少女人魚ブリュンヒルデよ、海上で平和の歌をうたえ

決闘裁判

 十六夜はそんなイザベルに対峙し、まるで興味のなさそうな表情で、彼女よりもさらにあかいくちびるをうっすらと突き出している。筆で描いたような黒の眉を寄せ、いささか不機嫌そうだ。 
「つまらぬものを斬ってしまった」
 吐き捨てるように言うと、すっと刀の柄を
 握っていた片腕を下ろす。切先を静かに見つめると、ジークフリートたちを確認する。はっと乾いた笑いをこぼす。
「そなたら、無様にも捕らえられたか」
「え!? 司令官!? ブリュンヒルデさん!?」
 十六夜の白い肩から浮き上がるように、少年の顔が出る。先ほどよりもくっきりとあらわになったそのおもてに、ブリュンヒルデは腰を伸ばして歓喜を浮かべた。
「ブレン!」
「わぁっ。ブリュンヒルデさん、ご無事だったんですね!」
 ブレンも笑顔の花を咲かせる。明るい雰囲気になる幼いふたりに対し、イザベルと十六夜の間に流れるものは冷えていた。
「ロゼ。貴様、どのような顔でここに姿をみせた。二度と海の中で再会することはないと、喜んでいたのにのう」
「はっ、どの口が言うか」
 十六夜はフレデリックを一瞥し、ふたたびイザベルに戻す。
「イザベル。そなた落ちぶれたのう。あのようなゴミデブメガネの人間の男と、あろうことか手を組んで、人間に攻撃を挑むとは。覚悟はできておろうな?」
「ゴミデっ……」
 フレデリックは顔を赤くして十六夜を睨む。
 だが、十六夜は彼に一切の興味を持っていないそぶりを見せる。そして、己よりも低い位置にいたブリュンヒルデをしばし見つめる。
 ブリュンヒルデは、十六夜に見つめられるとどこか落ち着かないような心地になった。十六夜はブリュンヒルデが海の中で目にしたどんな人魚よりも、色香があり、妖しげなうつくしさを持っていたからだ。
「イザベル、私がいた頃も、まぁそれはそれはムカつくやつであったが、今はさらにムカつくババアになってしまったなぁ」
「黙れ! 野良落ちした人魚が口答えするでないわっ!!」
 薄い腹の底のいったいどこに潜んでいたのかというほどの大声で、イザベルは叫んだ。十六夜を威嚇するようにも、彼女にどこか怯えているようにも聞こえた。
 十六夜は短くため息をつく。瞬きし、じっと瞳を伏せると、くちびるを薄く開き、眉を顰めた。
「ーーローレライの人魚たちを操ったのも、そなたたちの仕業だな」
「えっ……?」
 ブリュンヒルデが驚いて目を瞠る。
 イザベルは決まり悪そうにたじろぎ、半歩後ろに下がった。
「海を泳いでいて、この城から人魚が発生する自然と溶け合うようなものではない周波数を感じた。ーーひどく肌触りが悪く、気持ち悪く、不愉快ななーーあれは人間が鉄を用いて生み出したものだ。あの周波数は、人魚の精神を狂わせる。それをそこにいるゴミデブメガネに作らせて、ローレライの人魚を操ったのであろう? な、ゴミデブメガネ?」
 不敵な笑みを浮かべて、十六夜がフレデリクを見やる。
 フレデリックは十六夜の方を見ず、顔に黒い影を刻んで固まった。
 ブリュンヒルデはしばらく呆然としていたが、徐々にその白い肌を、さらに白く青褪めさせていく。
「そんなっ……。どうして……?」
 ジークフリートは十六夜の話を聞き終わると、勢いよく立ち上がろうとした。だが、縛られている縄が、彼の動きを静止する。ぴんと張った縄が、さらに強く彼の手首を縛り上げ、鈍い痛みをもたらすばかりであった。
 縄と同じような力強さで、歯を食いしばり、
 やがて何かを諦めたかのような乾いた笑いをこぼした。
「なるほどな……。そういうことだったのか……」
 フレデリックはかすみのように動き出す。気のせいか、先ほどよりもさらに肌の色が白くなっている。彼のメガネのレンズに光が落ちて、曇りガラスのように、その小さな眸を隠した。その光は、鈍いにも関わらず、見たものの目を刺すような鋭さを孕んでいた。灰色の雨雲の中に隠された雷光の埋み火。
 わずかに俯くと、右手の中指の先で丸眼鏡のブリッジをくい、と持ち上げた。
「仕方なかったんだよ。わかるだろ? だって私たちのアーガナイトは、君たちの軍に負けてしまった。だが、復讐したい気持ちは、埋み火のように体から消えてはくれない。一度戦争に身を置いてしまうと、敵を殲滅することに自分の生きる意味を、よろこびを見出してしまう。なぁ、アドルフ司令官どの。君なら、わかってくれるはずだ。そこで負けた側の私は考えた。どうしたら君たちに苦しんで死んでもらえるかってね。異形の者と手を組み、そいつらに殺してもらうんだ。屈辱的で恐怖しかない死に方だろ?」
