野良猫少女と保護者ヤクザ
9 思いは誰にも押しつぶせない
ナオが初夏に受けた資格試験の合格通知を受け取ったのは、それからまもなくのことだった。
ナオは誠也にだけ結果を教えたはずだったが、誠也が事務所の兄貴分たちに話してしまったらしい。兄貴分たちはナオの頭を代わる代わる撫でて、大きな声で笑った。
「隠れてそんなことしやがってたとは! 全然勉強してる様子なかっただろ?」
「勉強できる奴だとは知ってたが、本当にやっちまうとはな」
ナオは可愛げのない顔でじとっと兄貴分たちを見上げる。
「だって誠也が勧めたから。自分、すぐ就職するつもりだったし」
「仁科の兄貴は将来役に立つと思ったんだろ。今のうちに資格を取っておけば、大学在学中にもっと自由が出来るから」
「……そうなんだ」
ナオは誠也の意図を今になって理解して、むずかゆい思いで頬をかいた。
兄貴分たちは感心したように続ける。
「それな、高校在学中に受かったのはボスか仁科の兄貴しか知らねぇぞ。仁科の兄貴が否定してなきゃ、幹部コースに誘われてるかと思ったさ」
ナオは二人に比べてもらえたことを素直にうれしいと思いながら、自分は今までどれだけ誠也に庇われてきたのだろうと考える。
誠也は初めて事務所にナオを連れてきたとき、事務所連中を集めて言ってくれた。
――ナオはうちで面倒を見る。何か問題が起こったら責任は俺が取る。
誠也の庇護がなかったらきっと、可愛げのない、薄汚い子どもなど兄貴分たちにやっかまれていたに違いない。
――俺はお前がここを出ても、ちゃんと生きていけるすべを教えてやるから。
そのくせ誠也は、将来に渡ってナオがこの世界で生きていくのは望んでいなかった。普通の子どもが経験するようなこと、たとえば高校に行くことだとか、温泉に遊びに行くことだとかも経験させてくれて、ナオは実家にいた頃よりずっと健全な毎日を送った。
中学三年生のあの頃、ナオは自分一人で生きていければそれでいいと思っていた。でも今はそれじゃ足りない。誠也に今までの借りを返して、誠也みたいに働いて……それとは全然方向性が違うけど、珈涼の護衛の仕事だって、立派にやり遂げたいと思っている。
自分は誠也のせいでぜいたくを知って、誠也のおかげで自分の歩いていく道を少し、明るいものだと思えるようになった。
自分はこれでいい。でも……と自分の中の考えに落ちていたとき、誠也に声をかけられた。
「ナオ、祝いに美味いもんを食わせるって約束だったろ。何でもいいぞ。今日はどこでも連れていってやる」
喜色に満ちた誠也の声でナオは我に返った。
今日のナオと誠也は事務所を早くに上がっていて、これから少し遠い場所へ外食に出かけることもできそうだった。
見上げた誠也は、目の端に笑いじわを作って屈託なく笑っていた。普段、黒服に身を包んで前を見据える誠也は精悍で立派な大人の男なのに、家に帰るとこういう緩んだ顔もする。
ナオはちょっと目を逸らしながら誠也に言った。
「……場所はどこでもいいから。バイクの後ろに乗せて、どっか連れてって」
ナオは照れくさくなって、どうして自分はこういうときこんな可愛げがない顔しかできないんだろうと苦く思った。でも誠也の前でそれ以外の顔なんて持っていなくて、そのままの憮然とした顔だった。
誠也はそういうとき少し不思議そうだが、ふっと笑って返した。
「お前、なんでか俺の後ろに乗りたがるのな。……いいよ、連れてってやる」
そう言って、誠也はナオをバイクの後ろに乗せて走ってくれた。
夜の街灯りの中、誠也の体に腕を回して、風を感じるこの瞬間がナオは好きだった。日中に感じた苦い思いも自分が子どもだから克服できない悔しさも、一瞬全部を忘れる。
