶりだな、イザベル」
右手にした日本刀をかすかに振り、銀の礫の光をちらつかせて、刃を見つめた後、前方に視線を映す。
イザベルは瞳を眇め、逆光を睨む。恐れと怒りのないまぜになった視線で、相手を射殺すように。
「ロゼ・十六夜・ダルク……!」
イザベルの歯軋りの音が、海底にこだまするかのようだった。
やがて地へ降り立つと、静かに泡たちは消えていく。
「ここが、イザベル様の部屋です」
上から羽が舞い降りるように、カスターニエの声が聞こえたかと思うと、彼女はいつの間にか彼らの前にいた。人間の貴族の部屋と、作りは同じなのに、カスターニエがうっすらと宙へ浮いているように見えるのは、彼女が海の生物であるからだと、改めて認識させられる。
白いレースのような尾鰭が、ひらひらと蒼い海の中に漂う。カスターニエが片腕を広げると、まるで客人を屋敷に迎え入れる貴族の館の侍女のようだった。
伏せていた瞼を上げると、ブリュンヒルデがカスターニエの傍に泳いで近寄る。
「カスターニエ、イザベルや双子は、今部屋にいないみたいだけど」
「……ええ、きっと今はどこか別の場所に移動しているのでしょう。ですが、時期にこちらに戻ってくるはずです」
「そうね」
ブリュンヒルデはぽってりと厚い桜色のくちびるを軽く引き結ぶ。どうすれば良いのか、考えあぐねているのだろう。
「待つか」
ジークフリートが言うと、ふたりの人魚はこちらを振り返った。彼女らの白い顔の周囲に細かな泡があぶくのように立つ。
「待つって……イザベルの部屋で」
「危険ではないでしょうか」
「だが、それ以外に方法はあるか? 他の部屋に行こうと扉を開けて、この屋敷の人魚が攻撃してきたら、どうする。それよりも今は無人のこの部屋で自分たちの身を護る術を考えながら、イザベルがあらわれるのを待った方が良いのではないか」
「確かに……そうですね」
「カスターニエ。イザベルは双子に危害は加える気は無いのだろう? 理由は定かではないが」
「ええ、そうだと思います」
「その理由、教えてもらってもいいか」
カスターニエが真っ直ぐにジークフリートを見返す。
ジークフリートはずっとこめかみのあたりで気になっていた。アオイのイルカのような咆哮、それで止まった人魚たちの歌声。双子を連れ去ったイザベル。
多分だが、イザベルの目的はアオイだけにあり、アカネはアオイのそばにいて、巻き込まれた形で共に連れ去られたのだろう。
(カナメと言っていたか)
カナメ。
人魚はそう叫んでいた。
「カナメ」というのが、人魚たちにとって何か大事なことなのだろう。
現に、耳の聞こえないアオイには、人魚の歌声の誘いざないが通じず、かつ彼の持つイルカのような咆哮は、人魚を怯ませた。
(アオイを手中に収めることが、彼女たちの目的か)
ジークフリートはようやく話の筋を掴んだ気になった。
すっと顔を上げた彼の海と同じ色を持つ瞳は、それまでとは別の色合いを含んでいるように、ブリュンヒルデは見えた。
がたり、と扉が開く音で、3人は頬を叩かれたようにはっと顔を上げた。
きぃという音を立てて、何者かがこの部屋へ入ってくる刹那、カスターニエはその白く細い両腕を広げてジークフリートとブリュンヒルデをかき抱くと、部屋の食器棚の背後にするりと滑り込んだ。
呆然とするジークフリートとブリュンヒルデに向かい、ひとさし指を唇の前にたて、「しっ」と音を出すかのように歯を見せて沈黙の合図を送る。
「ああ、もう! 人間の子供は好き嫌いばかりで嫌になるっ!! なんっで海の幸をあないに嫌がるのじゃっ!!」
彼らが声のした方へ目を向ける前に、何かがどっ、と音を立てて倒れる音がした。
カスターニエが眉を顰めてふたりを見やり、声にならない声を出す。
(イザベル様が尾鰭でテーブルを蹴り倒したのです)
ブリュンヒルデとジークフリートは目を丸くした。
イザベル。
この人魚の砦の女王。
彼女がやってきたのだ。怒りを伴って。
イザベルは己の白い肩にかかった紅いつややかな髪を鬱陶しそうに片手で払うと、その高い鷲鼻を鳴らした。
