少女人魚ブリュンヒルデよ、海上で平和の歌をうたえ
十六夜とイザベル
十六夜が、素早くイザベルの方へと泳ぎながら、腰の刀に手をやり、鞘から刀を引き抜いた。白銀しろがねの刃は、海の薄青を受けて染まる。宵闇色の瞳はさらに黒に溶けたが、その中央は月が天の真上にあるように冴えていた。
イザベルも半歩遅れて上体をわずかに背後へ落とし、口を限界まで開けると、天へ向かって一声鳴いた。興奮状態の虎のような鋭い咆哮だった。奥にしまわれていた黄金色の牙を剥き出しにする。獰猛な獣の本性が、決闘のもとであらわにされた。
十六夜が右手で持った刀の柄に左手を覆い被せるように添わせ、下から上へ、海を割くように刃を回していったのと同時に、イザベルは十六夜の斜め上空から舞い降りる鷹のように、両手の爪を尖らせ、彼女へ襲いかかっていった。その刹那、彼女の鋭利な爪はまだらな薔薇色に光を帯びる。瞳の瞳孔は開き、真珠色だったまなこには血の小雨がいく筋も浮き、走った。
彩豊かなふたりの影が重なり、黒く消えた刹那。両手で別々の方向へ扇をぱんと合わせたように、黒と紅の豊かな髪が、電気が走ったように蒼の中を波打つ。
ふたたび現れたのは、白い肌に鱗を持つ女の鮮やかな姿がふたつ、離れていった。
蒼だけの色をした空間に、一拍遅れてむわりと血の色が水彩をこぼしたように広がった。それはイザベルの周囲に発生したものだった。どちらかが切られた。または、斬られたか。致命傷を負ったか。
ジークフリートたちは、誰も何も言えず、ただふたりの人魚の女の決闘を、目と口をかすかに震わせながら見つめていた。
血の赤が春の霧のように海へ溶けて消えていく。
そして、硬直していたイザベルが、かはっと天を一瞬仰いで大きく開けていた口から血を吐いたのと、きん、と氷を銀の匙で叩いたような、冴えた音を立て、十六夜が刃を鞘に戻した。そのふたつが目の前に同時に起きて、彼らは時が動き出したのを肌で感じ取った。十六夜が刃を戻す刹那、鈍い月の暈のような光が、横に輪を作って静かに消えていった。
ブリュンヒルデはその光を、なぜだかその時一生覚えているだろうと、呼吸を止め、オパール色の目を瞠りながら静かに感じた。
イザベルは女座りをするように、天を仰いで白目を剥いたまま膝をかたりと落としてから、数秒を経て床へ頽れた。彼女の腹から、生まれたばかりの赤黒い血が流水紋のごとく流れ続ける。紅色のゆたかな髪が、傷を負った体のあるじを守る毛布のように、彼女の骨の張った白い背を覆う。そこにもやのように薄らいだ血が重なる。
十六夜が勝った。
その場にいた誰もが、そう思った。
床に這いつくばったイザベルは、指のふしぶしが細い両手をつき、さざなみのように震えながら上体を起こしたが、やがてつるりと滑って顎を床へ打ちつけた。
十六夜はそのさまを、水色の影を宿した表情でただ見下ろしていたが、やがてゆったりと彼女の方へと近寄ると再び、刀を構える。戦闘態勢だった。
「まだ生きている」
低くつめたい声音で、そう呟く。
十六夜の瞳は月影のような金色の粒が宿り、それは獲物を捕らえた黒狼そのものだった。
なんの感情も感じられない。ただ目の前の人魚を屠る。
イザベルはとうに覚悟を決めていたのだろう。彼女にも、フレデリックと手を組んでから雫ひとつ分残っていた人魚の誇りがあった。
吐血で赤く汚れた顔を上げ、荒い息をつきながら十六夜を見上げる。白い肩がむき出しになった片腕を梃子に、枯れた花のようにしなだれた体を支えて。それでも彼女の体はこまやかに震えていたが。
十六夜とイザベルの視線がかちあう。夜と昼の色をした、互いの瞳。互いにないものを持つ虹彩の花弁を。
「……殺せ」
イザベルは血の唾をまじえて、低く吐き捨てた。
十六夜はそれを聞くと、瞳の瞳孔を開いたまま、ぶん、と刀を振り上げ、音もなく静かに、イザベルの白く柔らかな肩と落としていった。その刹那、十六夜の脳裏に、はるか昔にイザベルと仲が良かった頃の記憶が、桜の花弁が散っていくようにひらひらと思い起こされ、静かに消えていった。
その時、彼女らの間に、純白の羽が舞い降りたーーいや、羽だと思ったものは、1人の人魚だった。
ばつり。
女の皮膚が切断される音。そして、魚の硬い鱗が切断される音が続く。
ふたりとも、目の前の状況に脳が追いつかず、瞠目する。
それは周囲にいた人間と人魚たちも同様であった。
ジークフリートの隣で静かに決闘のゆくえを見守っていたカスターニエが、イザベルが刀で斬られる刹那、駆け寄るように泳いで行き、彼女らの間合いにその身を潜らせたのだ。
「ーーカスターニエ!!」
十六夜とイザベルの間に、生まれたばかりの血の波がもやのように広がっていく。
イザベルはその血で顔を静かに染めていきながら、瞳を震わせる。腰を折り、ゆるやかにこちらへ倒れてくる臣下を、無意識に両腕で抱き留めた。カスターニエの背中は背骨が浮き立ち、ひどく痩せて細かった。 十六夜は刀の勢いを制御できず、間に入ったカスターニエを斬ってしまった。それほどに、カスターニエの泳ぎは素早かったのだ。
状況を理解した十六夜は、紅いくちびると黒曜石の瞳を震わせる。刀の白い刃から、もやが溶けるように、イザベルとカスターニエの血が混じり合ったものが、溶けて流れてゆく。
「……そなたっ……」
「なぜじゃ!! なぜっ……、わらわを守ったか!!」
イザベルは悲痛な声音で、腕に抱いたカスターニエの顔をこちらへ見えるように体の向きを上向かせる。
もともと白かった彼女の顔は、さらに青褪めて夜の雪のようだった。
カスターニエはイザベルをみとめると、乾いたくちびるをわずかに上げた。微笑もうとしているのだと気づいた時、イザベルの見開いた瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
カスターニエの白い鎖骨と淡く盛り上がった胸の上を、斜めに切られた刀傷から漏れ出る血が、あざやかなもやとなって覆い、舐める。
カスターニエは感覚の乏しくなった指先で、その傷の横を拭うように触ると、僅かに付着した血液を顔の前にかざし、己の傷を遠い目で確認した。どこか人ごとのようだった。
「そなた……なぜ」
カスターニエは己の斜め上から聞こえてくる十六夜の声音に反応し、瞳を上げる。ゆるいその動きだけで、彼女の栗色の前髪が紗を払ったかのように額から落ちた。
「カスターニエ!」
ジークフリートも身を乗り出して、彼女の名を呼ぶ。短い間だったとはいえ、彼女は味方で、自分たちをここまで導いてくれた。
カスターニエはくちびるを漣のように震わせると、掠れた声を出した。その声は吐息のように、透明で儚かった。
「十六夜さま……。どうかお気になさらず。こんな方でも、わたくしの主人なのです。どれだけその真白ましろだった手を汚そうとも、遠い昔に、はぐれ人魚だった私をこのコロニーに受け入れてくれた事実は変わらない。恩人であることは、永遠に変わらないのです」
「カスターニエ、お前は……っ、お前は……っ」
