この恋は演技
プロローグ
二月最初の月曜日。
ふたりきりの会議室で、背中を壁に押しつけ身を低くする松浦紗奈は、視線を左右に動かす。
そうすると視界に、仕立てのいい紺のスーツの袖が見えた。
お洒落に興味のない紗奈でも知っているハイブランドの腕時計が右手首に巻かれているのを見て、自分を己の腕の中に閉じ込めている彼が左利きであったことを思い出す。
(これが世に言う壁ドンというやつですか)
実年齢イコール恋人いない歴の紗奈としては、妙な感慨を覚える。
そんなことより、今はどうにかしてこの場を切り抜けなくちゃいけない。紗奈は鼻先までずり下がった眼鏡を押し上げ、目の前の男を見上げる。
シャープな顎のラインに高い鼻梁。奥二重の切れ長の目は鋭い眼光を放ち、相手を萎縮させるには十分な気迫が備わっている。
端整な顔立ちをし、上質な三つ揃いのスーツを纏う彼は、傲慢であることを隠さないどころか、それを誇りにさえ想っていそうだ。
何処かの国の王族といわれれば信じそうになるほどの存在感を放つ彼は、事実、紗奈の勤める古賀建設では王子様のような人なのだけど。
「部長……それは脅迫というものでは?」
もともとの身長差がある上に、紗奈が身を屈めているため、相手を見上げる姿勢になっている。
壁に背中を預けてそんな姿勢を取っている段階で、精神的には敗北を認めているようなもの。それでも抵抗を試みる紗奈に、彼、古賀悠吾は意地の悪い笑みを浮かべる。
「これは交渉だ。私に脅されていると思うのであれば、人事にでも訴えればいい。ただその場合、君は自分が会社の規則違反をしてアルバイトをしていたことを打ち明ける必要が出てくるがな」
「うっ」
痛いところを突かれて、紗奈が言葉を詰まらせると、悠吾は器用に片方だけの口角を持ち上げる。
「さてここで話を本題に戻そう。訳あって私は自分の恋人役を演じてくれる女性を探している。そのための出費は惜しまないつもりだ。対する君は、他人になりすますのがうまい上に、金に困っている」
「べつに、好き好んで他人に成り済ましていたわけじゃないです。あれには、深い事情が……。それに弊社では副業が認められておりませんから」
その理由は、さっき話したではないか。
紗奈がしどろもどろとした口調で訴えても、彼が聞く耳を持つ気配はない。
「安心しろ。バレても私が責任を持って握りつぶしてやる」
口元には笑みを浮かべたまま、無言の迫力で紗奈に『Yes以外の返事は聞く気がない』と、語りかけている。
これはもう立派なパワハラではないかと思うのだけど、人事部に訴えたところでまともに取り合ってはくれないだろう。なにせ彼は、この古賀建設の創業経営者一族の御曹司なのだから。
そしてそんな彼が『握りつぶす』と宣言している以上、紗奈がこのバイトを引き受けても、それを理由に罰っせられる心配はない。
古賀建設から貰う給料だけでは解決しようのない金銭的問題を抱えている紗奈にとって、これは渡りに船の話とも言える。
紗奈は、こちらを見下ろす悠吾の顔をマジマジと眺めた。
古賀悠吾。年齢は確か、今年二十五歳の紗奈より五歳年上の三十歳。その若さで彼は、大手ゼネコンの一つに数えられている古賀建設で工務部統括部長を任されている。
その情報だけを切り取ると、現社長の孫である彼が家柄だけで今の役職を与えられている印象を受けるが、決してそんなことはない。
かなりの切れ者で、確かな経営手腕を持っている。
そして彼の父親が婿養子のため、社内では、現在古賀建設の専務を務める父親を追い抜いて、彼が次の社長の座に着くのではないかと噂されている。
陰では『建設業界の王子様』などと呼ばれる彼に、恋い焦がれている女性は社の内外問わず数多くいると聞く。
(つまり、この先も長く古賀建設で働きたいのなら、間違っても敵に回しちゃいけない相手……)
「私なんかに頼まなくても、古賀部長の恋人役を務めたい人は大勢いらっしゃると思いますよ」
そう粘ってみるけど、相手は心底嫌そうに顔を顰めるだけで、納得してくれる様子はない。
「喜んで引き受けるような人間に頼んだら、その後が面倒だろう」
「……ごもっともです」
喜んでお引き受けした後は、是非とも更なるお近付きになろうとすることだろう。
その面倒を回避するためにも、お金で紗奈を雇った方が便利と思っているようだ。
しばらく逡巡した紗奈は、ため息を吐いて覚悟を決める。
「わかりました。部長のご依頼を受けさせていただきます」
「よろしく頼む」
その言葉に、悠吾は男の色気を感じさせる艶やかな表情を浮かべる。
なんとなく自分が判断を誤ったのではないかと思いつつ、紗奈は十日ほど前の一件を想い出す。