「ふぅっ」
「イザベル様。別に人間の子供などに好かれなくても良いではありませぬか。腹を満たして、死なない程度に飼い殺せばよいだけです」
共に部屋に入ってきていた人魚が苦笑いを浮かべながらイザベルを悟す。
ジークフリートは物陰から彼女らの様子を遠目に確認した。
(おつきの人魚は人間でいうと五十代ほどに見える……。イザベルは二十代後半から三十代か……、イザベル。あれが、この人魚の群の女王)
白い肌に、銅を磨いたような色をした紅い髪を持っている。髪の光沢は金色で波打つようだった。
諭すおつきのわずかに老いた人魚を見やりながら白い頬をふくらまし、眉を寄せて睨むようにすねるその様だけを見ると、子供のようにも見えた。
「ふんっ、まあ良いわい」
イザベルは己を納得させるように顔を揺らすと、ぷい、とおつきの人魚から顔を逸らして離れていく。
(危ない)
カスターニエはこちらの気配に気づかれることを恐れ、背後のふたりを守るように両腕を広げてさらに壁に押し付けるようにする。
かすかな衝撃で、ジークフリートは大きな息を歯のすきまから漏らしたが、それはブリュンヒルデの作ってくれた泡の中で溶けて消えていく。
イザベルは怒りを鎮めるように、部屋をうろうろと歩いているだけであった。
海の中だと言うのに、暑さを逃すように片腕をひらと顔の横で仰ぐ動作をする。
(双子は死んでない……。この屋敷のどこかに囚われて生かされている……)
『食べ物を与えようとしている』というイザベルたちの会話の情報からそれを得たジークフリートは心のどこかで乾いていた不安が、小雨が降ったように濡らされていくのを感じ、ゆるく拳を握った。
イザベルは食器棚に、ジークフリートたちに背を向ける形で伸びをした。
「はぁ……、疲れたから肩が凝ったわい」
細い両の肩を、上下に動かして、こきこきと鳴らす。
彼女の肩にかかった紅い髪が、そのリズムに合わせてみだらに揺れる。
気怠げに眉を寄せて瞼を伏せていたイザベルであったが、頭のすみに電流が走ったように、くわっと目を見開いた。
彼女の肌から、殺気がほとばしるのを、ジークフリートは目にしたように感じ、咄嗟に身構えた。
「……ディーナー。ネズミが入ってきおったぞ」
「ネズミ……? ははっ、主人あるじは面白いことをおっしゃる。この海底に潜り込めるネズミなんて、超がつくほどに有能でございますよ」
「ああ、その有能なネズミが、この屋敷に紛れ込みおった」
先ほどと違い、声のトーンを低めて嘲笑するようなイザベルに、ブリュンヒルデはこめかみから脂汗が浮くのを感じた。
(まずい……バレた?)
ブリュンヒルデはうすくくちびるを開けたが、それは言葉を紡がず、ただ丸の形を保っただけであった。
イザベルが腰に両手の甲を当ててこちらをくるりと振り返る。
その表情かおは、先ほどと打って変わっていた。
眉と目の間に、深く濃い縦皺が刻まれ、眼光は鋭く、獲物を探す狩人のようであった。
ブリュンヒルデは恐れから、肩をこわばらせ、片手でくちびるを覆う。
その時、彼女の肩に、ふわりとやわらかいが、確かな重みと熱を持ったものが触れた。半分魚体であるために、高音に弱いブリュンヒルデの体であったが、なぜかその時は、その熱がひどく心地いいと感じた。
「ジーク……」
横を見やると、ジークフリートがイザベルの方を険しい顔で睨みながら、ブリュンヒルデの小さな肩を支えていた。
ブリュンヒルデは、彼の痩せた横顔を見て、切ないほどの安堵を感じた。
イザベルはすぅっと海に漂う空気を集めるように息を吸うと、大声を上げる。
「そこにいるのはわかっておる。ネズミ、姿を見せい!!」
ブリュンヒルデの肩に置かれた手に、力が込められたのを、イザベルの方を怯えて釘付けになって見ていた彼女には感じられた。
イザベルがこちらへ近づいてくる前に、ジークフリートは咄嗟にカスターニエとブリュンヒルデの肩を両手で押し退け、己の背後へ彼女たちを庇った。