「イザベルさま。いつかこうなるだろうと思っておりました。私の命は、救われたあの日からあなたのもの。あなたの命が危ういときは、ただ一度ばかりのこの命を捧げようと心に決めておりました。どうか、どうか心変わりされますことを、お祈り申し上げます」
カスターニエは見慣れた主人の顔を見上げる。
先ほどまで鬼のような形相で戦っていたとは信じられぬほど、その相貌は崩れ、涙で濡れた子供のような潤んだ瞳と下がったまなじりが視界にあらわになる。
カスターニエはそれを見やると、なぜだか安心し、柔らかな花のような笑みを浮かべた
そして、震えるイザベルの片手をそっと取る。力の抜けた手で力の抜けた手を取るのは、案外簡単だった。羽のように軽いもの同士が、触れ合っただけの。
イザベルの尖ったまだらな薔薇色の爪の先に宿る、鈍い光を瞳に映すと、そっとその人差し指をつまみ、己の白く細い首へと突き刺した。
イザベルが抵抗する時間もないまま、カスターニエは喉奥に深く刺さった主人の指先を真横にぐっと撫でるように動かす。
皆が「あっ」と思う間もなく、カスターニエの首すじから、さらなるあざやかな血が溢れる。
「ーー何故なにゆえ……っ!」
人魚は死ぬと、泡になって消える。
ジークフリートは見開いたまなこの奥で、幼い頃に読んだ絵本の話をうっすらと思い出した。
カスターニエの体から、金色と水色が入り混じった細やかな泡が湧き上がり、彼女を抱くイザベルごと包み込む。イザベルの赤毛と、カスターニエの栗毛が舞い上がる。その髪の筋を、泡が覆って撫でてゆく。イザベルは瞳を見開いたまま、カスターニエを両腕に抱えて見つめるばかりだった。ひときわ強い光を放つ中で、動かなくなったカスターニエの腕が、一瞬だけ動き、イザベルの頬を撫でたように見えた。
カスターニエの体の泡は徐々に静まっていき、最後に海面へ登るように、一粒一粒割れて消えていった。最後の一つが消えた時、薄紅色に光り、はらはらと花弁のように残り香のようなものが落ちて行くのを、イザベルは目を瞠りながら、十六夜はくちびるを引き結びながら、黙って見つめていた。 カスターニエの体の泡は徐々に静まっていき、最後に海面へ登るように、一粒一粒割れて消えていった。最後の一つが消えた時、薄紅色に光り、はらはらと花弁のように残り香のようなものが落ちて行くのを、イザベルは目を瞠りながら、十六夜はくちびるを引き結びながら、黙って見つめていた。
ゆっくりと十六夜が首を落とす。
イザベルが呼応するように彼女に視線を合わせた。
十六夜はそれを見て、先ほど自分へと向けられた、激しい闘志や殺意が、イザベルの中からすっかり消え去っているのを確認した。
「イザベル。そなたは私に負けた。よいな」
十六夜は淡々と告げた。静かで低い声だった。
「……」
十六夜は真顔でひとつ頷くと、ふたたび顔を上げて周囲をくるりと見やり、すっとくちびるを縦に開けて息を吸い込んだ。
「皆のもの、よく聞けい!! 今日こんにちの決闘裁判、イザベル・マルティンシュタインは、ロゼ・十六夜・ダルクに負けた!!」
皆、息を沈めた。
十六夜の声音はそれほどに、聞くものの鼓動に響き、震わせたからだ。
眉を寄せ、周囲の空気が凛とするのを待つと、十六夜はふたたびイザベルを斜め上から見下ろした。その瞳孔に、光は宿っていなかった。彼女が耳にかけていた黒髪の房が、首を斜めにしたことではらりと落ちる。白い面には薄氷を張ったような灰色の影がうつっていた。
「イザベル」
「……」
「顔をあげい」
イザベルは感情の消えた顔で、ふたたび十六夜を見やる。
十六夜はすっと腰を屈めてイザベルに顔を寄せた。くちづけができるのではないかと思うほどに近い距離だった。皆が息を呑んで彼女の動向を見守る中、イザベルを見つめたまま、十六夜は腰に手をやると、先ほど納めた刀を鞘から片手だけで音も立てずにするりと抜き出した。
「あっ……!」
そばで見ていたブレンが思わず声をあげそうになる。
十六夜はそのまま刀を滑らせるように、切先を抜き出した。わずかに泡が立つ。
イザベルは何も言わずに十六夜を見つめ返しているだけであった。
彼女らの視線が、かちあう。
「イザベル。そなた。このままだとカスターニエのように海の泡となって消えるだけだぞ。それでいいのか」
「……」
十六夜は、イザベルにだけ聞こえる低い呟きを放った。どこか凄みのある声だった。瞳が金色に鈍く光っていた。
イザベルは答えない。目の前で臣下を亡くしたことが、活力のかたまりのような彼女にとっても大きなショックだったらしい。
十六夜は瞳を眇める。そして、手にしていた刀を器用にイザベルへと近づけると、その切先を、彼女の白く尖った顎の下につけた。
わずかに力を入れ、指先で持ち上げるように、彼女の顎を上げる。
「人間となり、地上で生きて罪を償え」
言われたことの意味を捉えると、イザベルは瞳を瞠る。
「貴様、何をっ……」
「このまま海底で人魚として暮らしても、決闘裁判で負けたものとして扱われるのみぞ。裁判で負けた人魚に対して、海の者は冷たい。
惨めに生を送るのは、そなたの性分ではないはずだ。それよりは地上で人間として生き、その生命力を日の光のもとで生かした方が良い。……そなたを庇った敬虔なる臣下のことを、永遠に思い続けてな」
「ロゼ……貴様は……」
十六夜はふっと笑う。この世のことわりに対して、嘲笑しているような笑みだった。
「ただ、人間の脚と引き換えに、そなた自慢の煌びやかな鱗。そして、美しい声は失われるがな。それでもよければ」
十六夜の刀の切先に、いつの間にか真珠がひとつぶ乗っていた。淡い薄紅の色。桜の花弁を思わせる儚げな。
イザベルはそれを、眸だけを動かして見下ろす。くちびるはいつの間にかうすく開いていた。
「この真珠を飲め」
「……」
永遠にも思われるような時間が、ふたりの間にだけ流れる。
周囲の者は何が起こっているのか理解しているものと、いないもので分かれていた。理解した人魚は、静かにイザベルの決断を見守り、いないものは、十六夜が刀を真横に引き抜いて、イザベルの首を落としてしまうのではないか、と考えていた。
「さぁ、どうする」
「……」
沈黙を破ったのは、背後に夏影のように潜んでいたフレデリックだった。
かつん、という靴音が、静謐になった部屋の中で響いた。地上の博物館で、誰かが鳴らした靴音と同じ、揺蕩う響き。
決闘の最中、静かだったフレデリックが、十六夜とイザベルに一歩近づいたのだ。その顔には、先ほどの人を小馬鹿にしたような笑みをさらに深くしたものが、刻まれていた。
十六夜はそれを横目で見やる。興味のないものに対して、彼女はとことん興味がなかったが、右腕に左手を指先を触れるか触れないかの距離で近づけ、ゆるりとわかめのように揺れる彼の立ち姿に、何故か危険なものを感じ、身を固くした。
「イザベルさま〜。そのう……。お負けになったんでしょうか?」
語尾を上げた喋り方。右手の中指で丸眼鏡のブリッジが軽く押さえられ、リムが鈍く銀色に光る。その光が、かすかに逆光となっている彼の影を、いっそう不気味にさせていた。「……」