 ジークフリートは何も言わなかった。
 フレデリックは淡々と続ける。少し楽しそうだった。
「ほら! 僕は機械を扱うのが上手いんだよ
 。アーガナイトの軍機は、全て僕が考えたんだ」
 ちょいちょい、と右手の人差し指を曲げてフレデリックは己の広い額を小突く。
 破られた扉から漏れる光が、その輪郭を白く縁取る。そのせいで脂が纏われているのが泡越しに見える。
 フレデリックは腰に手を当ててつかつかと歩くと、水蒸気が出ている暖炉のような作りの箇所の横にそっと腰をかがめた。ふたたび立ち上がった時には、その両手には銀製のラッパのようなものが抱えられていた。兵士が朝の合図に片手で持って吹くタイプとは違う、大きなサイズである。
「これこれ。これだよ」
 フレデリックは嬉しそうな笑顔を浮かべた。それは彼があらわにした中でも、特別に輝いた笑顔だった。不気味なほどに。
 右手の中指を折り曲げ、第二関節でコツコツとラッパのゆるやかな曲線部分を叩く。微量な力だった。彼が撫でた部分から、脂がうつってゆくようだった。きらびやかな線を描く、銀の光沢を持って。
「人魚たちは、人間よりも聴覚に優れ、敏感だ。だからそこを壊してやる道具を作った。なぁに。軍人ひとりの心を壊す拷問だって、何度もやってきたんだから、簡単なことさ」
 フレデリックは瞼を伏せて、ラッパに頬を近づける、我が子に擦り寄るような仕草だった。愛おしい、という気持ちが溢れて見える。
 かくり、と十六夜の肩から剥がれ落ちる。うにブレンが地へ足をつく。その小顔の周囲には、ジークフリートたちと同じく泡の守護が纏われていた。その色はジークフリートの泡と違い、桜の花弁のような薄紅色だった。十六夜から授けられたのだろう。ブレンはそのうすい泡と等しく、ぼんやりとした表情でフレデリックを見やる。そして、誰に言い聞かせるでもなく、まるで自分に言い聞かせるかのように。
「終わらないんだ……。終わらないんだよ。僕たちの戦争が終わっても。ずっとずっと、連鎖は続いていく。誰かを殺したら、誰かが殺されてーー。ああ、なんて世界に生まれてしまったんだろう」
 ジークフリートはブレンを見上げた。彼の横顔は白く、何かを諦めたかのような色合いをしていた。そこに漂うものは、戦争での心の癒えぬ傷を眺め、いつも怯え、震えながら夜を過ごしていた仲間の兵士と似たものだった。若いブレンにその気配が漂ったことに、ジークフリートは静かな絶望を感じ、奥歯に痛みを覚えるほどに噛み締めた。
 ブレンはひとしきり茫としたまなざしで前方を見つめていたが、やがて俯き、小刻みに震えると両手で目元を覆った。
 フレデリックはそれをさも気にも止めていないように、軽く片手でラッパの軍機を持ち上げると、ぺちぺちと片手に羽を下ろすように叩く。
 気だるい空気を破ったのは、十六夜のさらに後方から現れた男だった。
「ーーさっきから聞いてりゃあ、まぁーーグボっ」
 十六夜は腰に手の甲を当て、眉を寄せるとさも鬱陶しそうに背後を見やる。
「すまん。泡の守護をかけるのが、そなたはブレンよりもいささか遅かったからな。わずかに海水を飲み込んでしまったかもしれん」
「はっ、わずかじゃねえだろうよ……」
 男ーーアルベリヒは右腕でくちもとを拭おうとしたが、自分の顔の周りにブレンとひとしい、薄紅色の泡の守護があったことを思い出し、舌打ちをして顔をゆるく振る。
「ったく。ずっとロゼちゃんのおっぽにしがみついて泳がされてきたんだよ。誰の為にかって? お前らの為だよ! はぁ、でも女の尻を掴みながらずっと泳いでたってことだよな。つまり、サーフィンデート? 良い人生経験になったぜ。しかもこんな美人とな!」
 アルベリヒはくねる前髪を払うように、ぱっと顔を上げた。あかるい笑顔だ。いつも鬱陶しいその自信に満ち溢れた笑顔が、今はこの仄暗い海底の中に差し込む天からの陽光のようだった。
「アルベリヒ……」
 ジークフリートは旧友の顔を目にして、自分でも無意識に口角を上げていた。アルベリヒの顔を見て、自分が今までとても不安だったのだということがわかった。
 アルベリヒはジークフリートを見下ろすと、
 にかりと気持ちの良い笑顔を浮かべる。
「行こうぜ。アオイたちを連れて、地上へ還るぞ!」