バイクを自分で走らせるのは危ないからと、誠也はなかなか免許を取らせてくれない。本当は誠也とツーリングしたいのに、誠也の過保護が邪魔をする。
着いたところは港町の倉庫街で、今日は縁日が開かれていた。赤い提灯と出店でにぎわう中、誠也はナオにたこ焼きだの、かき氷だの、何でもかんでもおごってくれた。
「なんだ?」
誠也に問いかけられて、ナオはふと思う。自分がもっと洒落た女の子だったら、夜景の見えるレストランでディナーがしたいとか、言ったのだろうか。
「何でもない。……たこ焼きうまいなって思っただけ」
でも自分はやくざの事務所でバイトしてる、男か女かわからないような子どもだ。それで自分が一緒に飯を食べたいと思うのは、小奇麗なイケメンじゃなくて、お人よしで面倒見のいい、この保護者じみたやくざなのだ。
ナオは流れていく人波の中で、ぼそりと言った。
「……ありがと。ちょっと落ち込んでたんだ」
今日ナオが早くに帰ってきたのは、心の痛む光景を見たからだ。
昼間、ボスは久しぶりに珈涼を外に連れ出して、映画館や指輪店や高級ブティックや、それこそ女の子が憧れるようなデートコースを巡った。
でもその最後にボスは彼女を写真店に連れて行って、そこで証拠のような写真を撮らせた後、珈涼に結婚の話を持ち出した。
たぶん珈涼はしばらく部屋に閉じ込められていて、体調が悪かったのだろう。結婚の話の少し後、真っ青になって倒れてしまった。
ナオが途切れがちにその話を誠也にすると、誠也は黙って聞いてくれた。
ナオは話を終えた後、誠也から目を逸らしたまま呆然としたように言った。
「自分、あの子が死んじゃったかと思ったんだ……」
そんなことと誠也は笑わなかった。ナオが感じた悲痛な気持ちを、そのまま聞いてくれた。
ナオは少しにじんだ目で誠也を見上げて、誠也に言っても仕方ないと思いながら食って掛かる。
「自分はあの子が幸せだとは、どうしても思えない。あの子の自由はどこにある? 自分だったらあんな束縛、死んでもごめんだ……!」
「……ナオ」
ふいに誠也はナオの両肩に手を置いて、ナオを見下ろした。
ナオが震えながら肩を上下させていると、誠也はナオより一回り大人の落ち着きで言う。
「お前の感情はお前のものだ。他の誰だって押しつぶせない。でもお嬢さんだって、お嬢さんなりの思いを持ってると俺は思う。それを俺たちが知るのは難しいが……」
誠也は一度言葉を切って、そっとナオに問いかけた。
「お前はどうしたい? お前がつらいなら、もうお前から一切この仕事を断ち切ってやる。俺が責任を持ってボスと交渉する」
「……自分は」
ナオは迷いの中で誠也を見上げた。
この仕事を終えたい。張り裂けそうな思いをもって珈涼をみつめるのをやめたいと、誠也に訴えたい気持ちもあった。
でもずっと珈涼を見ていて知ったこともあった。ボスの愛情に押しつぶされそうになりながら、ボスをみつめて何か言いよどんでいる珈涼の横顔を思った。二人の関係は、決してボスの一方的な思いではない気がしていた。
ナオは首を横に振って、落ち着きを取り戻して誠也を見る。
「大丈夫。……自分はあの子を見ているって、決めてるから」
誠也はナオを見返して、くしゃっと顔を歪めた。
心配でたまらない。誠也のそういう顔を、ナオはもう何度見たことだろう。
でもナオは誠也の腕を引っ張って、子どもがわがままを言う風に告げた。
「さ、行こうよ。自分はお腹いっぱいだけど、誠也はまだ食べられるだろ?」
自分にはそういうやり方しかできないけど、それが自分なのだから恥じたりなんてしない。
縁日のにぎわいはこれから。夏の宵は騒がしく更けていく。
