人魚の調べは、朝顔と共に

瑛太のヴァイオリン

 ヴァイオリンの弦が弾かれた音で、瑛太(えいた)は瞳を開けた。
 また弓を一本違う弦に乗せてしまっていたのだ。音に集中しようと、瞳を閉じてヴァイオリンを奏でていたら、楽譜に添って、音の波に乗り、自然に合わせようとしていた手の動きが、また違ってしまったらしい。
 瑛太は眉を寄せて短く舌打ちをした。そして、目を見開き、怒りを顔に浮かべると、ヴァイオリンを床に放り投げようと片手を上げた。だが、途中で虚しい気持ちが胸に押し寄せ、腕を落とし、近くにあった葡萄(えび)色のソファの上に、そっとヴァイオリンを置いた。
 瑛太はそのままヴァイオリンを睨み続けていたが、意を決したように、ヴァイオリンを片手で乱暴に掴んだ。そして、邸の重い扉を開くと、外へ出た。
 ヴァイオリンが飴色に輝く。
 外の風は、冬の終わり、春の到来を告げるように、冷たさの中に、少しの温かさが混じっていた。瑛太の白い頬を、その温もりがそっと撫でる。瑛太はそれを感じて瞳を閉じた。月の光が顔を照らし、長い睫毛が頬に影を落とした。
 右手に持った弓を、強く掴むと、ゆっくりと浜辺へ向かって歩いていった。左手にはカンテラ持っていった。彼が歩く度に、カンテラの灯りがゆらゆらと地に映る。
 鎌倉の浜辺は、黒い海の上を漣が月の光を孕み、きらきらと白く煌めいている。
 瑛太はその輝きを見つめていると、ざわついた心が落ち着いてくるのを感じた。いつも四人兄弟の中で、瑛太だけが上手く楽器を弾けなかった。兄たちと調律するときに、自分だけ少し低めの音を出してしまい、重なった音が震えてしまうのだ。なので、合奏には入れてもらえない。いつも両手で顔を支えながら、仏頂面で兄たちの稽古を眺めているだけである。
(僕は、いつになったら、綺麗な音が出せるんだろう……)
 潮風が瑛太の淡い茶色の柔らかな前髪をかき上げる。穏やかだった波が、少しばかり乱れた。瑛太は不安が押し寄せ、吐きそうになった。浜辺に膝をつく。反動で、瑛太の周りに砂埃が少し立った。
 すると、目の前の波の表面が浮き上がって見えた。不思議に思い、恐る恐る一歩近付くと、波から吐き出されたように、何かが現れた。
(人魚……)
 それは、人魚だった。月の光と同じ色をした、金に白を一滴垂らしたかのような長い金髪が、海水に濡れて白い肌をした上半身を覆っている。髪の間から覗く胸はまだふくらみきっておらず、彼女の幼さを現わしていた。魚の尾をした下半身は、林檎のように赤く、ヒレに向かうにつれて黄色くなっていく。瑛太は家の玻璃の水槽の中を泳ぐ小さな金魚を思い浮かべた。
 両手を砂浜についた人魚は顔を上げた。顔は人間の少女と同じであった。それも、瑛太が学校で見たどんな少女よりも愛らしい顔をしていた。蒲公英の花弁のように長い金色の睫毛に覆われた瞳は、瑛太の母の胸元に光る翠玉のペンダントと同じ綺麗な翡翠色だった。
「君は……」
 瑛太が人魚に声をかけると、人魚は一度身構えた。だが、瑛太の顔から視線を逸らし、瑛太の着ていた着物の朝顔の文様を食い入るように見つめた。朝顔は瑛太の一番好きな花だ。着ている着物はそんな瑛太に母が仕立ててくれたものだった。下に着ている藍色の袴と合い、紫の朝顔が粋なアクセントを見せている。瑛太はそれに気付き、少し微笑んだ。
「これ、『あさがお』っていうんだよ」
 人魚が顔を上げる。ゆっくりと首を傾げると、彼女の濡れた前髪が耳の横に落ちた。
 最初は得体が知れない存在なので、彼女に恐ろしさを感じていたが、こうやって見ると、とても愛らしい。瑛太は冷えた心が温かくなっていくのを感じた。
 そして、人魚は視線を瑛太の腕に向けた。彼が手にしているヴァイオリンを、瞬きもせずにじっと見ている。瑛太はそれに気付き、ヴァイオリンを示すように少し持ち上げた。
「これ、気になる?」
 瑛太の腕の動きにつられ、人魚は顔を上げた。きらきらと透き通った瞳が、まっすぐに瑛太を見つめる。
 瑛太は何だか気恥ずかしくなり、唇を噛んで視線を逸らした。
 すると、人魚は桜色の薄い唇を開き、短く息を吸うと、歌を歌いだした。
 はっとして瑛太は人魚に視線を戻す。
 真っ白な月に向かって垂直に上半身を上げ、玲瓏な声で、不可思議な言語の歌を歌い続けた。
 瑛太はその透き通った音律に惹き込まれ、無意識にヴァイオリンを顎に当て、弓を弦に当てていた。ゆっくりと人魚の声に合わせるように、音を奏で始める。
 二人の調べは、最初はたどたどしく距離をおいていたが、やがてゆっくりと重なり、美しい一本の音となった。
 海が、その音楽を聴いているように、静かに漣を揺らした。
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