刹那、目の前で大きな音を立てて食器棚が右へ倒れる。海の中なので、床とぶつかって砕けはしなかったが、鈍い音と細かな泡が周囲へと広がっていく。
ジークフリートは形の良い金の眉が寄せた。
「きゃっ」
背後でブリュンヒルデが驚いて怯ひるむ声がする。
食器棚が真横になると同時に、泡立った周囲が落ち着きをみせ、彼らの眼前にイザベルの姿があらわになった。
腰に両手首を当て、顔を上向かせてその厚いくちびるを引き結んでいる、きりりと釣り上がった黄金色の瞳は切長。それが、彼らの心臓を射るように冷たいが、火の粉を感じさせるような怒りを伴った視線を投げていた。
眸の中央に弓矢のような細長く鋭利な白い光が真横にスッと通っている。
前髪はゆるく七三に分けられ、その赤毛には、そって流れるような金の光沢が描かれている。
瞼の上には人間の女のように厚いアイシャドウが塗られているのだろうか、二重ふたえの間に、夜光貝やこうがいの色が煌きらめいていた。
じっと射抜くようにジークフリートたちを見下ろしていたイザベルであったが、やがてどうでもいい、というように、ふんと鼻を鳴らすと、くちびるの端をかすかに上げた。
「見ろディーナー。やはりネズミがいたぞ」
イザベルが尾鰭で、ばんっ、と勢いよく地を叩いた。
それと同時に、ジークフリートはふたりに置いていた両手をさっと後方へ流すようにすると、片足を前へ極限まで広げて飛び出した。
ふところから黒い銃を取り出すと、腰を低めてイザベルにその銃口を向ける。
イザベルはそれを見て、頭に血が上ったようで、顔を真っ赤に染めると、尾鰭を前へ突き出し、まるで回し蹴りをするかのように、ジークフリートの顔を横殴りにした。
「ジーク!!」
ブリュンヒルデが飛び出して倒れた彼に寄り添った。
「バカが!! 海の中で陸の飛び道具が使えるとでも思うたかっ!! 見よディーラー、人間が、人魚を庇った!! あの人間がっ、忌まわしき悪魔が……!! あははははっ、あはははっ、あはははははっ……」
イザベルは信じられないものを目にしたとでもいうように、嘲笑を漏らすと、両手を腹に当てて前後に揺れた。
その笑いは、どこか悲しい色をしていると、カスターニエは感じた。
薄墨のような色が、視界いっぱいに広がっている。
ほこりが撒いて吐かれて、砂子のようになっているその空間に、粉雪のようなかすかな光がちらちらと舞っている。
ジークフリートは茫洋とした己のまなざしが、徐々にあかるくなっていくのを感じていた。
「……っ」
うっすらと瞼を開け、三白眼で上を見やる。
「はっ、人間風情が。大人しく寝ておれ。永遠にでも良いのじゃぞ?」
「もうやめてっ!!」
ブリュンヒルデの悲痛な叫びがすぐ隣から聞こえたので、そちらを振り向こうとした刹那、風を鋭く切るような鈍い音と共に、衝撃が顔の骨に到達した。
「ぐっ……っ!」
「ジークフリート!!」
カスターニエが自分を呼ぶ声が、聞こえたが、語尾が掠れていた。それは彼女の声が掠れていたのではなく、ジークフリートの耳が傷によって僅かに遠くなっていたからであった。
(体が重い……。鉛のようだ)
横に倒れそうになるジークフリートを、下から支えるものがあった。
ブリュンヒルデが、己の頭を用いて彼の肩を下から突き上げる形で押してくれたのだ。
横目で彼女を見やると、白い鼻筋と金色の髪のまぶしさが目に映った。
「……ブリュンヒルデ」
ブリュンヒルデはジークフリートの呼びかけには応えず、代わりに目の前で腕を組んで仁王立ちをして、彼らを見下ろしているイザベルを睨みあげた。
「イザベル。もうやめて」
はっきりとした硬い声音だった。
彼女が怒っているのがわかる。
無意識に薄く開いていたくちびるを、舌先で舐めると、皮が乾いて錆びた血の味がした。
(これは……)
背後の回された腕は、何かロープのようなもので固定されており、ぐっと精一杯の力を込めてみても、動かない。
(……なるほど。捕らえられたか)
状況を理解する。
