人魚の調べは、朝顔と共に

朝顔を海に浮かべて

 それからというもの、瑛太の日常は光を増していった。夜、家族が寝静まった後にそっと家を抜け出して、人魚に会いに浜辺まで向かった。腕にはヴァイオリンを抱えて。
 浜辺で瑛太がヴァイオリンの音を、調律するように一音鳴らすと、岩陰に隠れている人魚がそっと白い顔を覗かせ、ゆっくりと体を這わせてこちらへやってくる。それが二人の間で交わされた暗黙の合図であった。
 人魚は瑛太の前まで両腕を使って体を移動させると、垂直に半身を上げて、夜空に向かって玲瓏な歌声を上げる。
 瑛太はそれを聞くと、微笑み、彼女の高い音程を支えるように低い音を奏でる。不思議なことに、人魚の歌に合わせて楽器を奏でるようになってから、階段を一段ずつ昇るようにヴァイオリンが上手くなっていった。音が澄み、響きが豊かになったのだ。それは彼自身、手ごたえを感じていたので、嬉しい高揚感を彼にもたらした。
 二人の夜の共鳴は、鎌倉の夜色の海と白い月だけが聞いていた。
 
 ある夏の夜、瑛太は邸の庭から摘んできた一輪の朝顔を人魚に見せた。腰を屈めて青い朝顔を目の前に突き出す瑛太に、人魚は翡翠色の目を見開いて、動揺した。だが、恐る恐る鼻先を朝顔に近付け、食い入るように覗き込んだ。
 庭の朝顔は青みがかった紫だった。だが、朝に咲く花なので、瑛太が摘んできた朝顔は萎れて、本来の美しい円を描いた姿では無かった。それが残念であったが、瑛太はとにかく人魚にどんな姿でも朝顔を目にしてほしいと考えた。
 人魚はゆるく手を丸め、人差し指だけを出して、撫でるように朝顔の閉じた花弁に触れた。人魚は慣れないその感触に驚き、腕を引っ込めた。だが決して不快感は無かった。花弁は絹のような手触りで、心地よさを彼女の指先に残したからだ。
 人魚は顔を上げ、瑛太の顔を見た。その顔を月の光が撫で、瞳が宝石のようにきらきらと輝いた。
 瑛太はそれを見てとても嬉しくなり、心が幸福感に満たされていくのを感じた。そしてある事を思いついた。
 翌日の夜、瑛太は再び海岸にヴァイオリンを持って現れ、人魚が来るまで浜辺に立っていた。そして人魚はいつものように砂浜を這って瑛太の目の前に現れた。
 瑛太は人魚の顔を見て笑顔になると、人魚を手招きして海に近付いた。すると、肩にかけていた革の小さな鞄から朝顔の花を幾つも取り出すと、海へと撒いて散らした。
 朝顔が舞い上がって落ちていくのを、人魚は目を見開いて見つめる。彼女の長い睫毛が瞼の動きにつられて二、三度瞬いた。頭の上に手を合わせて平行な体勢になると、海の中へと、音も立てずにするりと潜り込んだ。
 瑛太が唖然としていると、人魚はしばらくして海面に顔を出した。海に濡れた彼女の白い顔は、濡れて月の光にきらきらと光っている。顔をふるふると振り、水滴を周りに落とし、瑛太を見ると明るく微笑んだ。その笑顔は、人魚と出会ってから初めて見るほどの素晴らしい笑顔だった。そして朝顔が辺りに浮かんでいるのを確認すると、再び薄く海に潜り込み、朝顔の下を円を描くように泳いでいく。くるくると白い腹と背を交互に上向けながら、踊るように泳ぐ人魚を見て、瑛太は心の中から喜びが沸き上がってくるのを感じた。そして手にしたヴァイオリンを再び構えると、ヴィヴァルディの「四季:春」のソロを奏で始めた。
 「四季:春」はとても明るい曲で、人魚のダンスにぴったりと合っていった。瑛太の演奏が絡まるように人魚の泳ぎも軽快で楽し気になっていく。海面越しにも人魚が満面の笑顔でいるのが感じられた。朝顔の花が渦を巻くように円を描いて流れていく。紺色の海の水面を朝顔の紫が彩っていく。
 瑛太は瞳を閉じていたが、うっすらと開けてそれを見つめた。それは夢のような美しさだった。
 人魚は海の中から歌い始めた。海水を通して、いつも浜辺で歌っている歌よりも音の響き方が違って聞こえたが、それでも玲瓏なその声は美しかった。そして、彼女の歌声に合わせて瑛太は音律を変えてみる。人魚の歌に合わせることで瑛太のヴァイオリンの音は更に澄み、豊かになっていく。それは瑛太自身も手ごたえを感じていた。弓を動かす手首の動きは滑らかで、ヴァイオリンを支える体の体幹もしっかりしていく。人魚との出会いは、瑛太の心だけではなく、瑛太の音楽にも良い影響を与えていた。それは人魚の歌声に魔法が含まれているからなのか、瑛太にはわからない。だが、彼女の澄んだ歌声は、彼のヴァイオリンにぴったりと合っていたのだ。瑛太は嬉しかった。ずっと、ずっと人魚と一緒に音楽を奏でていたいと心から思った。
 天空に昇っている月の光は、彼らの音楽とは反対に清かで静かに、白く光っていた。
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