「ということだ、イザベル。私の陸の友人たちを返してもらおうか」
 黙って手を組んで話を聞いていた十六夜が、からみをほどき、スッと片腕を上げてイザベルに物を乞うような仕草をする。
 イザベルはただ、十六夜を罵る言葉を吐き、身をすくめて瞳の中央にぎらつく威嚇のともしびを増しただけであった。
「イザベル。そなたのことは大嫌いであったが、唯一好んでいたところがある。それは私の和名と、そなたの名前が似ているというところだ。皆から揶揄されると、嫌がっていたが、本当は、そなたの名前だけは好きだった」
「今更好感度をあげようという無駄なあがきか!! 聞きたくもないわ!! 人間にくちびるを授けた、薄汚い野良が! 高貴な妾に話しかけるでないっ!!」
 いかずちが落ちるような女の怒声だった。
 十六夜はうすく瞳を眇めて彼女を見つめていたが、やがてその鮮やかな紅いくちびるから、諦念の吐息をこぼした。肩をすくめ、まるく白い瞼を閉じ、うっすらと笑む。それは、話しても無駄だという相手に対する仕草だった。
「ジーク」
 突然名前を呼ばれ、ジークフリートはかすかに驚いて顔を上げ、十六夜を見やる。
 十六夜はペーパーナイフで切った程にうすく瞼を開けて彼を見下ろした。その瞳には、真珠のような小粒の光が滲んでいる。強い光だと思ったそれは、瞬時にゆらいで消えた。
「こいつらと話しても、無駄だ。頭が硬いまま、二百年も、閉鎖された群れの中で生きているのだからな。新しい情報を取り入れなかったおかげで、こんなくだらない人間に騙されてしまった」
 視線は向けず、回した腕の親指の先でフレデリックを指す。はーっと息を吐き、腰に差し戻していた刀の柄に片手を置いた。 
 イザベルは俯き、紅い髪を逆立てた。彼女の周囲に細かな泡が下から上へと上がっていく。それは徐々に勢いを増して。
 イザベルの怒りによって、周囲の海水が、沸騰しているのだ。
「ーーこの城におる全人魚に告ぐ……! 裏切り者、ロゼ・十六夜・ダルクが敵の人間を引き連れて帰ってきた!! 全員、今すぐ私の部屋へ集い、ロゼたちを屠れ!!」
 イザベルの叫びは反響し、海水を伝って永遠に響き渡るかのように思われた。その響きはつい、と止まり、やがて訪れたのは、しばしの沈黙だった。不気味なまでの。しぃんと静かな。
「何……?」
 ブレンが片耳を抑えていた手を、軽く離したときだった。ぱりん、ぱりん、と薄氷が割れていくような音が、周囲に広がる、ひとつでは小さく聞こえていたかもしれないその響きは、幾重にも重なっているせいで、重奏となり、大きく聞こえた。
 ブレンが天井を仰いだとき、部屋のすりガラスの窓が割れ、それをゆるく覆っていた深紅のカーテンがひらりと内側に舞った。カーテンの裏は、呼応するように深緑色となっていた。割れたすりガラスは、パラパラと氷の花弁のように海中を漂う。
 ジークフリートたちの顔の近くにも届いたが、泡の守護によって目を傷つけられることは防がれた。本能で手を顔の前に翳し、瞳を眇めた刹那、時が止まったかのような感覚に陥った。目の前の海水の流れ、散らばって舞うガラスの破片が、しんと静かな雪の日のように、緩やかに見える。
 ジークフリートは瞳をゆっくりと瞠った。
 彼がわずかに人差し指の先を動かしたとき、止まっていたかに見えた時間は、墨を含んだ筆を強く紙に押さえつけた時のように広がり始めた。
 窓から大勢の人魚が、怒りの形相を浮かべてこちらを襲ってくる。色とりどりの錦のような長い髪は、海水の青い影を宿して凄絶なうつくしさを孕んで、狂気にも見えた。
 主人・イザベルの命により、彼女の咆哮から怒りの感情が伝わったのか、人魚たちは牙を剥き出し、目を釣り上げていた。まるでどこぞの山奥で戦友たちと野宿した時に見た野犬だ。獣の本能を剥き出しにし、敵を屠ろうとしている。
 ジークフリートが立ち上がろうともがく中、
 彼の前にいた十六夜は、腹からはっ、と声を上げ、己に活力を与えた。そして、姿勢を正すと、片腕を腰の刀の柄に置き、ぐっと腰を落とす。
「十六夜、何をーー」
 ジークフリートが掠れた低い声で、十六夜に問いかけた刹那、十六夜は斜め上からジークフリートに噛みつこうとした人魚に向かって勢いよく抜刀した。
 ジークフリートは驚いた。ああ、そうだ。イザベルが怒声を上げてから? いや、フレデリックが真実を話してから? いや、もっと前、我々がイザベルに捕らえられてから?