「ふんっ、先ほど散々尾鰭で痛ぶってやったというに、まだ意識を取り戻せるのか。人間の体というのは、面白いのう。なぁ、ディーナー」
語尾には嘲りが含まれていた。
本当に、人間を実験道具としか思っていないような。
傍にいた先ほどの初老の人魚が、困ったような笑みを浮かべて「は、はい」と言って頷くのを、ぼんやりとジークは見上げていた。
ふ、と隣に視線を落とすと、ブリュンヒルデの柔らかく細い腕も、後ろでくくられていた。
その隣にいるカスターニエもだ。
彼女たちは尾鰭を一度曲げるような形で、地へと座らされている。
ジークフリートは己の膝を見下ろす。
(ああ……)
彼の膝は曲げられた形だった。これは、日本の書物を手にした時に目にしたことがある座り方だ。正座だ。
「おい、人間、聞こえているか。人間。返事をせいっ!」
再び、横から蜂が飛ぶような「ブン」という鈍い音が鳴ったかと思えば、衝撃が訪れて視界が刹那、真っ白に濁る。
「イザベル!!」
隣でブリュンヒルデが腹の奥底から唸るような大声で怒る声を聞きながら、それだけを頼りに、ジークフリートはなんとか薄れかけてゆく意識を保っていた。
「おらおらおら、まだ耐えられるであろう? そなたの強い兵士の頭蓋であればのう!」
「ふっ……、くっ……ぅうっ……」
「やめて……っ。もうやめてっ……!」
「っ……」
びたん、びたんと、前後左右にジークフリートの顔を、イザベルが尾鰭で打つ音が、部屋に鈍くこだましている。
永遠にも思われるほどの、その一方的ないじめのような攻撃に、すぐ隣で見やっていたブリュンヒルデは耐えられなくなり、きつく瞼を閉じながら顔を俯けて耐えていた。まなじりから流れた涙は真珠の粒となって地へ落ちてゆく。海の中で流した涙は真珠と変わる、という人魚のその特性を、ジークフリートは濁った視界で目にすることができなかった。
カスターニエは絶望の色を眸に灯しながら、どこともつかない視線で、薄いくちびるを奥へ巻くように噛み締めていた。白すぎる肌が、さらに透き通るような青みを帯びて白くなっている。
三人とももう限界だった。イザベルの拷問は、果たしていつまで続くのか。女王のきまぐれにジークフリートの命がかかっている。
ジークフリートには、濁った視界にちら、ちらと煌めいて見える色があった。イザベルの尾鰭の色であった。電光がほとばしるように、すばやくその色は変わっていく。彼女の尾鰭は、髪色と呼応するように、まだらな苔のような緑をしていた。海で暮らすものたちにとって、陸の緑色は、とても貴重でうつくしく見えるだろう。姿だけ見れば、彼女はとてもうつくしかった。そのうつくしさの奥に潜む邪悪な心がなければーー。
ジークフリートを叩いている時のイザベルは、とても気持ちよさそうな嘲笑を浮かべていた。目元と口の端は歪み、今にもよだれをたらしそうである。
ジークフリートは口の中に忘れていた味が広がっていくのを感じていた。
鉄の味ーー血の味。
それは、戦場で幾度も感じたものだったはずなのに。
(……そうだ……。ここは戦場なんだ)
痛みを覚えて痺れる脳裏でぼんやりと思った。
ひときわ強い力で、イザベルがジークフリートの顔を横殴りにすると、ジークフリートは途切れそうな意識がぷつり、と切れかけるのを感じた
それは、灯した蝋燭の火が、下に落ちていく蝋と共に流れ消えていく光景にも、女を抱いた時に最後に感じるエクスタシーにも似ていた。
満足したのか、イザベルの尾鰭がジークフリートから木の葉のように剥がれていくと、ブリュンヒルデは俯いたまま、肩を小刻みに震わせた。小さな身のうちに、真っ白い怒りが、渦を巻くように吹雪いているのだ。
「イザベル。あなた、なんでこんなひどいことするの……?」
「はっ、ひどいじゃと? どの口が言うか。人間共に、最もひどいことをされたのは、お主ら人魚ではないか」
ブリュンヒルデはくちびるを引き締めて、何も言葉を紡がなくなった。隣のカスターニエが彼女を見やったが、下りた前髪が金色のとばりとなって、月にかかった薄墨の雲のように、表情を隠してしまっていた。