イザベルは何も言えず、まつげを震わせてしばしフレデリックを睨んでいたが、やがて俯き、歯噛みした。
「え? お負けになったんですか? なったんですよね? そう聞いているんですが……、聞いていることに応えてくださいよぉ。ねぇ。それくらい答えられますよねぇ!!」
フレデリックの喋りは、徐々に音程が狂い、音量も上がっていった。クレッシェンドのように。それを遮ったのは、存在感をあえて消して先ほどからひっそりと佇んでいた男だった。
「おい……やめろ」
ジークフリートはフレデリックの方を見ずに、少し俯き、低い声音で囁いた。その囁きは、触れようとするものを切ろうとする鋭利さを持っていた。
彼が伏せていた目を開ける。金色のまつ毛の下に現れた、ぽっちりとした蒼い眸に、日の光を孕んだ夏空の雲のように、はっきりとした光が浮かんでいる。その光は、鋭くフレデリックを射抜く。
「戦場で負けたものに対して。負けを認めたものに対しての罵りが、どれだけ屈辱的なことか、貴殿は嫌というほど知っているはずだ。自分がやられたことを、同胞にやり返すか」
「はっ、人魚に負けた軍人風情が何を言うかと思えば!」
フレデリックが肘から片手を離し、ジークフリートを指差して嘲笑しようとした矢先のことだった。
ジークフリートは何の変哲もなくフレデリックの方へと歩いていき、彼の目の前までたどり着くと、気をつけのように姿勢を正す。そして右腕を大きく上げ、左手を己の右肩に沿わせると、拳を握った。
ぶん、と唸りをあげるほど大きな素振りをして、フレデリックの柔らかな頬が変形する。
ジークフリートが、彼を殴ったのだ。
ブレンやブリュンヒルデは、そちらを見つめて目と口を丸くして、唖然とし、息を止めた。
フレデリックが回転して倒れようとするが、海の力によって、かなりスロウな崩れ方をしたので、一同はそのゆったりとした彼の動きをただ見つめていた。
ジークフリートは何も言わず、くちびるを自然と引き結んだまま、上げた片腕をしばしそのままにしていた。やがて気づいたようにくるくると回すと、すっと下ろした。
「スッキリしたか?」
アルベリヒが両腕を組んで、ゆるく首を傾げる。
ジークフリートは視線だけを彼に向けた。睨んでいるようにも見える。彼の白い拳には、フレデリックの歯茎から生まれた、粘ついた血液が付着して赤く汚れていた。
アルベリヒはジークフリートのつめたい視線を受けても、ただ口角を上げるだけだった。 決闘を険しい顔で見守っていた人魚たちが、いつの間にか数人はけていた。アルベリヒは訝しく思ったが、ふたりの人魚が扉を開けて、音も立てずに戻ってくる。剥き出しにされた白く細長い腕の先に、ふたつの小柄な影があった。
ブレンは人魚の方へと顔を向け、その影を見やると、瞳を輝かせた。
「アオイくん! アカネちゃん!!」
人魚が連れてきたのは、捕らわれていた双子だった。どうやら彼女らも、イザベルの負けを認めたらしい。
「ジーク! ブレン、アルベリヒのおっさん! それに……ロゼさんもっ……!」アカネが声を掠れさせながら叫んだ。
「おっさんは余計だ!」
アルベリヒはぼやく。
「……っ!」
アオイは声にならない声を上げた。
「アオイ、アカネ、無事だったんだな……。よかった。本当に」
ジークフリートは瞳を眇めて穏やかに告げる。
「アカネ、アオイ、久しぶりだな」
十六夜は彼女らの方を向いて淡々と応えた。
一見そっけないように見えるが、アカネには十六夜の愛情が伝わっていた。
アカネが感動で大きな瞳を夜の泉の水面のように震わせる。黒い艶やかな髪は、白の光沢を保ち、柔らかな頬には薄紅を宿している。
それは、アオイも一緒だった。
健康そのもののふたりの姿にジークフリートは安堵し、海底に来てから初めて、くちもとを緩ませてかすかに微笑んだ。
アカネは己の小さな肩に置かれた人魚の腕をそっと払うと、はらりと駆け出して、ジークフリートの腰に抱きつく。
突然のことにジークフリートはわずかに目を瞠ったが、アカネが小さな体で、強い力で己の腰を抱くので、瞳を眇めて俯き、彼女の黒髪を撫でてやった。彼女らも泡の守護を受けており、顔の周りをオパール色を帯びた薄い泡で囲まれていた。
ジークフリートが恐る恐る片手をその泡に沿わせると、音もなく泡はその手を飲み込んだので、アカネの黒髪を撫でてやった。
ジークフリートの大きな手にあまりそうなほど小さく形の良い彼女の後頭部の感触を感じながら、ジークフリートは己の手が海に浸かって濡れていたことを自覚した。海水が、アカネの黒髪をかすかに濡らしていったからだ。
アオイは姉の様子を見つめたまま、しばし黙って口を丸く開けていたが、うっ、と喉の奥でくぐもった声を鳴らすと、一度瞳を瞬いた。
長い睫毛にしずくの細やかな粒が、小雨が降ったかのように付着する。彼は泣いていた。
まるみを帯びた頬に、大粒の涙がはらはらとこぼれ落ちて。海水の薄青と、泡のオパール色を通して見るそれは、ぼやけて滲んでいた。
彼の涙は熱く、泡の中との温度差が生まれたのだろう。アオイの周囲が、うすく湯気が立ち始めていた。それは朝もやのように、やがて静かに消えてゆく。
倒れていたフレデリックが、右腕を梃子にして、崩れた上体を上げる。彼の白く肉のついた自身に満ちていた顔は、前歯と眼鏡のレンズが割れ、たいそうみすぼらしくなってしまった。
ちかちかと点滅する視界が、徐々に平らになってくるのを待つと、目の前には感動の再会が繰り広げられており、気持ち悪さで嗚咽が出そうになった。
(はてさて、どうやってこの場を逃げ出しますか)
フレデリックは考えた。曲がった眼鏡のブリッジを右手の中指で押さえる。格好は決まっていない。
(扉ーー出口には人魚が二体ーー。まぁ押し退ければなんとかなるか。所詮女だしなぁ。イザベルの馬鹿には、適当な嘘をついてごまかして、そのまま縁を切るとしてーー)
ブリッジに置いた指をすべらせて、丸い顎を撫でる。視線は右に寄せて。
(ああ、こういうことを考えるのは好きだったな。軍師だった時も。いかに捨て駒を利用して、僕ひとりが戦場から助かるかを)
フレデリックは彼に近寄ったものでしかわからないほどに、片側の口角だけをかすかに上げた。折れた歯から滲む赤が、さらに目立った。
彼が腰を上げた時であった。
顔に灰色の影を灯して俯いていたイザベルは、十六夜が双子の方へと目を逸らした時、己の顎に添わされていた刃の上に乗せられていた薄紅の真珠を、長く細い指先でそっとつまむと、顔を天へ向けた。
そして大きく口を開くと、それを放り込んだ。
「あっ!」
ブレンがイザベルの動向に気づいて、目を瞠って声を上げる。
その声と半歩ずれて、イザベルは喉元まで降りてきた真珠を、ごくりと飲み込んだ。
彼女の細く白い首筋に、わずかに浮かんだ喉仏が上下するのを、一同は黙って見つめていた。
イザベルの喉仏の動きが止まる。
静かな沈黙が、刹那、訪れた。
(イザベル……、あなた、人間になる覚悟ができたの?)
