野良猫少女と保護者ヤクザ
2 自分のボスは自分で選ぶ
それから三年が過ぎて、ナオはオフィスで今日の帳簿を締めたところだった。
表向き金融業を営むこのオフィスは、裏社会につながっている。けれどナオが目を光らせている帳簿は、無いとは言わないものの概ね真っ当な金で埋め尽くされている。
高校に行きながらヤクザの事務所でバイトする。お綺麗な感性では不良だろうが、ナオとしては真っ当に生きているつもりだ。なにせ自分で稼いだ金で自分の生活をまかなっていて、性も売っていないのだから、目指したところには着地している。
見た目だって大人に近づいていると思っている。普段はざっくりしたパーカーとジーンズ姿だが、時々裏町にも出るときは黒服でタイも締める。相変わらず痩せていて小柄ではあるが、目つきは油断なく周囲を見据えている。自分から暴力を振るうことはないが、荒事に直面しても器用にかわして危機を潜り抜けてきた。
帳簿を畳んだナオは、声をかけられて憮然とした顔をする。
「ナオ、終わったか? 今日の晩飯何がいい?」
そんなナオの目先の悩みは、いつまで経ってもナオにコンロを使わせてくれない誠也の過保護だ。
誠也はここの事務所の責任者だ。けれど家ではナオの受験勉強にさえ付き合って高校に入れて、無事高校を卒業できる見込みにしてくれた。恥ずかしくて口にはしないものの感謝してもしきれない。
でも、いつまで経っても自分をカップ麺しか作れない子どもだと思ってる。ナオはじろりと誠也を見上げて文句をつけた。
「今日こそ自分が作る。できるって、チャーハンくらいなら」
「油跳ねるだろ。怖いもんを無理すんなって。野菜切るくらいにしとけ」
確かに誠也のアパートに来てまもなく、初めて使うフライパンの油跳ねに驚いて半泣きになったときがあった。
でもそんなの三年も前のことだし、怖いって言ってもやくざの事務所で働くことに比べたら大したことはないはずだし……確かに、まだ油跳ねはちょっと怖いけど。
誠也はそんなナオの目の動きを見て、くっと笑う。
「わかりやすいやつ。そんなとこまで大人にこだわるのな、お前は」
誠也はぽんぽんとナオの頭を叩いて、まだにらんでいるナオをからかっていた。
誠也のこれは、たぶん野良猫を可愛がるようなものなんだろうな。ナオはそう思いながら、最近ちょっとだけそれに不満を持っている。
誠也が理想的すぎる飼い主であるせいだ。温かい懐に入れて、惜しみなく可愛がってくれたから。
……だから別にいい。今日も自分は稼いだ金で生きてきた。その終わりに誠也と一緒にごはんを食べて寝る。何か文句あるか、と自分に投げ返す。
けれど少し不満を持っているもう一人の自分は何とも言わない。ナオはいつものように、どこか釈然としないまま帰宅の準備をする。
誠也のボスがやって来たのは、そんなときだった。
「仁科、人を貸してほしい」
時々事務所に現れるボスは、月岡という。組の中では若頭補佐に当たる、生粋の極道だ。まだ二十代後半の、知的で落ち着いた物腰の男性で、ナオのような下っ端にも慈愛をもって接してくれる。けれど仕事はしっかりと厳しくやるから、ナオは尊敬していた。
誠也は茶を出そうとしたナオを制止して、席を外すようにそっと目で合図をする。ナオはうなずいて、部屋を出て行こうとした。
背中に誠也の声が聞こえて、その声音は少し強張っていた。
「あまり明るくない話だとお見受けしました」
「私も人選が難しいとは思っている。だからお前に持ちかけた」
月岡は誠也のことを信頼していて、二人で飲むこともあるらしい。けれど奇妙なのは、誠也の方は月岡から距離を置きたがっているように見えることだった。
ボスの美男ぶりに腹を立てているとも思えないし。このときまで、ナオは他人事のように通り過ぎようとしていた。ナオにとって月岡は雲の上の人で、まさか次の瞬間に自分が呼び止められるとは思っていなかった。
「……ナオと言ったな」
ナオはそのとき、一瞬だけ誠也に共感した。月岡に呼ばれたとき、ナオの背筋に走ったのは得体の知れない緊張だった。
誠也は顔色を変えて、月岡の言葉を遮ろうとする。
「ボス、待ってください」
「年は十八。実戦経験は少ないが、機転が利いて、この世界でも十分立ち回っているようだ。評価できる」
「ナオはまだ子どもです!」
月岡は誠也の制止の声が聞こえているだろうに、静かにナオに声をかけた。
「ナオ、これから私が話す仕事は危険がある。ただし対価は弾む」
ナオは無意識に誠也を見ていた。誠也は月岡の前ということも構わず、明確に首を横に振った。
けれどナオは、誠也と一緒にボスの下で働いているという自意識が合った。そのボスが命じるのだから、引き受ける理由があった。
……少しだけ、誠也に認められたいと思った。野良猫を可愛がるように大事にするんじゃなくて、一人の存在だと見てほしかった。
ナオは戸口まで行き掛かっていたが、戻って来て月岡に言う。
「自分にできることなら」
「私はできると信じている。だから」
月岡はナオをじっと見据えて低くその言葉を告げた。
「私の直属の部下になって、ある少女の護衛をしてほしい。……決して本人に、気づかれないように」
……もし失敗したら、自分はどうなるのだろう?