イザベルが、もうひとビンタくれてやるというように、彼女の肢体よりも大きな尾鰭を海中でぶんと音が唸るほどに振った時である。
かたり、と部屋の扉が開く音がした。
俯いて真珠の涙をこぼしていたブリュンヒルデは、その音に反応し、ゆっくりと首を起こす。
「いや〜すまない。イザベル。調べるのに時間がかかってしまってね。さぁ。落ち着いたから、お茶にしよう」
男の声だった。
ジークフリートはその声を聞いて、薄れかけていた景色が徐々に眸の中央に収束して戻ってくるのを感じていた。それは海の深くに潜ってから海面に顔を出し、ふたたび天色あまいろを目にした時の感覚にどこか似ていた。
「人間」
さっき散々イザベルに殴られながら呼ばれた言葉を、ジークフリートが掠れた声で呟く。
それは扉を開いて現れたものに対しての言葉だった。
イザベルの部屋はいささか薄暗い。開いた扉から漏れ出る光はここよりも青く、澄んだ水色だった。その色を背に纏って現れたのは、ジークフリートと同じ、陸の生物・人間だった。
イザベルが最も嫌う生物が、彼女に対して親しげに話しかけている。
(これは……どういうことだ)
ジークフリートは腫れて赤くなった瞼をうっすらと開けて、切れたくちびるで掠れた言葉をなんとか紡いだ。その声音には驚きと怒りが血のように滲んでいた。
ブリュンヒルデも、二の句がつげなくなっている。
丸く輝く大きな宝石のような瞳が、さらに大きく見開いている。
その揺れには、不安定さがあった。
「えっ……?」
ブリュンヒルデが咳をするように声を漏らす。そしてゆっくり片手をくちもとに当て、扉の人物を見つめている。その手は、あまりの驚きで震えていた。
カスターニエはくちびるをさらに奥へと引き結び、黙っていた。眉は顰められて、その皺には、灰色の苦悩が浮かんでいる。
その男は、丸い眼鏡をかけていた。海に漂う薄水色の光を、その分厚いレンズに反射している。そこに宿った鈍い光で、男の表情は伺えなくなっていた。
白衣を纏い、ダークグリーンのシャツに紺色のスラックスを履いたその姿は、医者のように、一見きっちりとしているように見えるが、たぷんとわずかに盛り上がった下腹から生活感が滲み出ていた。
白人にしては背が低く、小柄だった。
髪は栗の渋皮煮のような濃い茶色で、それを綺麗に七三に分けている。見えた額は白く、年齢を感じさせる皺が、真横に等間隔でくっきりと三本刻まれている。
鼻は丸く、てらりと光って大きかった。
口元はたおやかな笑みを浮かべており、肉付きの良い柔らかそうな顎をしている。ぽつんと窪んだえくぼはうっすらと影を帯びている。
一見人の良さそうな笑みに見えるが、ブリュンヒルデには、彼の笑顔がいやな含み笑いに映っていた。
その顔の周囲には、ジークフリートとひとしく、人魚の泡の守護があった。
「フレデリック」
イザベルは動揺しているジークフリートたちをかすみも気にしていない素振りで、堂々と男の方を見ていた。
その口角は、わずかに上がっていた。
彼の来訪を喜んでいるようにも見える。
フレデリックと呼ばれたその男は、両腕を腰に回し、軽く指先を組んでしとしととしたリズムでイザベルの方へ歩いて行った。
イザベルはフレデリックを歓迎するように、わずかに後退り、彼の財するための空間を作ってやる。
その態度は先ほどジークフリートに対する態度とは、全く違ったものだった。
同胞を歓迎する主のような。
ジークフリートはかすみがかった眸で、フレデリックの横顔を見ていた。穏やかな医者のようなその風貌から、彼がどういった人間なのか、理解できなかった。
フレデリックはイザベルと数分話すと、こちらに気がつき、振り返る。その動作は、落ちていたゴミに気付いた者のようだった。
「ああ、なんだ。そこにいたのか」
低いが確かな重みを持ったその声。
先ほどまで穏やかな暖かさを持っていた、その色が、剥がれ落ちていくように、冷たい氷が目の前に現れる。
ゆっくりと顔を上げたジークフリートとフレデリックの視線がかち合う。