ブリュンヒルデはゆるくこぶしを丸めると、胸元に置いた。彼女が身につけていた、ジークフリートからもらった彼の腹巻の感触が、手に優しかった。不安そうに眉を寄せ、瞳を震わす。
天を仰いで停止していたイザベルであったが、次第に彼女の長い紅髪が、扇のように背後へ広がり、わらわらと震え出した。
紅色から、金色の光沢を波打たせ、それが髪の先から後頭部へと上がってゆく。輪唱するような輝きだった。あまりのうつくしさに、一同は彼女を見つめる視線が見惚れるものへと変化していく。
イザベルの髪の輝きがひとしきり治まると、
喉を鳴らしてくぐもった響きを鳴らし、両手で掻きむしるように己の首を掴んだ。
伸ばされた爪の先で薄い皮膚が切られ、赤い鮮血がたらりと滲んでいく。
「ぐぅっ……、ふっうぅっ……うっ」
イザベルはがくり、と顔を下す。前髪と横髪が彼女の顔を覆い、目元が見えなくなった。
ただ、険しく強く噛み締めた歯が、厚いくちびるとくちびるの間から見えている。歯列の隙間から、粘土を持った薄紅色の唾液が流れ、彼女の白い顎を桜に染めていく。形の良い鼻の穴を、ひときわ大きく膨らませると、はぁっと熱い息を漏らした。
「……あぁっ! 脚がっ……」
アルベリヒがくちびるを震わせて、イザベルの尾鰭を指さす。彩豊かだった鱗は、ちかちかと点滅すると、蝋がじっとりと溶け出すかのように、彼女の肌の中に消えていく。代わりにあらわになったのは、薄紅よりもさらに白い彼女の肌だった。
丸みを帯びた腰や尻が、生まれたままの人間の女の姿で、海底の中に重なり、くたびれて座っていた。長くしなやかな、うつくしい脚だった。
真珠色の肌が重なり、宵闇の中に浮かび上がる月の暈のように、輪郭が白くぼやけて見えている。
イザベルが苦しい息を整えると、顔を上げた。涙で濡れた目元は、赤く染まっている。苦しみで青くなったくちびるを開き、はっ、と大きな泡あぶくを海の中へこぼした。ぱちんと爆ぜて消えたそれを、傍かたわらで見ていた十六夜は、死ぬまで覚えているだろうと何故だか感じていた。
海底のクラシックな部屋の真ん中に、脚をくたりと重ねて座る裸体の女がいる光景は、ひどく不可思議だったか、なぜだか神々しさを放っていた。彼女の周りだけが、白く光っているように見える。
ジークフリートはさざなみのように瞳を震わせてイザベルを見つめながら、いつかどこかの美術館で目にしたヴィーナスの絵画を、うすぼんやりと思い返していた。
大きな薄紅の貝殻に乗った、裸のヴィーナス。春の匂いをまとった。
イザベルは肩を上下させ、息を整える。白い肩に紅薔薇色の髪がひと房。ふた房垂れ落ちる。それは雪景色の中、花弁を散らす様に似ていて。
イザベルがしばし停止するとすっと顔を上げて、手の甲で垂れていた涎を拭き取るために、くちもとを拭った。
瞳は吊り上がり、先ほどとは何か違った生気を薄氷のように張っている。火の粉が中に見えるかのようだった。そして、その矛先は、目の前でくずおれていたフレデリックへと、真っ直ぐに向けられていた。
フレデリックはその火の粉をみとめると、殺される、と本能的に感じ取った。
ひぃっと高い声で息を吸い込む。喉の奥が渇いており、咳き込みそうになる。慌てて立ち上がると、足がもつれた。一度ばたんと腹から転び落ちる。太っていたため、腹がクッションとなり、ぽんと軽く跳ねた。その時ばかりは太っていたことが幸いとなった。
フレデリックが跳ねた瞬間、ブリュンヒルデがかるく驚いて、両手をくちもとで重ねた。一度まばたきをする。
金色の髪が、早緑さみどりの光沢を孕んで、ふわりと花が咲くように背で広がる。彼女の桜貝色の爪に反射し、きらりときらめく。
フレデリックは扉へと向かう刹那に、彼女のそのきらめきを瞳の中央に映した。意識して見やったわけではないのだが、その時はその景色を映すのが、彼の中で運命だったのだろう。
扉の前に立っていたふたりの人魚を、乱暴に両腕を使って掻き分ける。
人魚たちが無理矢理腕を掴まれて後ろに引かれたことで、鈍い痛みに顔を顰めて前方へとくずおれる。
あと一歩、いや半歩というところで、扉の外へと飛び出すことができる。
フレデリックはその瞬間、このうえない幸福に全身が包まれてゆくのを感じた。
両腕を大きく広げて、滑空する鳩のような心地になる。指先をわずかにひらひらとさせて、その時笑みを浮かべながら、手首の内側にあった「あるもの」を鳴らした。時計のような複雑な作りをした機械。彼が指先で工具を用いて作った。
微量な周波が、彼の手首を支点にして、やわらかく円を描いて海の中を広がっていく。鈍いさざなみが、人間がみとめることのできぬさざなみが、ゆっくりとした速度で、広がっていく。
(自由だ。私は……自由だ……)
フレデリックはさらに口角を上げて笑みを深めた。すごく美味いものを食べた後のような満足感に満たされてゆく。まつ毛も上向き、眉毛も額の脂肪を押し上げるほどに弧を描いて上げて。
背後からのしかかったイザベルが、彼を倒すのはほんの一瞬だった。
イザベルは最後にわずかに残っていた人魚の名残ーー牙を用いて、フレデリックのやわらかな首筋に噛み付いた。
脂肪のついた彼のそれは、脂身がナイフで切られるように簡単に奥まで牙の侵入を許し、頸動脈を深く抉られ、あざやかな鮮血を吹き出した。先ほど自由を謳歌していた幸福な人間の顔が歪み、地獄の釜に落とされた、苦痛を味わう悪魔の顔へと変貌する。極限まで見開き、血走ったまなこから、真夏の汗のような涙が噴き出す。
「あぁっ……!! やめ、ろっ……! ヤ、メロっ……!!」
びくびくと、陸に打ち上げられた魚のように跳ねて、口をぱくぱくとさせながら、息苦しそうなフレデリックの断末魔が響く。己に噛み付いたイザベルの細い肩や肩甲骨、首筋をばしばしと太い手で叩くが、イザベルはびくともせずに彼に牙を剥け続ける。
ジークフリートたちは唖然とそのさまを見守りながら、イザベルの怨念を感じ取っていた。そこには、男に小馬鹿にされた女の怒りが、信じていたものに裏切られた者の悲しみが、みじめさが、自己嫌悪が、口惜しさが、執念が、熱い泡となって滲み出していた。
イザベルの瞳は油を帯びたかのように金色にぎらつき、つり上がり、ひとつの瞬きもこぼさずに、口から低いうめき声を上げながら、ただフレデリックの皮膚や肉を睨み続ける。
フレデリックは彼女を侮蔑する言葉を吐き続けていたが、やがて口の動きが緩やかになり、最後は大きく口を開けたまま、唇の端に唾のかたまりをつけ、目を見開いてイザベルを凄みのある表情かおをして、死んだ魚のように動かなくなった。
それはほんの一瞬のことであった。
ほんの一瞬の。
人間の生まれてから死ぬまでの歴史の中では、光の速さのごとく。
イザベルも半歩遅れて上体をわずかに背後へ落とし、口を限界まで開けると、天へ向かって一声鳴いた。興奮状態の虎のような鋭い咆哮だった。奥にしまわれていた黄金色の牙を剥き出しにする。獰猛な獣の本性が、決闘のもとであらわにされた。
