野良猫少女と保護者ヤクザ

5 失くせないものは少しの良心

 ナオが警護する「お嬢さん」、珈涼がバイトを始めたのは、まもなくのことだった。
 場所は、住処から電車で一駅と十分歩いたところにある喫茶店。ボスが自ら珈涼に紹介したらしい。ボスの珈涼への入れ込み様から見るに、珈涼が金銭に困っているとは思えなかったから、たぶん気晴らしにでも勧めたのだろう。
 ナオはそれもいいと思った。珈涼はほとんど外出せず、およそ友達らしい人間と遊んでいる気配もない。行動範囲や交友関係が狭いのは警護対象としてはありがたかったが、その年頃にしては欲がなさすぎるんじゃないかと少し心配していた。
 ただ、珈涼が喫茶店でバイトを始めたからといって、ナオの仕事が変わるわけではなかった。ナオは珈涼本人に決して気づかれないよう、彼女を危険から遠ざける。
 バイトを始めてからも、珈涼は警護される側として、優良すぎるくらいに困ることをしない。時間通りに喫茶店にやって来て、時間中はきちんとバイトに励み、終わったら寄り道もせずに与えられたマンションに帰って行く。
「あ、笑ってる」
 けれどバイトを始めて、少しだけ変化があった。ナオが向かいのテナントから様子をうかがっていると、珈涼がマスターに笑顔を見せていた。
 はにかんで目を和らげた、かわいい笑顔。話の内容はここからは聞こえないが、その表情はナオの心に焼き付いた。
「初めて見た……」
 思えば珈涼は、ボスの月岡と一緒にいるときもそんな顔を見せたことがなかった。
 ふとナオは、ボスが自分との連絡用に珈涼へ携帯電話を持たせたことを思い出した。珈涼はそれを忠実に守り、本当にボスとの連絡にしか携帯電話を使っていないとも。
 生活の隅々までも手の中に収めて、籠の中に入れておくように自分の管理に置く。
 ……そういうのって、束縛っていうより支配って言うんじゃないかな。
 ボスに向けたのではない珈涼の笑顔を見たとき、そんなことを思った。
 ナオはボスの命令でこの仕事をしている。だから珈涼の立場に肩入れすべきではないとわかっているのに、ナオは彼女の置かれた状況を哀しく思った。
 ボスのように地位も金もある人間なら、愛人が変わることなどよくある。だからナオは、できるなら早くボスが心変わりして、あの繊細で大人しい少女を解放してくれるように願った。
 そんな折、ナオが珈涼を警護しているテナントにボスがやって来た。
「ナオ、変わりないか?」
 元々雑貨店を営むこのテナントはボスの傘下の店だったが、ボス自らが真昼に、こんな小さな店にやって来る理由はなかった。
 ナオにはボスが珈涼の様子を見に来たのだと、すぐにわかった。けれどテナントにいた組の縁の者たちは、まだ年若いナオにボス自らが声をかけたのを、驚いた目で見ていた。
 ナオが珈涼の警護を任されているのは、限られた人間しか知らない。同じ十八歳の少女として、ナオが珈涼の行く先々のどんなところにでもついて行けるように、ボスはナオに正規の組員に近い立場さえ与えたのだった。
 ナオは窓辺に立って、丁寧にボスへ状況を説明する。
「変わりありません。お嬢さんは楽しそうにバイトに励んでいらっしゃいます。体調も良さそうです」
 ボスはその言葉にうなずいたが、窓の外を見る目は少し細められていた。
「前より客が増えたな」
「……マスター一人だけのときより人手が増えて、回転がよくなったようです」
 ナオはそう答えたものの、ボスに気づかれてしまったかと内心ひやりとした。
 珈涼がバイトを始めてから、確かに客が増えた。それも……珈涼を外に誘う男性客が増えたのだと、ボスにはまだ伝えることができていない。
 ボスはその涼しげで鋭い目でちらとナオを見た。ナオは勝手に背筋が緊張したが、幸いボスからのそれ以上の追及はなかった。
「何か変わったことがあったら報告するように」
 ボスはもう一度窓ごしに珈涼を見ると、ナオにそう言い残してテナントを出て行った。
 ナオは一息ついて警護を再開したが、少しの後に顔をしかめた。
 足早にテナントを出ると、喫茶店の駐車場に先ほどから立っている男に近づく。
「ねえ、お兄さん。……さっき、珈涼さんの手に触れたね?」
 ナオは男の後ろから近づいて、ひやりとした手を男の肩に乗せる。
 振り返った男は、そこにナオの不吉な笑顔を見た。夜の世界で培ったハッタリを発揮して、ナオの小柄な体躯でも奇妙な威圧感が見えていた。
 ぞくりと身を引こうとした男の肩をしっかりと掴んだまま、ナオは猫なで声で続ける。
「あの子は……そうだな、お姫様なんだ。お姫様に触れちゃいけないのはわかるよね? もちろん食事に誘うのもなしだ。自分たちとは世界が違うんだよ」
「子どもが、何を……」
 男が怯えたようにつぶやく。ナオはぐっと男の肩を握りしめると、声を低めて凄んだ。
「何も言わずに、自分の世界に帰れ。……次は手を切り落とされるぞ」
 男は耐えられなくなったようにナオを振り払って、どこかへ逃げうせた。
 ナオもさっと身をひるがえして、喫茶店から見えないところまで移動する。
 いくらナオが未然に露払いをしても、いずれボスは珈涼に言い寄る男たちに気づく。ボスは聡い人で、そして昼間でも珈涼の様子を見に来るくらいに、彼女に入れ込んでいるのだから。
 でもナオはもう少しだけ、珈涼のはにかんだような笑顔が見ていたかった。珈涼がボスといるときいつもまとっている緊張で、彼女の柔い雰囲気を曇らせたくなかった。
 そのためにナオができることは少ししかないけれど。ナオの抱く少しの良心は、ナオにとって大切なものなのだった。
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