かすみがかった瞳で、男をじっと見ている。
何か、霧が晴れて行くような心地になった。
その霧の先にあったものは、不快なものだった。
「お前……お前は……」
ジークフリートは半分伏せていた瞼を徐々に開いていく。
彼の眸に、鏡のように映る、フレデリックの丸い老いた顔。
そのポーカーフェイスから、何も感情が伺えない。
「お前は……、敵の軍にいた軍医……」
「……ああ、なるほどねぇ……」
フレデリックは瞳を眇めてジークフリートを見つめると、満足げに口角を上げて親指と人差し指の腹で顎を触る。そこには嘲笑の色が滲んでいた。
背後からふたりの様子を真顔で見ていたイザベルは、隣に並ぶと、尾鰭を上向かせ、ジークフリートの顎に下から添わせるように、グッと持ち上げた。
そしてジークフリートの方には目も向けずに、フレデリックの方を見やる。
「フレデリック。こやつと知り合いなのか」
フレデリックはしゃがんで顎を上げられたジークフリートの横顔を見つめる。
「知り合いっていうか。戦場の仲間っていうか。あれですよ。戦場で殺し合った友達っ」
「貴様ぁっ!!」
目の前に迫った憎らしいほどのフレデリックの笑みに、ジークフリートのあの頃の血に塗れて、それでも敵を屠り続けて自分と自分の仲間の命を守り続けなければならなかった、極限状態の日々を思い返す。
「まぁ、いいでしょう。もうじきこの男は死ぬんだ。あんたら人魚に食い殺されて、惨めに自分の骨が砕ける音を聞きながらね」
フレデリックはよいしょ、という声と共に腰を上げると、床に尻もつけていないというのに、自分の大きな尻を払った。
「教えてあげましょうか?」
嫌味ったらしい皮肉を語尾に込めながら、フレデリックが眼鏡の縁を上げて言う。
「は?」
ジークフリートは眉と瞼の間に縦皺を刻んでフレデリックを睨み上げた。
早くこの鬱陶しいイザベルの尾鰭から顎を離したいが、身動きできない身の上がもどかしく、体内で怒りが爆発してしまいそうだった。
「人間と、人魚の歴史を。私たち人間の戦争と一緒ですよ」
そういうと、フレデリックは教え子に諭すように、腰に緩く手を当ててつかつかとジークフリートたちの前を左右に歩き出した。
「かつて、人間と人魚は共に暮らしていた」
フレデリックは部屋にあった深紅のベルベットのソファが付いている丸椅子をジークフリートたちの目の前に持ってくると、そこに腰をかけて話し始めた。上体を落とし、両の二の腕を肩幅まで開いた両足の膝にそっと置いて。指先を体の中央で組んで。
その淡々とした口調と態度は、歴史教師のようであった。
「共に暮らしていた、という言い方は語弊があるかもしれないな。白い砂浜。海と陸が交わるところで、人間と人魚は同じ時を過ごすことが多かった。人魚は人間に海の幸と美しい歌声を届け、代わりに人間は人魚に陸の幸と逞しい筋肉を施した」
フレデリックはどこつく顔でほくそ笑む。
「穏やかで愛おしい時間だった。どちらにとってもだ。だが、その細い細い均衡は、いつの間にかマグマに向かって垂れ落ちた、天女がぶら下げた蜘蛛の糸のごとく、ぷつり、と途切れた」
フレデリックの眸に、夜に向かっていくような空の色が微かに灯る。
「ある日、人間と人魚の間に諍いが起きた。それは些細な諍いであったが、その小さな粒はやがて大きな波紋となって広がる。人間は人魚を「友」としてではなく、「肉」として求めるようになったのだ。人魚の白く柔らかく甘い肌を食らえば、不老不死になれるという古いにしえからの教えを信じ込んでしまった」
フレデリックは笑った。嫌な含み笑いだった。
「ーーそんなこと、確証を得たものがいれば、不死として名をなすというのにね。
まぁ、それで港の人魚たちは次々と銛で刺されて襲われたのだ。白く美しい浜辺は、一瞬で鮮やかな血の色へと染まる。人魚の透き通る歌声は、絶命の音頭へと変化して。