十六夜が右手で持った刀の柄に左手を覆い被せるように添わせ、下から上へ、海を割くように刃を回していったのと同時に、イザベルは十六夜の斜め上空から舞い降りる鷹のように、両手の爪を尖らせ、彼女へ襲いかかっていった。その刹那、彼女の鋭利な爪はまだらな薔薇色に光を帯びる。瞳の瞳孔は開き、真珠色だったまなこには血の小雨がいく筋も浮き、走った。
彩豊かなふたりの影が重なり、黒く消えた刹那。両手で別々の方向へ扇をぱんと合わせたように、黒と紅の豊かな髪が、電気が走ったように蒼の中を波打つ。
ふたたび現れたのは、白い肌に鱗を持つ女の鮮やかな姿がふたつ、離れていった。
蒼だけの色をした空間に、一拍遅れてむわりと血の色が水彩をこぼしたように広がった。それはイザベルの周囲に発生したものだった。どちらかが切られた。または、斬られたか。致命傷を負ったか。
ジークフリートたちは、誰も何も言えず、ただふたりの人魚の女の決闘を、目と口をかすかに震わせながら見つめていた。
血の赤が春の霧のように海へ溶けて消えていく。
そして、硬直していたイザベルが、かはっと天を一瞬仰いで大きく開けていた口から血を吐いたのと、きん、と氷を銀の匙で叩いたような、冴えた音を立て、十六夜が刃を鞘に戻した。そのふたつが目の前に同時に起きて、彼らは時が動き出したのを肌で感じ取った。十六夜が刃を戻す刹那、鈍い月の暈のような光が、横に輪を作って静かに消えていった。
ブリュンヒルデはその光を、なぜだかその時一生覚えているだろうと、呼吸を止め、オパール色の目を瞠りながら静かに感じた。
イザベルは女座りをするように、天を仰いで白目を剥いたまま膝をかたりと落としてから、数秒を経て床へ頽れた。彼女の腹から、生まれたばかりの赤黒い血が流水紋のごとく流れ続ける。紅色のゆたかな髪が、傷を負った体のあるじを守る毛布のように、彼女の骨の張った白い背を覆う。そこにもやのように薄らいだ血が重なる。
十六夜が勝った。
その場にいた誰もが、そう思った。
床に這いつくばったイザベルは、指のふしぶしが細い両手をつき、さざなみのように震えながら上体を起こしたが、やがてつるりと滑って顎を床へ打ちつけた。
十六夜はそのさまを、水色の影を宿した表情でただ見下ろしていたが、やがてゆったりと彼女の方へと近寄ると再び、刀を構える。戦闘態勢だった。
「まだ生きている」
低くつめたい声音で、そう呟く。
十六夜の瞳は月影のような金色の粒が宿り、それは獲物を捕らえた黒狼そのものだった。
なんの感情も感じられない。ただ目の前の人魚を屠る。
イザベルはとうに覚悟を決めていたのだろう。彼女にも、フレデリックと手を組んでから雫ひとつ分残っていた人魚の誇りがあった。
吐血で赤く汚れた顔を上げ、荒い息をつきながら十六夜を見上げる。白い肩がむき出しになった片腕を梃子に、枯れた花のようにしなだれた体を支えて。それでも彼女の体はこまやかに震えていたが。
十六夜とイザベルの視線がかちあう。夜と昼の色をした、互いの瞳。互いにないものを持つ虹彩の花弁を。
「……殺せ」
イザベルは血の唾をまじえて、低く吐き捨てた。
十六夜はそれを聞くと、瞳の瞳孔を開いたまま、ぶん、と刀を振り上げ、音もなく静かに、イザベルの白く柔らかな肩と落としていった。その刹那、十六夜の脳裏に、はるか昔にイザベルと仲が良かった頃の記憶が、桜の花弁が散っていくようにひらひらと思い起こされ、静かに消えていった。
その時、彼女らの間に、純白の羽が舞い降りたーーいや、羽だと思ったものは、1人の人魚だった。
ばつり。
女の皮膚が切断される音。そして、魚の硬い鱗が切断される音が続く。
ふたりとも、目の前の状況に脳が追いつかず、瞠目する。
それは周囲にいた人間と人魚たちも同様であった。
ジークフリートの隣で静かに決闘のゆくえを見守っていたカスターニエが、イザベルが刀で斬られる刹那、駆け寄るように泳いで行き、彼女らの間合いにその身を潜らせたのだ。
「ーーカスターニエ!!」
十六夜とイザベルの間に、生まれたばかりの血の波がもやのように広がっていく。
イザベルはその血で顔を静かに染めていきながら、瞳を震わせる。腰を折り、ゆるやかにこちらへ倒れてくる臣下を、無意識に両腕で抱き留めた。カスターニエの背中は背骨が浮き立ち、ひどく痩せて細かった。 十六夜は刀の勢いを制御できず、間に入ったカスターニエを斬ってしまった。それほどに、カスターニエの泳ぎは素早かったのだ。
状況を理解した十六夜は、紅いくちびると黒曜石の瞳を震わせる。刀の白い刃から、もやが溶けるように、イザベルとカスターニエの血が混じり合ったものが、溶けて流れてゆく。
「……そなたっ……」
「なぜじゃ!! なぜっ……、わらわを守ったか!!」
イザベルは悲痛な声音で、腕に抱いたカスターニエの顔をこちらへ見えるように体の向きを上向かせる。
もともと白かった彼女の顔は、さらに青褪めて夜の雪のようだった。
カスターニエはイザベルをみとめると、乾いたくちびるをわずかに上げた。微笑もうとしているのだと気づいた時、イザベルの見開いた瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
カスターニエの白い鎖骨と淡く盛り上がった胸の上を、斜めに切られた刀傷から漏れ出る血が、あざやかなもやとなって覆い、舐める。
カスターニエは感覚の乏しくなった指先で、その傷の横を拭うように触ると、僅かに付着した血液を顔の前にかざし、己の傷を遠い目で確認した。どこか人ごとのようだった。
「そなた……なぜ」
カスターニエは己の斜め上から聞こえてくる十六夜の声音に反応し、瞳を上げる。ゆるいその動きだけで、彼女の栗色の前髪が紗を払ったかのように額から落ちた。
「カスターニエ!」
ジークフリートも身を乗り出して、彼女の名を呼ぶ。短い間だったとはいえ、彼女は味方で、自分たちをここまで導いてくれた。
カスターニエはくちびるを漣のように震わせると、掠れた声を出した。その声は吐息のように、透明で儚かった。
「十六夜さま……。どうかお気になさらず。こんな方でも、わたくしの主人なのです。どれだけその真白ましろだった手を汚そうとも、遠い昔に、はぐれ人魚だった私をこのコロニーに受け入れてくれた事実は変わらない。恩人であることは、永遠に変わらないのです」
「カスターニエ、お前は……っ、お前は……っ」
「イザベルさま。いつかこうなるだろうと思っておりました。私の命は、救われたあの日からあなたのもの。あなたの命が危ういときは、ただ一度ばかりのこの命を捧げようと心に決めておりました。どうか、どうか心変わりされますことを、お祈り申し上げます」
カスターニエは見慣れた主人の顔を見上げる。