 いや、違うだろう。双子が連れ去れてからーーそれよりも、もっともっと前から、戦争だった。これは、戦争だったのだ。そういった思いが、その時彼の脳内を駆け巡った。 十六夜に斬られた人魚は、高い叫び声を上げながらもがいてくねくねと踊るように泳ぎ、下がっていく。どうやら、致命傷にはならなかったらしい。十六夜は、手加減したのだ。
「ははっ。お優しいロゼ殿には、同胞は殺せんということか。お得意の抜刀術の魅力も半減じゃのう」
 イザベルが勝ち誇ったかのような笑いをする。腹を押さえ、笑いの波に耐えている。
 十六夜はつめたい視線でイザベルを射抜くと、前歯で下唇を食んだ。ぽってりと厚いくちびるの上に、白い小粒の歯が、わずかに覗く。
 刀に付着した人魚の鮮やかな血が、海の流れと共に漂って消えてゆく。
 十六夜はその血に包まれるように、凛と立っていた。
「おい、イザベルの手下ども。ーーかつての我が同胞よ。うす汚い野心を持った人間と手を組み、人魚殺しの罪は重いぞ。私は自みずから誰かを手にかけることはないが、そちらから向かってきた場合にはーー」
 青黒い潮水を割るように、斜め下から、ぐん、と人魚が一匹泳いできた。口を大きく開き、今にも十六夜を噛み砕かんというように。
 だが、十六夜は、くちびるを引き結んだまま、表情を変えず、目の眼光だけを鋭くする
 降り積もる白銀の雪色をした刃をふたたび鞘に戻すと、一際深く腰を屈めて、祈りを捧げるように首を落とし、静かにまるい瞼を閉じた。その仕草があまりにも美しく、また神々しかったので、ジークフリートはうすくくちびるを開き、しばしの間呆然としていた。周囲には凶暴な人魚が多くいたというのに、その刹那だけ、彼の視界には薄青い海を背景にした十六夜の姿しか映らなかった。
 人魚が跳ねるような勢いをつけて十六夜に向かって長い手を伸ばしながら泳いでくる。
 瞳孔の開いた瞳は虚だ。
 小型ナイフ並に長く伸ばした真珠色の爪で、
 十六夜の薄い肌を裂こうとする。
 十六夜は人魚が触れるか触れないかというほどの距離まで近づいた頃、瞼をかっと見開いた。
 そして人魚には一瞥もくれず、動かぬまま抜刀すると、人魚の腹を縦に斬った。 人魚は腹の奥から出したかのような低い咆哮を上げると、目を開けたまま仰け反って後方へ倒れる。海がクッションとなり、地へ落ちることはなかったが、腹から吹き出した血が海水と混ざってさっと広がり、十六夜の白い肌を赤く汚していった。
 十六夜はその様を、ただ黙って見つめていた。黒い眉を寄せ、かすかに震わせながら。
 その場にいたジークフリートだけが、彼女が悲しんでいるように見えていた。
 やはり、十六夜は致命傷を避けたらしい。
 刀の傷は深みには辿り着かず、人魚を気絶させただけだった。幾日か海の中で休めば、回復する程度の。
「仲間を傷つけたくはない……」
 十六夜が呟いた吐息のような声は、かすみとなって海に溶ける。それをきちんととらえたのは、ジークフリートだけだった。
 周囲の人魚たちは十六夜の華麗な刀さばきに驚き、怯えて震え始めた。天から彼らの様子を伺い、降りてこようとはしない。
 十六夜はそれをちら、と見上げて確認すると、思い出したようにジークフリートたちの背後へ回り、刀の切先でぷつん、と縛られていた縄を解いてやった。
 ジークフリートたちが立ち上がったのと同時に、十六夜は引き結んでいたくちびるを開いた。
「イザベル」 
「……」
 イザベルは怒りを抑えきれず、ふー、ふー、と宿敵を前にした興奮しきった犬のように、目を釣り上げて十六夜を睨んでいた。
 十六夜は彼女には視線を移さないまま、静かに時を待つ。流れゆく潮が、地上のそよ風のように十六夜の細い髪を揺らす。さらさらと流れていく黒髪は、白い光沢を孕んでいた。