みんな、屋根の下へ巣を作る燕つばめのように、人間のことを信じていたというのに。生き残った人魚たちは、海の深くへと帰っていった。二度と地上へは姿を見せなかった。頭がわずかでも、青黒い海面から出ることもなく。人間の中から、人魚の記憶が消え去ろうとしている頃ーーまぁ、人間という生き物は、自分に都合が良いようにできているのさーーひとりの人間の男が、砂浜へと足を運んだ。今日の海の様子を、なんとなく拝見しに来たのさ。すると打ち寄せる波と共に現れた海と同じ色をした鱗を持つ人魚に、ぱっくりと攫われてしまった。その男の結末? ふふ、想像してくれよ。
翌日のことになる。薄汚れた老婆が海を徘徊していた。何か金目になるものが落ちていないかって油の抜けた白髪を、潮風になびかせながら。腰をかがめて。瞳を眇めて。砂浜に何か光る物が見えたと気づいてーーまあ、それはただのシーグラスだったわけだがーー老婆が枯れていた瞳を輝かせたその時だった。
すみやかな青のヴェールを重ねたような穢れなき海が、じわりと下の層に赤黒いインクをこぼされたように、色が変化していった。
老婆はかがめていた腰をあげ、まばたきもできずにその様子を眺めていた。
ついで浮かんできたのは、人間の断片がまばらに散らばった肉片だった。ぷかり、ぷかりと静かな波が浜へ打つごとに、それらは老婆へ押し寄せる。
老婆は『ヒッ』という掠れ声と共に、両腕を地へつき、腰を抜かせた。老婆の白髪が、ぱらりと開く。
まぁ、今までの話聞いててなんとなく察しただろう? この肉片は、先程の男さ。人魚に襲われ、人魚の牙で食われて殺されたんだよ。
戦いは戦いを生み出し、復讐は復讐を生む。そんなの、軍人のあんたたちにはわかりきったことだろう?」
ジークフリートは少し首を俯けてフレデリックの話を聞いていた。前髪が溢れて、表情は見えずらくなっていたが、横目に彼を見やったブリュンヒルデの眸には、彼の頬から目の下にかけて灰色のうすい影が出来ているのを感じた。その影が孕むものは「虚しさ」だった。
フレデリックがひといきつくと、腕を組んでそばでじっとしていたイザベルが緩く動いた。そして微かにジークフリートたちに近寄る。
「人間が人魚の肉を求めるようになるのと、少しばかり遅れてから、人魚も人間の血肉を求めるようになった。海や陸、どこで獲れる幸よりも、一番うまいのは人間の血肉だということに、我らも気がついたのだ。そこからはもう、互いが互いの肉を求める、獣同士の関係よ」
ジークフリートが隣ではっと瞳を見開いたのが、ブリュンヒルデには感じられた。彼は、こちらに視線を移そうとしている。だが、こちらを見やるのは、何か彼の中で御し難い物があるらしく、神経を目の前のふたりに注いでいた。
「昔の人間は、人魚側にとっては都合が良かった。人生に絶望した者たちが、海の底に第二の世界があると信じて入水してくれていたからな」
イザベルはわずかに口角を上げる。形の良いくちびるの艶やかさが増した。ああ、人間を食ったことがあるのか、とジークフリートは虚な瞳で彼女の覗いた白い歯を見ていた。
「だが、今の人間は、そこまで海に己の身を投げることはのうなった。人間も軍事力を持ち、女の方が多い人魚が戦って勝てる相手ではのうなってしもうた。なので、わらわは」
イザベルは組んでいた腕をとき、片腕を緩やかな曲線を描く腰に、もう片腕をまっすぐにあげて隣のフレデリックにぴっと突き刺した。彼女の爪は鋭利に伸びていて、それで引っ掻かれるととても痛そうだ。その爪が宿す色は、くちびると同じ血のような深紅だった。
薄暗く蒼い海の中で、その色はひどく目立った。熾火の中で燃える炎の中心のように。「ここにいる、海軍司令官フレデリックどのと手を組んだ」
「……覚えているぞ……。アーガナイトの司令官……。フレデリック・ツィマーマン。俺たちの宿敵の国……」
ブリュンヒルデがジークフリートの方を見やると、彼は漣のように全身を震わせていた。
ブリュンヒルデは驚き、目を瞠る。
先程まで薄灰色の影を落とすばかりであったジークフリートの眉間には、宵闇のごとく黒い影が刻まれていた。上げた瞳は、深い青をたたえながらも、きつい光線が隠しようもなく水面に浮かび上がっている。それは怒りだった。どうしようもなく、生命から湧き上がる。
