野良猫少女と保護者ヤクザ
3 この世界は明るくも暗くもない
ナオがボスに護衛を命じられた対象は、珈涼という少女だった。
珈涼はナオと同じ十八歳で、組長の愛人の子らしい。色白で華奢な、柔い雰囲気を持つ綺麗な少女だった。
それでこれが重要なことだが、ボスである月岡はひどく珈涼に入れ込んでいるようだった。珈涼を警備員と看護師の完備したマンションに囲って、ほぼ毎日手土産の類を携えて訪れていた。
今夜も月岡は珈涼のマンションにやって来て、それを見届けたらナオの今日の仕事は終わり。ナオは夕方の六時という、健全な時間帯に仕事から解放される。
「どうだ、お嬢さんの警護」
ナオがいつものようにアパートに帰ってサラダだけ作っていると、誠也がおかずを買って遅れて帰って来る。開口一番にいつもナオの仕事のことを訊いてくるので、ナオは一拍置いてから答える。
「……楽かな。夏休みなのに、お嬢さんはほとんど外出しないから。外に出ても、近所の下町をちょっと歩くくらい。これで給金もらっていていいのかと思うよ」
ボスはナオに、誠也にだけはこの仕事のことを話していいと言った。でもナオが話す口調が軽くないことは、仕事を始めてすぐ誠也に伝わった。
誠也はおかずをきちんと皿に分けて、ナオの前に置きながら問う。
「お嬢さんはその後、産婦人科に駆けこんだりしてないか?」
ナオは上目遣いでテーブルごしに誠也を見て、少し黙った。
ナオが護衛を始めた翌日、珈涼が産婦人科に駆け込む事件があった。ナオが初めてボスに直電話をかけた機会でもあった。
ナオは誠也から目を逸らしてぼそりと言う。
「……その後は、してない。でもボス、あの子に手を出すのはやめないんだと思う。あの子がボスのこと、怖がってても」
ナオが「お嬢さん」ではなく、「あの子」と言ってしまうときは、感傷的な気持ちが混ざる。
ナオは自分が女の子である感覚は薄い。周りが男ばかりで、それに馴染もうとしてきたからだ。
でもナオの中には女の子の気持ちもあって、それが珈涼に同調するときがある。一回りも年上のやくざの男に振り回されるのを恐れる気持ちは、周囲の男より親近感がわいている実感がある。
誠也はそんなナオの複雑な内心を察しているようで、あえて手短に言った。
「ま、食えや。半分はお前が稼いだ飯だぞ」
「うん……いただきます」
ナオは手を合わせてから、しばらく黙々と夕食を取った。
ナオと誠也の夕食は、家族の団らんと表現されるような、明るい会話にあふれたものじゃない。でもお互いの食事の進み具合とか、表情とか、そういうものを見ていないようで見ていて、時には労わりを投げかける。
「ポン酢取って」
「おう。からしも要るか?」
「ん」
ナオがまだ実家にいた頃、ポン酢のある家はちょっとぜいたくな気がしていた。今は絶対必要な調味料じゃないのに、あると幸せな気がすると思って、誠也と二人で選んでいた。
ふと誠也がこちらを見ているのに気づいて、ナオは声をかける。
「誠也、ビール持ってこよっか?」
「いい。後でお前の勉強見てやんなきゃいけねぇから」
「大丈夫だよ。もう後は卒業するだけなんだって」
ナオは高校卒業後に就職する予定だが、誠也はまだナオを大学に行かせるつもりでいるらしい。ナオは誠也に言われて一応受験勉強しているものの、そんなに学歴って大事かなと思っていた。
誠也はそんなナオの内心とは裏腹に、たしなめるように言う。
「仕事はそのうちボスに言って打ち切らせてもらうから、お前は勉強をちゃんと続けろよ。……お前はいずれ、この世界から出て行くんだから」
ナオはそれを聞きながら、自分はどちらでもいいのに、と思う。
この世界が恐ろしいものだということは、おおよそ理解してきたつもりだ。でもこの世界から出て行くときは、誠也の家から出て行くときでもある。
……ここ、そんなに居心地悪くないんだよ。誠也にそう甘えたくなるときがある。
ナオは一つ息をついて、誠也を見上げながら言った。
「自分は、半分もうこの世界に浸かっちゃってるけどさ」
ナオはふいに、仕事の愚痴らしい言葉をこぼす。
「ボスのことは尊敬してる。お嬢さんは綺麗で優しそうな子だから、好きになるのもわかる。……でもああいう子をこの世界に巻き込むのは、あんまり良くないよね」
誠也はそれに、そうだなとも、違うとも言わなかった。
誠也は代わりに、ぽんとナオの頭を叩いて言った。
「俺はお前が巻き込まれなきゃ、それでいい」