先ほどまで鬼のような形相で戦っていたとは信じられぬほど、その相貌は崩れ、涙で濡れた子供のような潤んだ瞳と下がったまなじりが視界にあらわになる。
カスターニエはそれを見やると、なぜだか安心し、柔らかな花のような笑みを浮かべた
そして、震えるイザベルの片手をそっと取る。力の抜けた手で力の抜けた手を取るのは、案外簡単だった。羽のように軽いもの同士が、触れ合っただけの。
イザベルの尖ったまだらな薔薇色の爪の先に宿る、鈍い光を瞳に映すと、そっとその人差し指をつまみ、己の白く細い首へと突き刺した。
イザベルが抵抗する時間もないまま、カスターニエは喉奥に深く刺さった主人の指先を真横にぐっと撫でるように動かす。
皆が「あっ」と思う間もなく、カスターニエの首すじから、さらなるあざやかな血が溢れる。
「ーー何故なにゆえ……っ!」
人魚は死ぬと、泡になって消える。
ジークフリートは見開いたまなこの奥で、幼い頃に読んだ絵本の話をうっすらと思い出した。
カスターニエの体から、金色と水色が入り混じった細やかな泡が湧き上がり、彼女を抱くイザベルごと包み込む。イザベルの赤毛と、カスターニエの栗毛が舞い上がる。その髪の筋を、泡が覆って撫でてゆく。イザベルは瞳を見開いたまま、カスターニエを両腕に抱えて見つめるばかりだった。ひときわ強い光を放つ中で、動かなくなったカスターニエの腕が、一瞬だけ動き、イザベルの頬を撫でたように見えた。
カスターニエの体の泡は徐々に静まっていき、最後に海面へ登るように、一粒一粒割れて消えていった。最後の一つが消えた時、薄紅色に光り、はらはらと花弁のように残り香のようなものが落ちて行くのを、イザベルは目を瞠りながら、十六夜はくちびるを引き結びながら、黙って見つめていた。 カスターニエの体の泡は徐々に静まっていき、最後に海面へ登るように、一粒一粒割れて消えていった。最後の一つが消えた時、薄紅色に光り、はらはらと花弁のように残り香のようなものが落ちて行くのを、イザベルは目を瞠りながら、十六夜はくちびるを引き結びながら、黙って見つめていた。
ゆっくりと十六夜が首を落とす。
イザベルが呼応するように彼女に視線を合わせた。
十六夜はそれを見て、先ほど自分へと向けられた、激しい闘志や殺意が、イザベルの中からすっかり消え去っているのを確認した。
「イザベル。そなたは私に負けた。よいな」
十六夜は淡々と告げた。静かで低い声だった。
「……」
十六夜は真顔でひとつ頷くと、ふたたび顔を上げて周囲をくるりと見やり、すっとくちびるを縦に開けて息を吸い込んだ。
「皆のもの、よく聞けい!! 今日こんにちの決闘裁判、イザベル・マルティンシュタインは、ロゼ・十六夜・ダルクに負けた!!」
皆、息を沈めた。
十六夜の声音はそれほどに、聞くものの鼓動に響き、震わせたからだ。
眉を寄せ、周囲の空気が凛とするのを待つと、十六夜はふたたびイザベルを斜め上から見下ろした。その瞳孔に、光は宿っていなかった。彼女が耳にかけていた黒髪の房が、首を斜めにしたことではらりと落ちる。白い面には薄氷を張ったような灰色の影がうつっていた。
「イザベル」
「……」
「顔をあげい」
イザベルは感情の消えた顔で、ふたたび十六夜を見やる。
十六夜はすっと腰を屈めてイザベルに顔を寄せた。くちづけができるのではないかと思うほどに近い距離だった。皆が息を呑んで彼女の動向を見守る中、イザベルを見つめたまま、十六夜は腰に手をやると、先ほど納めた刀を鞘から片手だけで音も立てずにするりと抜き出した。
「あっ……!」
そばで見ていたブレンが思わず声をあげそうになる。
十六夜はそのまま刀を滑らせるように、切先を抜き出した。わずかに泡が立つ。
イザベルは何も言わずに十六夜を見つめ返しているだけであった。
彼女らの視線が、かちあう。
「イザベル。そなた。このままだとカスターニエのように海の泡となって消えるだけだぞ。それでいいのか」
「……」
十六夜は、イザベルにだけ聞こえる低い呟きを放った。どこか凄みのある声だった。瞳が金色に鈍く光っていた。
イザベルは答えない。目の前で臣下を亡くしたことが、活力のかたまりのような彼女にとっても大きなショックだったらしい。
十六夜は瞳を眇める。そして、手にしていた刀を器用にイザベルへと近づけると、その切先を、彼女の白く尖った顎の下につけた。
わずかに力を入れ、指先で持ち上げるように、彼女の顎を上げる。
「人間となり、地上で生きて罪を償え」
言われたことの意味を捉えると、イザベルは瞳を瞠る。
「貴様、何をっ……」
「このまま海底で人魚として暮らしても、決闘裁判で負けたものとして扱われるのみぞ。裁判で負けた人魚に対して、海の者は冷たい。
惨めに生を送るのは、そなたの性分ではないはずだ。それよりは地上で人間として生き、その生命力を日の光のもとで生かした方が良い。……そなたを庇った敬虔なる臣下のことを、永遠に思い続けてな」
「ロゼ……貴様は……」
十六夜はふっと笑う。この世のことわりに対して、嘲笑しているような笑みだった。
「ただ、人間の脚と引き換えに、そなた自慢の煌びやかな鱗。そして、美しい声は失われるがな。それでもよければ」
十六夜の刀の切先に、いつの間にか真珠がひとつぶ乗っていた。淡い薄紅の色。桜の花弁を思わせる儚げな。
イザベルはそれを、眸だけを動かして見下ろす。くちびるはいつの間にかうすく開いていた。
「この真珠を飲め」
「……」
永遠にも思われるような時間が、ふたりの間にだけ流れる。
周囲の者は何が起こっているのか理解しているものと、いないもので分かれていた。理解した人魚は、静かにイザベルの決断を見守り、いないものは、十六夜が刀を真横に引き抜いて、イザベルの首を落としてしまうのではないか、と考えていた。
「さぁ、どうする」
「……」
沈黙を破ったのは、背後に夏影のように潜んでいたフレデリックだった。
かつん、という靴音が、静謐になった部屋の中で響いた。地上の博物館で、誰かが鳴らした靴音と同じ、揺蕩う響き。
決闘の最中、静かだったフレデリックが、十六夜とイザベルに一歩近づいたのだ。その顔には、先ほどの人を小馬鹿にしたような笑みをさらに深くしたものが、刻まれていた。
十六夜はそれを横目で見やる。興味のないものに対して、彼女はとことん興味がなかったが、右腕に左手を指先を触れるか触れないかの距離で近づけ、ゆるりとわかめのように揺れる彼の立ち姿に、何故か危険なものを感じ、身を固くした。
「イザベルさま〜。そのう……。お負けになったんでしょうか?」
語尾を上げた喋り方。右手の中指で丸眼鏡のブリッジが軽く押さえられ、リムが鈍く銀色に光る。その光が、かすかに逆光となっている彼の影を、いっそう不気味にさせていた。「……」
イザベルは何も言えず、まつげを震わせてしばしフレデリックを睨んでいたが、やがて俯き、歯噛みした。