隣を歩く誠也のぬくもりを頼りに、ナオはまだ前を向いて歩いていく。
ナオは誠也にだけ結果を教えたはずだったが、誠也が事務所の兄貴分たちに話してしまったらしい。兄貴分たちはナオの頭を代わる代わる撫でて、大きな声で笑った。
「隠れてそんなことしやがってたとは! 全然勉強してる様子なかっただろ?」
「勉強できる奴だとは知ってたが、本当にやっちまうとはな」
ナオは可愛げのない顔でじとっと兄貴分たちを見上げる。
「だって誠也が勧めたから。自分、すぐ就職するつもりだったし」
「仁科の兄貴は将来役に立つと思ったんだろ。今のうちに資格を取っておけば、大学在学中にもっと自由が出来るから」
「……そうなんだ」
ナオは誠也の意図を今になって理解して、むずかゆい思いで頬をかいた。
兄貴分たちは感心したように続ける。
「それな、高校在学中に受かったのはボスか仁科の兄貴しか知らねぇぞ。仁科の兄貴が否定してなきゃ、幹部コースに誘われてるかと思ったさ」
ナオは二人に比べてもらえたことを素直にうれしいと思いながら、自分は今までどれだけ誠也に庇われてきたのだろうと考える。
誠也は初めて事務所にナオを連れてきたとき、事務所連中を集めて言ってくれた。
――ナオはうちで面倒を見る。何か問題が起こったら責任は俺が取る。
誠也の庇護がなかったらきっと、可愛げのない、薄汚い子どもなど兄貴分たちにやっかまれていたに違いない。
――俺はお前がここを出ても、ちゃんと生きていけるすべを教えてやるから。
そのくせ誠也は、将来に渡ってナオがこの世界で生きていくのは望んでいなかった。普通の子どもが経験するようなこと、たとえば高校に行くことだとか、温泉に遊びに行くことだとかも経験させてくれて、ナオは実家にいた頃よりずっと健全な毎日を送った。
中学三年生のあの頃、ナオは自分一人で生きていければそれでいいと思っていた。でも今はそれじゃ足りない。誠也に今までの借りを返して、誠也みたいに働いて……それとは全然方向性が違うけど、珈涼の護衛の仕事だって、立派にやり遂げたいと思っている。
自分は誠也のせいでぜいたくを知って、誠也のおかげで自分の歩いていく道を少し、明るいものだと思えるようになった。
自分はこれでいい。でも……と自分の中の考えに落ちていたとき、誠也に声をかけられた。
「ナオ、祝いに美味いもんを食わせるって約束だったろ。何でもいいぞ。今日はどこでも連れていってやる」
喜色に満ちた誠也の声でナオは我に返った。
今日のナオと誠也は事務所を早くに上がっていて、これから少し遠い場所へ外食に出かけることもできそうだった。
見上げた誠也は、目の端に笑いじわを作って屈託なく笑っていた。普段、黒服に身を包んで前を見据える誠也は精悍で立派な大人の男なのに、家に帰るとこういう緩んだ顔もする。
ナオはちょっと目を逸らしながら誠也に言った。
「……場所はどこでもいいから。バイクの後ろに乗せて、どっか連れてって」
ナオは照れくさくなって、どうして自分はこういうときこんな可愛げがない顔しかできないんだろうと苦く思った。でも誠也の前でそれ以外の顔なんて持っていなくて、そのままの憮然とした顔だった。
誠也はそういうとき少し不思議そうだが、ふっと笑って返した。
「お前、なんでか俺の後ろに乗りたがるのな。……いいよ、連れてってやる」
そう言って、誠也はナオをバイクの後ろに乗せて走ってくれた。
夜の街灯りの中、誠也の体に腕を回して、風を感じるこの瞬間がナオは好きだった。日中に感じた苦い思いも自分が子どもだから克服できない悔しさも、一瞬全部を忘れる。