ナオはそれを聞いてくしゃりと顔を歪めた。子ども扱いしないでよと口の中でつぶやいて、誠也をじろりと見ただけだった。
珈涼はナオと同じ十八歳で、組長の愛人の子らしい。色白で華奢な、柔い雰囲気を持つ綺麗な少女だった。
それでこれが重要なことだが、ボスである月岡はひどく珈涼に入れ込んでいるようだった。珈涼を警備員と看護師の完備したマンションに囲って、ほぼ毎日手土産の類を携えて訪れていた。
今夜も月岡は珈涼のマンションにやって来て、それを見届けたらナオの今日の仕事は終わり。ナオは夕方の六時という、健全な時間帯に仕事から解放される。
「どうだ、お嬢さんの警護」
ナオがいつものようにアパートに帰ってサラダだけ作っていると、誠也がおかずを買って遅れて帰って来る。開口一番にいつもナオの仕事のことを訊いてくるので、ナオは一拍置いてから答える。
「……楽かな。夏休みなのに、お嬢さんはほとんど外出しないから。外に出ても、近所の下町をちょっと歩くくらい。これで給金もらっていていいのかと思うよ」
ボスはナオに、誠也にだけはこの仕事のことを話していいと言った。でもナオが話す口調が軽くないことは、仕事を始めてすぐ誠也に伝わった。
誠也はおかずをきちんと皿に分けて、ナオの前に置きながら問う。
「お嬢さんはその後、産婦人科に駆けこんだりしてないか?」
ナオは上目遣いでテーブルごしに誠也を見て、少し黙った。
ナオが護衛を始めた翌日、珈涼が産婦人科に駆け込む事件があった。ナオが初めてボスに直電話をかけた機会でもあった。
ナオは誠也から目を逸らしてぼそりと言う。
「……その後は、してない。でもボス、あの子に手を出すのはやめないんだと思う。あの子がボスのこと、怖がってても」
ナオが「お嬢さん」ではなく、「あの子」と言ってしまうときは、感傷的な気持ちが混ざる。
ナオは自分が女の子である感覚は薄い。周りが男ばかりで、それに馴染もうとしてきたからだ。
でもナオの中には女の子の気持ちもあって、それが珈涼に同調するときがある。一回りも年上のやくざの男に振り回されるのを恐れる気持ちは、周囲の男より親近感がわいている実感がある。
誠也はそんなナオの複雑な内心を察しているようで、あえて手短に言った。
「ま、食えや。半分はお前が稼いだ飯だぞ」
「うん……いただきます」
ナオは手を合わせてから、しばらく黙々と夕食を取った。
ナオと誠也の夕食は、家族の団らんと表現されるような、明るい会話にあふれたものじゃない。でもお互いの食事の進み具合とか、表情とか、そういうものを見ていないようで見ていて、時には労わりを投げかける。
「ポン酢取って」
「おう。からしも要るか?」
「ん」
ナオがまだ実家にいた頃、ポン酢のある家はちょっとぜいたくな気がしていた。今は絶対必要な調味料じゃないのに、あると幸せな気がすると思って、誠也と二人で選んでいた。
ふと誠也がこちらを見ているのに気づいて、ナオは声をかける。
「誠也、ビール持ってこよっか?」
「いい。後でお前の勉強見てやんなきゃいけねぇから」
「大丈夫だよ。もう後は卒業するだけなんだって」
ナオは高校卒業後に就職する予定だが、誠也はまだナオを大学に行かせるつもりでいるらしい。ナオは誠也に言われて一応受験勉強しているものの、そんなに学歴って大事かなと思っていた。
誠也はそんなナオの内心とは裏腹に、たしなめるように言う。
「仕事はそのうちボスに言って打ち切らせてもらうから、お前は勉強をちゃんと続けろよ。……お前はいずれ、この世界から出て行くんだから」
ナオはそれを聞きながら、自分はどちらでもいいのに、と思う。
この世界が恐ろしいものだということは、おおよそ理解してきたつもりだ。でもこの世界から出て行くときは、誠也の家から出て行くときでもある。
……ここ、そんなに居心地悪くないんだよ。誠也にそう甘えたくなるときがある。
ナオは一つ息をついて、誠也を見上げながら言った。
「自分は、半分もうこの世界に浸かっちゃってるけどさ」
ナオはふいに、仕事の愚痴らしい言葉をこぼす。
「ボスのことは尊敬してる。お嬢さんは綺麗で優しそうな子だから、好きになるのもわかる。……でもああいう子をこの世界に巻き込むのは、あんまり良くないよね」
誠也はそれに、そうだなとも、違うとも言わなかった。
誠也は代わりに、ぽんとナオの頭を叩いて言った。
「俺はお前が巻き込まれなきゃ、それでいい」
ナオはそれを聞いてくしゃりと顔を歪めた。子ども扱いしないでよと口の中でつぶやいて、誠也をじろりと見ただけだった。