野良猫少女と保護者ヤクザ

11 君の行きたいところまで

 その日ナオが深夜に珈涼のマンションにやって来たのは、偶然の出来事だった。
 昨日のようにボスに呼ばれたわけでも、誠也と喧嘩して家を出てきたわけでもない。そもそも珈涼の様子を見に来たのではなく、マンションと公園を挟んだ向かいにある、下町に用があった。
 その下町は、元々ナオが住んでいた実家があった。実家は老朽化が進んで、大家も高齢となって管理ができなくなったから、明日取り壊す予定になっていた。
 ナオはそのことに特に思い入れはなく、何か持ち出す予定もなかった。けれどいよいよ取り壊しが明日に迫って、最後に一度くらい見に行こうと思い立ったのだった。
 案の定、廃屋のような実家を見ても何の感慨もわかなかった。そこはもう通り過ぎた過去で、家族の思い出も近所への愛着もみつけられなかった。
 ただ一つ、帰る時に通りかかった近所のアパートで足を止めた。
 まだナオが小学生だった頃、そこで同い年くらいの女の子を見かけたことがあった。母親と二人だけで暮らしていて、何か後ろ暗い事情があるのか、近所付き合いを極力避けていて……そういう意味では、ナオと境遇が似ている子のように思えた。
 ナオはふとその子の名前を思い返して、ぽつりとつぶやく。
「確か……かりょう、だった……?」
 その女の子の名前はとても珍しくて、まるでお姫様だと思った覚えがあるのだ。
 確かな記憶を取り戻すことはできない。近頃何度もその名前を頭で繰り返したせいかもしれない。
 でももしあの女の子が珈涼だとしたら、ナオと彼女はすぐ近くで育ったことになる。
 そういえば珈涼がまだマンションに囲われて間もない頃、この下町を歩くことが多かった。けれど意図的に、今目の前のアパートを通ることを避けていたように思う。
 ……もしかしたらボスにさえ、このアパートの所在を知られたくなかった?
 そう思い当って、ナオはふと現在の珈涼が囲われているマンションに足を向けていた。珈涼が時々歩いた道を、逆に辿るつもりで歩いた。
 ナオがマンションに辿り着いたとき、これはナオが子どもの頃、子どもだけが知っていた抜け道だと気づいた。下町の子どもたちは金銭的に困っている子が多く、風俗業の大人に脅かされることもあった。だから大人に会わずに下町を出入りできる、抜け道が必要だったのだ。
 珈涼は意識的にか、無意識にか、今の境遇から抜け出す機会をうかがっているのではないか。そんなことに考えが及んだとき、ナオは見てしまった。
 ……怪我だらけの体に白いシーツを巻き付けて、裸足のままマンションの外に走り去る珈涼の姿を。
「お待ちください!」
 後から珈涼を呼び止めながら警備員が追って来る。ナオはとっさに公園の木々の合間に身を隠した。
 珈涼が自傷行為に及んでいることは察しがついていた。けれど一瞬見た珈涼の体には、想像以上のおびただしい包帯の跡が見えた。ひどく痩せて、走るのだって満足にできそうもなかった。
 けれど珈涼はその弱った体で、迷わず公園の暗がりに足を進めていった。たぶんマンションの上から地形を把握していたのだろう。ずっとこの近辺を見張っていたナオでなければ、すぐに珈涼を見失っていたに違いない。
 幸い、ナオはまだ珈涼の姿を目で追うことができた。ただ警備員も応援を呼んだようで、みつかるのは時間の問題に思えた。
 夜の静寂の中、ナオは自分の呼吸の音を大きく感じた。
 ……どうする。今自分が考えていることは、ボスを裏切ることになるかもしれない。自問して、こめかみの辺りに汗がにじむのを感じた。
 でもナオは、自分の意思で、自分の足で走り出した珈涼に、瞬間的に重なる気持ちを抱いた。今までほとんど自分を見せなかった珈涼が、怪我を負った身でもどこかに行こうとしていることに、強い共感を寄せた。
 ……行くんだ、自分の行きたいところまで。ナオはそう願って、滑るように木々の間を動いた。
 公園の闇に悪戦苦闘している警備員に近づいて、ナオは下町とは反対方向を指す。
「あっちだ。繁華街の方に抜けた!」
 警備員も気が動転しているところ、馴染みのナオが言った内容に反応してしまったのだろう。
 繁華街の方に走っていく警備員を見届けて、ナオはそっと下町の方に足を向ける。
 ナオの思ったとおり、珈涼は下町の子どもだけの抜け道を辿っていた。ナオはそれを気づかれないように尾行しながら、ポケットの中で誠也にメッセージを打つ。
――バイクで迎えに来て。自分の現在地。すぐ。
 その間に、珈涼は彼女が以前住んでいたアパートに辿り着いていた。珈涼は電気メーターの後ろから合い鍵を取り出すと、アパートの中に入る。
 たぶんこれから着替えて、彼女はどこかに行く。それまでにナオの携帯のGPSで、誠也をここに呼ぶ。一種の賭けのようだったが、誠也ならきっと果たしてくれる気がした。
 一分が経ち、二分が経ち……十分を回る頃、アパートの前にタクシーがやって来た。
 アパートから着替えた珈涼が出てくる。誠也はまだ来ない。
 ここで珈涼を見失ったら、自分は珈涼を守れない。ナオは爆発しそうな鼓動を抱えながら、物陰で珈涼を見ていた。
 タクシーが走り去る前、バイクの走行音が近づいて来た。
「ナオ!」
 振り向いたら誠也がバイクに乗って走って来るのが見えた。
 来てくれた。ナオは泣きたい思いになりながら、飛びつくように誠也を迎える。
 ナオは誠也の後ろに乗りながら、走っていくタクシーを指さして叫ぶ。
「後で何とでも謝る! 今はあのタクシーを追って!」
 誠也はナオを、怒ることも責めることもしなかった。
 ただ誠也はナオにヘルメットを被せて、うなずいて告げた。
「おう。後でたっぷり叱ってやる。……しっかり捕まってろよ」
 そう言って誠也はナオを後ろに乗せて、夜の街を疾走したのだった。
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