「アオイはどうして連れて行ったの?」
「アオイは『カナメ』だからじゃ」
「カナメ?」
「『カナメ』。人魚の歌の力が効かず、なおかつ人間どもの中で、唯一人魚の歌声を向こうとできる「跳ね返し」の声の持ち主である。
あやつの存在は、我らにとって危険すぎるのじゃ」
「……アオイをどうするつもりだ」
ジークフリートはフレデリックに向けていた怒りの蒼いともしびを、手にしていた炎の枝をうつすように、イザベルへと向けた。
「海の生物として飼い慣らし、抵抗すれば殺すだけよ」
イザベルはさも当たり前のことのように、自信のある顔でそう告げた。彼女の睫毛の先に、火が灯ったようにちらつく。その光を、ジークフリートは鬱陶しいと感じる。夏の朝に、直接陽光を目の中に差し込まれたような感覚。
ブリュンヒルデは、薄くくちびるを開いたあと、ぎゅっと強く噛み締めた。隣で蒼白い顔をしているジークフリートの肉のない横顔を見やる。影を纏うほどに、彼はうつくしくなると感じる。ついで、まばたきをひとつ落とすと、真っ直ぐにイザベルを見上げた。
「イザベル。お願いがあります。私がアオイの代わりにあなたたちの群れの捕虜になります。なので、アオイたちを地上へと返してくれないでしょうか」
空間に間が空いた。
ジークフリートとイザベルが、同時に「あ」の字になって固まったからだ。
フレデリックは腕を組んで、ふぅ、とひとつ鼻息をこぼした。それが泡の守護の中で溶けて消える。カスターニエも「本気ですか」と一言小さく呟いた。
ブリュンヒルデは大人たちの様子は気に留めず、花が綻ぶように笑む。まなじりに集まった睫毛の束が、海の底で咲く、金色のガーベラのブーケのようだった。
「ローレライの人魚なんて希少だもの。先の戦いで人間と戦って負けた落ちぶれた貴族。一匹で生きてゆくよりも、あなたたちの配下に加わるわ」
イザベルは瞳の水面を動かさず、じっと怜悧にブリュンヒルデを見下ろしていた。春の空気と、冬の空気が海底で交わっているような温度差だった。
「……人間に飼い慣らされた、人間臭い人魚の小娘を、それも別のコロニーの者を、今更私が快く仲間に加えるとでも思うたか」
静かな時が、海底に鈍い光を孕んだほこりのように降り積もる。ブリュンヒルデが瞳の水面を震わせたそのときだった。
何か大きな音がした。泡が割れるような、はっきりとした音。
「何やつ!」
イザベルは目を見開き、音のした方角に目を向ける。
ジークフリートたちも、あまりにも大きな音に驚き、首を背後へと巡らせた。
ばたん、ばたん、と何かが破裂する音が、連続して響く。その響きは徐々に大きさを増していき、こちらへと近づいてくる。
ブリュンヒルデが気配の変化に気づき、はっと目を向ければ、イザベルは白い歯を食いしばり、両腕を胸の前で交差させ、己の上半身を抱きしめていた。歯が、かたかたと鳴っている。彼女は恐怖を感じているのだ。
フレデリックが眼鏡を中指の第一関節を曲げて直し、体制を整えようとする最中であった。
パリッ。
鈍く重い扉に、斜めに雷光が走った。
何か、と皆が思った刹那、扉は左右へばらり、と剥がれるように落ちる。
淡い逆光を背に受け、現れたのは、一匹の人魚であった。
鱗は真紅で金魚の尾鰭をし、髪は射干玉の黒。ゆうらりと扇のように広がったそれに守られるように、金の髪をしたひとりの少年が、その白い肩から驚いた顔を覗かせるのが見えた。
「ふぅ。てこずらせおって。城の場所を数年前と変えたか? こぉんなでかいものにするとはな。あぁ、久しぶりだな、イザベル」
右手にした日本刀をかすかに振り、銀の礫の光をちらつかせて、刃を見つめた後、前方に視線を映す。
イザベルは瞳を眇め、逆光を睨む。恐れと怒りのないまぜになった視線で、相手を射殺すように。
「ロゼ・十六夜・ダルク……!」
イザベルの歯軋りの音が、海底にこだまするかのようだった。