ナオはこの世界に初めて入ったときのような緊張を感じながら、ごくりと息を呑んだのだった。
表向き金融業を営むこのオフィスは、裏社会につながっている。けれどナオが目を光らせている帳簿は、無いとは言わないものの概ね真っ当な金で埋め尽くされている。
高校に行きながらヤクザの事務所でバイトする。お綺麗な感性では不良だろうが、ナオとしては真っ当に生きているつもりだ。なにせ自分で稼いだ金で自分の生活をまかなっていて、性も売っていないのだから、目指したところには着地している。
見た目だって大人に近づいていると思っている。普段はざっくりしたパーカーとジーンズ姿だが、時々裏町にも出るときは黒服でタイも締める。相変わらず痩せていて小柄ではあるが、目つきは油断なく周囲を見据えている。自分から暴力を振るうことはないが、荒事に直面しても器用にかわして危機を潜り抜けてきた。
帳簿を畳んだナオは、声をかけられて憮然とした顔をする。
「ナオ、終わったか? 今日の晩飯何がいい?」
そんなナオの目先の悩みは、いつまで経ってもナオにコンロを使わせてくれない誠也の過保護だ。
誠也はここの事務所の責任者だ。けれど家ではナオの受験勉強にさえ付き合って高校に入れて、無事高校を卒業できる見込みにしてくれた。恥ずかしくて口にはしないものの感謝してもしきれない。
でも、いつまで経っても自分をカップ麺しか作れない子どもだと思ってる。ナオはじろりと誠也を見上げて文句をつけた。
「今日こそ自分が作る。できるって、チャーハンくらいなら」
「油跳ねるだろ。怖いもんを無理すんなって。野菜切るくらいにしとけ」
確かに誠也のアパートに来てまもなく、初めて使うフライパンの油跳ねに驚いて半泣きになったときがあった。
でもそんなの三年も前のことだし、怖いって言ってもやくざの事務所で働くことに比べたら大したことはないはずだし……確かに、まだ油跳ねはちょっと怖いけど。
誠也はそんなナオの目の動きを見て、くっと笑う。
「わかりやすいやつ。そんなとこまで大人にこだわるのな、お前は」
誠也はぽんぽんとナオの頭を叩いて、まだにらんでいるナオをからかっていた。
誠也のこれは、たぶん野良猫を可愛がるようなものなんだろうな。ナオはそう思いながら、最近ちょっとだけそれに不満を持っている。
誠也が理想的すぎる飼い主であるせいだ。温かい懐に入れて、惜しみなく可愛がってくれたから。
……だから別にいい。今日も自分は稼いだ金で生きてきた。その終わりに誠也と一緒にごはんを食べて寝る。何か文句あるか、と自分に投げ返す。
けれど少し不満を持っているもう一人の自分は何とも言わない。ナオはいつものように、どこか釈然としないまま帰宅の準備をする。
誠也のボスがやって来たのは、そんなときだった。
「仁科、人を貸してほしい」
時々事務所に現れるボスは、月岡という。組の中では若頭補佐に当たる、生粋の極道だ。まだ二十代後半の、知的で落ち着いた物腰の男性で、ナオのような下っ端にも慈愛をもって接してくれる。けれど仕事はしっかりと厳しくやるから、ナオは尊敬していた。
誠也は茶を出そうとしたナオを制止して、席を外すようにそっと目で合図をする。ナオはうなずいて、部屋を出て行こうとした。
背中に誠也の声が聞こえて、その声音は少し強張っていた。
「あまり明るくない話だとお見受けしました」
「私も人選が難しいとは思っている。だからお前に持ちかけた」
月岡は誠也のことを信頼していて、二人で飲むこともあるらしい。けれど奇妙なのは、誠也の方は月岡から距離を置きたがっているように見えることだった。
ボスの美男ぶりに腹を立てているとも思えないし。このときまで、ナオは他人事のように通り過ぎようとしていた。ナオにとって月岡は雲の上の人で、まさか次の瞬間に自分が呼び止められるとは思っていなかった。
「……ナオと言ったな」
ナオはそのとき、一瞬だけ誠也に共感した。月岡に呼ばれたとき、ナオの背筋に走ったのは得体の知れない緊張だった。
誠也は顔色を変えて、月岡の言葉を遮ろうとする。
「ボス、待ってください」
「年は十八。実戦経験は少ないが、機転が利いて、この世界でも十分立ち回っているようだ。評価できる」
「ナオはまだ子どもです!」
月岡は誠也の制止の声が聞こえているだろうに、静かにナオに声をかけた。
「ナオ、これから私が話す仕事は危険がある。ただし対価は弾む」
ナオは無意識に誠也を見ていた。誠也は月岡の前ということも構わず、明確に首を横に振った。
けれどナオは、誠也と一緒にボスの下で働いているという自意識が合った。そのボスが命じるのだから、引き受ける理由があった。
……少しだけ、誠也に認められたいと思った。野良猫を可愛がるように大事にするんじゃなくて、一人の存在だと見てほしかった。
ナオは戸口まで行き掛かっていたが、戻って来て月岡に言う。
「自分にできることなら」
「私はできると信じている。だから」
月岡はナオをじっと見据えて低くその言葉を告げた。
「私の直属の部下になって、ある少女の護衛をしてほしい。……決して本人に、気づかれないように」
……もし失敗したら、自分はどうなるのだろう?
ナオはこの世界に初めて入ったときのような緊張を感じながら、ごくりと息を呑んだのだった。