「このままだと、お前の仲間の人魚が傷ついていく。戦闘の深みへとたどり着けば、私も手加減はできなくなる。ただの殺し合いが始まる。私たちが全滅するか、このコロニーの人魚たちが全滅するかの」
 十六夜はイザベルの方を振り向いた。一つの絡みも見せない滑らかな黒髪が、ふわりと揺れる。
「けじめをつけないか。ふたりで」
「けじめじゃと……」
 イザベルはやっと十六夜の言葉に反応を見せた。興奮状態になってからは初めての。
「ああ、決闘裁判を行なってな」
「……なるほどな。貴様、野良になっても騎士の心は捨てられんだったか」
「決闘裁判……」 
 その場の誰もが思った言葉を、ジークフリートが低く掠れた声でつぶやいた。
 イザベルが態勢を整えた。背骨の浮くほどに肉の薄い、白い背中のすじを伸ばして。戦闘態勢に入ったのだ。
 十六夜もわずかに崩していた体の姿勢を伸ばした。すべての関節の至るところの、少しのすきまにも空気を入れて血液の巡りをよくするかのように。
 ふたりとも、戦場の軍人と同じ心構えであった。ーー彼女らが纏っているのは軍服ではなく、凛とした着物と、海がもたらした女性の体を守る衣であったが。
 ジークフリートも目を瞠ったまま、うすく口を開けて背筋を伸ばして立っていた。
 ブレンも、アルベリヒさえも。
 彼らは軍人だった。これから何が起こるのか、本能的に悟ってしまったのだ。
 神聖な決闘が今始まろうとしている。 
 海底に来てから、どれほどの時間が流れていたのか、すでにわからなくなっていた。夜が幾重も巡り、今ここは生まれ変わった朝の白い雲が下ろした霜の光が、舞い降りてきているような気がした。
 地上の透明で暖かなひかりが、いよいよ恋しくなっていた。
 十六夜は漂い流れる星屑のような、人魚たちが勢いよく泳いできたことで生まれ出た泡が、目の前でほこりのようにきらきらと舞っているのを確認すると、一つ瞬きをして、真っ直ぐにイザベルを見つめた。戦士としての敬意を相手に送る態度だった。
 そしてすぅっと息を吸い込むと独特の低さを保つ、うつくしい大声を上げた。
「城に集いし皆のもの、よく聞けい!! 今からコロニーの女王、イザベル・マルテンシュタインに、決闘裁判を挑む! この者は、人間と手を組み、ローレライのコロニーの人魚をほぼ壊滅へと導いた。その罪は重い!」
 周囲をぐるりと見渡すように首を巡らせて吠える。
 それを見守っていたジークフリートには、幼い頃に村にやってきた、都会の楽団の座長が、さぁ今から舞台が始まるぞ、と観客に呼びかけていた姿をなぜだか思い出した。その記憶は、この場面に遭遇するまで、一度たりとも思い起こされたことのない、古い記憶のかけらだった。
 ぱっと瞬きをすれば、古く懐かしい記憶は奥へと渦潮が小舟を飲み込むように消え去り、代わりに筆で描いたような黒い眉を寄せて声を発する勇ましい十六夜の勁つよい姿が目の前にあざやかになる。彼女の紅い尾鰭が、より一層煌びやかな金色の光沢をまとっているように見えた。それは、まばたきする前と後ではかなり違った。色合いが、よりクリアになっている。彼女の放つ生命力が増しているからなのだろうか。
 これから最後の戦いをしようというのだ。
 先ほどまでこちらを襲おうとしていた周囲の人魚たちは、一斉にしんと静まった。
 さざめく小さな鈴のブーケを、片手で止めたかのような静寂が訪れる。
 その沈黙の紙を、うすいナイフの切先で切り裂く波が、ひとりの女によって起こされた。
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