バイクを自分で走らせるのは危ないからと、誠也はなかなか免許を取らせてくれない。本当は誠也とツーリングしたいのに、誠也の過保護が邪魔をする。
着いたところは港町の倉庫街で、今日は縁日が開かれていた。赤い提灯と出店でにぎわう中、誠也はナオにたこ焼きだの、かき氷だの、何でもかんでもおごってくれた。
「なんだ?」
誠也に問いかけられて、ナオはふと思う。自分がもっと洒落た女の子だったら、夜景の見えるレストランでディナーがしたいとか、言ったのだろうか。
「何でもない。……たこ焼きうまいなって思っただけ」
でも自分はやくざの事務所でバイトしてる、男か女かわからないような子どもだ。それで自分が一緒に飯を食べたいと思うのは、小奇麗なイケメンじゃなくて、お人よしで面倒見のいい、この保護者じみたやくざなのだ。
ナオは流れていく人波の中で、ぼそりと言った。
「……ありがと。ちょっと落ち込んでたんだ」
今日ナオが早くに帰ってきたのは、心の痛む光景を見たからだ。
昼間、ボスは久しぶりに珈涼を外に連れ出して、映画館や指輪店や高級ブティックや、それこそ女の子が憧れるようなデートコースを巡った。
でもその最後にボスは彼女を写真店に連れて行って、そこで証拠のような写真を撮らせた後、珈涼に結婚の話を持ち出した。
たぶん珈涼はしばらく部屋に閉じ込められていて、体調が悪かったのだろう。結婚の話の少し後、真っ青になって倒れてしまった。
ナオが途切れがちにその話を誠也にすると、誠也は黙って聞いてくれた。
ナオは話を終えた後、誠也から目を逸らしたまま呆然としたように言った。
「自分、あの子が死んじゃったかと思ったんだ……」
そんなことと誠也は笑わなかった。ナオが感じた悲痛な気持ちを、そのまま聞いてくれた。
ナオは少しにじんだ目で誠也を見上げて、誠也に言っても仕方ないと思いながら食って掛かる。
「自分はあの子が幸せだとは、どうしても思えない。あの子の自由はどこにある? 自分だったらあんな束縛、死んでもごめんだ……!」
「……ナオ」
ふいに誠也はナオの両肩に手を置いて、ナオを見下ろした。
ナオが震えながら肩を上下させていると、誠也はナオより一回り大人の落ち着きで言う。
「お前の感情はお前のものだ。他の誰だって押しつぶせない。でもお嬢さんだって、お嬢さんなりの思いを持ってると俺は思う。それを俺たちが知るのは難しいが……」
誠也は一度言葉を切って、そっとナオに問いかけた。
「お前はどうしたい? お前がつらいなら、もうお前から一切この仕事を断ち切ってやる。俺が責任を持ってボスと交渉する」
「……自分は」
ナオは迷いの中で誠也を見上げた。
この仕事を終えたい。張り裂けそうな思いをもって珈涼をみつめるのをやめたいと、誠也に訴えたい気持ちもあった。
でもずっと珈涼を見ていて知ったこともあった。ボスの愛情に押しつぶされそうになりながら、ボスをみつめて何か言いよどんでいる珈涼の横顔を思った。二人の関係は、決してボスの一方的な思いではない気がしていた。
ナオは首を横に振って、落ち着きを取り戻して誠也を見る。
「大丈夫。……自分はあの子を見ているって、決めてるから」
誠也はナオを見返して、くしゃっと顔を歪めた。
心配でたまらない。誠也のそういう顔を、ナオはもう何度見たことだろう。
でもナオは誠也の腕を引っ張って、子どもがわがままを言う風に告げた。
「さ、行こうよ。自分はお腹いっぱいだけど、誠也はまだ食べられるだろ?」
自分にはそういうやり方しかできないけど、それが自分なのだから恥じたりなんてしない。
縁日のにぎわいはこれから。夏の宵は騒がしく更けていく。
隣を歩く誠也のぬくもりを頼りに、ナオはまだ前を向いて歩いていく。