ふたりきりの会議室で、背中を壁に押しつけ身を低くする松浦紗奈は、視線を左右に動かす。
そうすると視界に、仕立てのいい紺のスーツの袖が見えた。
お洒落に興味のない紗奈でも知っているハイブランドの腕時計が右手首に巻かれているのを見て、自分を己の腕の中に閉じ込めている彼が左利きであったことを思い出す。
(これが世に言う壁ドンというやつですか)
実年齢イコール恋人いない歴の紗奈としては、妙な感慨を覚える。
そんなことより、今はどうにかしてこの場を切り抜けなくちゃいけない。紗奈は鼻先までずり下がった眼鏡を押し上げ、目の前の男を見上げる。
シャープな顎のラインに高い鼻梁。奥二重の切れ長の目は鋭い眼光を放ち、相手を萎縮させるには十分な気迫が備わっている。
端整な顔立ちをし、上質な三つ揃いのスーツを纏う彼は、傲慢であることを隠さないどころか、それを誇りにさえ想っていそうだ。
何処かの国の王族といわれれば信じそうになるほどの存在感を放つ彼は、事実、紗奈の勤める古賀建設では王子様のような人なのだけど。
「部長……それは脅迫というものでは?」
もともとの身長差がある上に、紗奈が身を屈めているため、相手を見上げる姿勢になっている。
壁に背中を預けてそんな姿勢を取っている段階で、精神的には敗北を認めているようなもの。それでも抵抗を試みる紗奈に、彼、古賀悠吾は意地の悪い笑みを浮かべる。
「これは交渉だ。私に脅されていると思うのであれば、人事にでも訴えればいい。ただその場合、君は自分が会社の規則違反をしてアルバイトをしていたことを打ち明ける必要が出てくるがな」
「うっ」
痛いところを突かれて、紗奈が言葉を詰まらせると、悠吾は器用に片方だけの口角を持ち上げる。
「さてここで話を本題に戻そう。訳あって私は自分の恋人役を演じてくれる女性を探している。そのための出費は惜しまないつもりだ。対する君は、他人になりすますのがうまい上に、金に困っている」
「べつに、好き好んで他人に成り済ましていたわけじゃないです。あれには、深い事情が……。それに弊社では副業が認められておりませんから」
その理由は、さっき話したではないか。
紗奈がしどろもどろとした口調で訴えても、彼が聞く耳を持つ気配はない。
「安心しろ。バレても私が責任を持って握りつぶしてやる」
口元には笑みを浮かべたまま、無言の迫力で紗奈に『Yes以外の返事は聞く気がない』と、語りかけている。
これはもう立派なパワハラではないかと思うのだけど、人事部に訴えたところでまともに取り合ってはくれないだろう。なにせ彼は、この古賀建設の創業経営者一族の御曹司なのだから。
そしてそんな彼が『握りつぶす』と宣言している以上、紗奈がこのバイトを引き受けても、それを理由に罰っせられる心配はない。
古賀建設から貰う給料だけでは解決しようのない金銭的問題を抱えている紗奈にとって、これは渡りに船の話とも言える。
紗奈は、こちらを見下ろす悠吾の顔をマジマジと眺めた。
古賀悠吾。年齢は確か、今年二十五歳の紗奈より五歳年上の三十歳。その若さで彼は、大手ゼネコンの一つに数えられている古賀建設で工務部統括部長を任されている。
その情報だけを切り取ると、現社長の孫である彼が家柄だけで今の役職を与えられている印象を受けるが、決してそんなことはない。
かなりの切れ者で、確かな経営手腕を持っている。
そして彼の父親が婿養子のため、社内では、現在古賀建設の専務を務める父親を追い抜いて、彼が次の社長の座に着くのではないかと噂されている。
陰では『建設業界の王子様』などと呼ばれる彼に、恋い焦がれている女性は社の内外問わず数多くいると聞く。
(つまり、この先も長く古賀建設で働きたいのなら、間違っても敵に回しちゃいけない相手……)
「私なんかに頼まなくても、古賀部長の恋人役を務めたい人は大勢いらっしゃると思いますよ」
そう粘ってみるけど、相手は心底嫌そうに顔を顰めるだけで、納得してくれる様子はない。
「喜んで引き受けるような人間に頼んだら、その後が面倒だろう」
「……ごもっともです」
喜んでお引き受けした後は、是非とも更なるお近付きになろうとすることだろう。
その面倒を回避するためにも、お金で紗奈を雇った方が便利と思っているようだ。
しばらく逡巡した紗奈は、ため息を吐いて覚悟を決める。
「わかりました。部長のご依頼を受けさせていただきます」
「よろしく頼む」
その言葉に、悠吾は男の色気を感じさせる艶やかな表情を浮かべる。
なんとなく自分が判断を誤ったのではないかと思いつつ、紗奈は十日ほど前の一件を想い出す。
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