「え? お負けになったんですか? なったんですよね? そう聞いているんですが……、聞いていることに応えてくださいよぉ。ねぇ。それくらい答えられますよねぇ!!」
フレデリックの喋りは、徐々に音程が狂い、音量も上がっていった。クレッシェンドのように。それを遮ったのは、存在感をあえて消して先ほどからひっそりと佇んでいた男だった。
「おい……やめろ」
ジークフリートはフレデリックの方を見ずに、少し俯き、低い声音で囁いた。その囁きは、触れようとするものを切ろうとする鋭利さを持っていた。
彼が伏せていた目を開ける。金色のまつ毛の下に現れた、ぽっちりとした蒼い眸に、日の光を孕んだ夏空の雲のように、はっきりとした光が浮かんでいる。その光は、鋭くフレデリックを射抜く。
「戦場で負けたものに対して。負けを認めたものに対しての罵りが、どれだけ屈辱的なことか、貴殿は嫌というほど知っているはずだ。自分がやられたことを、同胞にやり返すか」
「はっ、人魚に負けた軍人風情が何を言うかと思えば!」
フレデリックが肘から片手を離し、ジークフリートを指差して嘲笑しようとした矢先のことだった。
ジークフリートは何の変哲もなくフレデリックの方へと歩いていき、彼の目の前までたどり着くと、気をつけのように姿勢を正す。そして右腕を大きく上げ、左手を己の右肩に沿わせると、拳を握った。
ぶん、と唸りをあげるほど大きな素振りをして、フレデリックの柔らかな頬が変形する。
ジークフリートが、彼を殴ったのだ。
ブレンやブリュンヒルデは、そちらを見つめて目と口を丸くして、唖然とし、息を止めた。
フレデリックが回転して倒れようとするが、海の力によって、かなりスロウな崩れ方をしたので、一同はそのゆったりとした彼の動きをただ見つめていた。
ジークフリートは何も言わず、くちびるを自然と引き結んだまま、上げた片腕をしばしそのままにしていた。やがて気づいたようにくるくると回すと、すっと下ろした。
「スッキリしたか?」
アルベリヒが両腕を組んで、ゆるく首を傾げる。
ジークフリートは視線だけを彼に向けた。睨んでいるようにも見える。彼の白い拳には、フレデリックの歯茎から生まれた、粘ついた血液が付着して赤く汚れていた。
アルベリヒはジークフリートのつめたい視線を受けても、ただ口角を上げるだけだった。 決闘を険しい顔で見守っていた人魚たちが、いつの間にか数人はけていた。アルベリヒは訝しく思ったが、ふたりの人魚が扉を開けて、音も立てずに戻ってくる。剥き出しにされた白く細長い腕の先に、ふたつの小柄な影があった。
ブレンは人魚の方へと顔を向け、その影を見やると、瞳を輝かせた。
「アオイくん! アカネちゃん!!」
人魚が連れてきたのは、捕らわれていた双子だった。どうやら彼女らも、イザベルの負けを認めたらしい。
「ジーク! ブレン、アルベリヒのおっさん! それに……ロゼさんもっ……!」アカネが声を掠れさせながら叫んだ。
「おっさんは余計だ!」
アルベリヒはぼやく。
「……っ!」
アオイは声にならない声を上げた。
「アオイ、アカネ、無事だったんだな……。よかった。本当に」
ジークフリートは瞳を眇めて穏やかに告げる。
「アカネ、アオイ、久しぶりだな」
十六夜は彼女らの方を向いて淡々と応えた。
一見そっけないように見えるが、アカネには十六夜の愛情が伝わっていた。
アカネが感動で大きな瞳を夜の泉の水面のように震わせる。黒い艶やかな髪は、白の光沢を保ち、柔らかな頬には薄紅を宿している。
それは、アオイも一緒だった。
健康そのもののふたりの姿にジークフリートは安堵し、海底に来てから初めて、くちもとを緩ませてかすかに微笑んだ。
アカネは己の小さな肩に置かれた人魚の腕をそっと払うと、はらりと駆け出して、ジークフリートの腰に抱きつく。
突然のことにジークフリートはわずかに目を瞠ったが、アカネが小さな体で、強い力で己の腰を抱くので、瞳を眇めて俯き、彼女の黒髪を撫でてやった。彼女らも泡の守護を受けており、顔の周りをオパール色を帯びた薄い泡で囲まれていた。
ジークフリートが恐る恐る片手をその泡に沿わせると、音もなく泡はその手を飲み込んだので、アカネの黒髪を撫でてやった。
ジークフリートの大きな手にあまりそうなほど小さく形の良い彼女の後頭部の感触を感じながら、ジークフリートは己の手が海に浸かって濡れていたことを自覚した。海水が、アカネの黒髪をかすかに濡らしていったからだ。
アオイは姉の様子を見つめたまま、しばし黙って口を丸く開けていたが、うっ、と喉の奥でくぐもった声を鳴らすと、一度瞳を瞬いた。
長い睫毛にしずくの細やかな粒が、小雨が降ったかのように付着する。彼は泣いていた。
まるみを帯びた頬に、大粒の涙がはらはらとこぼれ落ちて。海水の薄青と、泡のオパール色を通して見るそれは、ぼやけて滲んでいた。
彼の涙は熱く、泡の中との温度差が生まれたのだろう。アオイの周囲が、うすく湯気が立ち始めていた。それは朝もやのように、やがて静かに消えてゆく。
倒れていたフレデリックが、右腕を梃子にして、崩れた上体を上げる。彼の白く肉のついた自身に満ちていた顔は、前歯と眼鏡のレンズが割れ、たいそうみすぼらしくなってしまった。
ちかちかと点滅する視界が、徐々に平らになってくるのを待つと、目の前には感動の再会が繰り広げられており、気持ち悪さで嗚咽が出そうになった。
(はてさて、どうやってこの場を逃げ出しますか)
フレデリックは考えた。曲がった眼鏡のブリッジを右手の中指で押さえる。格好は決まっていない。
(扉ーー出口には人魚が二体ーー。まぁ押し退ければなんとかなるか。所詮女だしなぁ。イザベルの馬鹿には、適当な嘘をついてごまかして、そのまま縁を切るとしてーー)
ブリッジに置いた指をすべらせて、丸い顎を撫でる。視線は右に寄せて。
(ああ、こういうことを考えるのは好きだったな。軍師だった時も。いかに捨て駒を利用して、僕ひとりが戦場から助かるかを)
フレデリックは彼に近寄ったものでしかわからないほどに、片側の口角だけをかすかに上げた。折れた歯から滲む赤が、さらに目立った。
彼が腰を上げた時であった。
顔に灰色の影を灯して俯いていたイザベルは、十六夜が双子の方へと目を逸らした時、己の顎に添わされていた刃の上に乗せられていた薄紅の真珠を、長く細い指先でそっとつまむと、顔を天へ向けた。
そして大きく口を開くと、それを放り込んだ。
「あっ!」
ブレンがイザベルの動向に気づいて、目を瞠って声を上げる。
その声と半歩ずれて、イザベルは喉元まで降りてきた真珠を、ごくりと飲み込んだ。
彼女の細く白い首筋に、わずかに浮かんだ喉仏が上下するのを、一同は黙って見つめていた。
イザベルの喉仏の動きが止まる。
静かな沈黙が、刹那、訪れた。
(イザベル……、あなた、人間になる覚悟ができたの?)
ブリュンヒルデはゆるくこぶしを丸めると、胸元に置いた。彼女が身につけていた、ジークフリートからもらった彼の腹巻の感触が、手に優しかった。不安そうに眉を寄せ、瞳を震わす。
天を仰いで停止していたイザベルであったが、次第に彼女の長い紅髪が、扇のように背後へ広がり、わらわらと震え出した。
紅色から、金色の光沢を波打たせ、それが髪の先から後頭部へと上がってゆく。輪唱するような輝きだった。あまりのうつくしさに、一同は彼女を見つめる視線が見惚れるものへと変化していく。
イザベルの髪の輝きがひとしきり治まると、
喉を鳴らしてくぐもった響きを鳴らし、両手で掻きむしるように己の首を掴んだ。
伸ばされた爪の先で薄い皮膚が切られ、赤い鮮血がたらりと滲んでいく。
「ぐぅっ……、ふっうぅっ……うっ」
イザベルはがくり、と顔を下す。前髪と横髪が彼女の顔を覆い、目元が見えなくなった。
ただ、険しく強く噛み締めた歯が、厚いくちびるとくちびるの間から見えている。歯列の隙間から、粘土を持った薄紅色の唾液が流れ、彼女の白い顎を桜に染めていく。形の良い鼻の穴を、ひときわ大きく膨らませると、はぁっと熱い息を漏らした。
「……あぁっ! 脚がっ……」
アルベリヒがくちびるを震わせて、イザベルの尾鰭を指さす。彩豊かだった鱗は、ちかちかと点滅すると、蝋がじっとりと溶け出すかのように、彼女の肌の中に消えていく。代わりにあらわになったのは、薄紅よりもさらに白い彼女の肌だった。
丸みを帯びた腰や尻が、生まれたままの人間の女の姿で、海底の中に重なり、くたびれて座っていた。長くしなやかな、うつくしい脚だった。
真珠色の肌が重なり、宵闇の中に浮かび上がる月の暈のように、輪郭が白くぼやけて見えている。
イザベルが苦しい息を整えると、顔を上げた。涙で濡れた目元は、赤く染まっている。苦しみで青くなったくちびるを開き、はっ、と大きな泡あぶくを海の中へこぼした。ぱちんと爆ぜて消えたそれを、傍かたわらで見ていた十六夜は、死ぬまで覚えているだろうと何故だか感じていた。
海底のクラシックな部屋の真ん中に、脚をくたりと重ねて座る裸体の女がいる光景は、ひどく不可思議だったか、なぜだか神々しさを放っていた。彼女の周りだけが、白く光っているように見える。
ジークフリートはさざなみのように瞳を震わせてイザベルを見つめながら、いつかどこかの美術館で目にしたヴィーナスの絵画を、うすぼんやりと思い返していた。
大きな薄紅の貝殻に乗った、裸のヴィーナス。春の匂いをまとった。
イザベルは肩を上下させ、息を整える。白い肩に紅薔薇色の髪がひと房。ふた房垂れ落ちる。それは雪景色の中、花弁を散らす様に似ていて。
イザベルがしばし停止するとすっと顔を上げて、手の甲で垂れていた涎を拭き取るために、くちもとを拭った。
瞳は吊り上がり、先ほどとは何か違った生気を薄氷のように張っている。火の粉が中に見えるかのようだった。そして、その矛先は、目の前でくずおれていたフレデリックへと、真っ直ぐに向けられていた。
フレデリックはその火の粉をみとめると、殺される、と本能的に感じ取った。
ひぃっと高い声で息を吸い込む。喉の奥が渇いており、咳き込みそうになる。慌てて立ち上がると、足がもつれた。一度ばたんと腹から転び落ちる。太っていたため、腹がクッションとなり、ぽんと軽く跳ねた。その時ばかりは太っていたことが幸いとなった。
フレデリックが跳ねた瞬間、ブリュンヒルデがかるく驚いて、両手をくちもとで重ねた。一度まばたきをする。
金色の髪が、早緑さみどりの光沢を孕んで、ふわりと花が咲くように背で広がる。彼女の桜貝色の爪に反射し、きらりときらめく。
フレデリックは扉へと向かう刹那に、彼女のそのきらめきを瞳の中央に映した。意識して見やったわけではないのだが、その時はその景色を映すのが、彼の中で運命だったのだろう。
扉の前に立っていたふたりの人魚を、乱暴に両腕を使って掻き分ける。
人魚たちが無理矢理腕を掴まれて後ろに引かれたことで、鈍い痛みに顔を顰めて前方へとくずおれる。
あと一歩、いや半歩というところで、扉の外へと飛び出すことができる。
フレデリックはその瞬間、このうえない幸福に全身が包まれてゆくのを感じた。
両腕を大きく広げて、滑空する鳩のような心地になる。指先をわずかにひらひらとさせて、その時笑みを浮かべながら、手首の内側にあった「あるもの」を鳴らした。時計のような複雑な作りをした機械。彼が指先で工具を用いて作った。
微量な周波が、彼の手首を支点にして、やわらかく円を描いて海の中を広がっていく。鈍いさざなみが、人間がみとめることのできぬさざなみが、ゆっくりとした速度で、広がっていく。
(自由だ。私は……自由だ……)
フレデリックはさらに口角を上げて笑みを深めた。すごく美味いものを食べた後のような満足感に満たされてゆく。まつ毛も上向き、眉毛も額の脂肪を押し上げるほどに弧を描いて上げて。
背後からのしかかったイザベルが、彼を倒すのはほんの一瞬だった。
イザベルは最後にわずかに残っていた人魚の名残ーー牙を用いて、フレデリックのやわらかな首筋に噛み付いた。
脂肪のついた彼のそれは、脂身がナイフで切られるように簡単に奥まで牙の侵入を許し、頸動脈を深く抉られ、あざやかな鮮血を吹き出した。先ほど自由を謳歌していた幸福な人間の顔が歪み、地獄の釜に落とされた、苦痛を味わう悪魔の顔へと変貌する。極限まで見開き、血走ったまなこから、真夏の汗のような涙が噴き出す。
「あぁっ……!! やめ、ろっ……! ヤ、メロっ……!!」
びくびくと、陸に打ち上げられた魚のように跳ねて、口をぱくぱくとさせながら、息苦しそうなフレデリックの断末魔が響く。己に噛み付いたイザベルの細い肩や肩甲骨、首筋をばしばしと太い手で叩くが、イザベルはびくともせずに彼に牙を剥け続ける。
ジークフリートたちは唖然とそのさまを見守りながら、イザベルの怨念を感じ取っていた。そこには、男に小馬鹿にされた女の怒りが、信じていたものに裏切られた者の悲しみが、みじめさが、自己嫌悪が、口惜しさが、執念が、熱い泡となって滲み出していた。
イザベルの瞳は油を帯びたかのように金色にぎらつき、つり上がり、ひとつの瞬きもこぼさずに、口から低いうめき声を上げながら、ただフレデリックの皮膚や肉を睨み続ける。
フレデリックは彼女を侮蔑する言葉を吐き続けていたが、やがて口の動きが緩やかになり、最後は大きく口を開けたまま、唇の端に唾のかたまりをつけ、目を見開いてイザベルを凄みのある表情かおをして、死んだ魚のように動かなくなった。
それはほんの一瞬のことであった。
ほんの一瞬の。
人間の生まれてから死ぬまでの歴史の中では、光の速さのごとく。