この恋は演技

9・演技に隠した本音

 悠吾の出生の秘密を打ち明けられてから十日。
 その日は木曜で、半休を取り午前で仕事を切り上げた紗奈は、以前悠吾と初めてデートした日に利用した松林の店を再び訪れていた。
 目的は夕方、悠吾と合流し、彼のパートナーとしてパーティーに参加するためである。
「今日は、悠吾様はご一緒ではないのですね」
 紗奈を店の奥へと案内する松林が、間を持たせるための世間話といった様子で言う。
「悠吾さんとは、この後、美術館で待ち合わせをしています」
 紗奈の言葉に松林は柔らかく目尻に皺を刻む。
「あら、美術館でデートなんて素敵ですね。仲がよろしいようで、私どもが口出しするようなことではありませんが、悠吾様にそのようなお相手がいらっしゃることをうれしく思います」
 松林は、紗奈と悠吾が結婚していることも、彼の家庭の秘密も知らない。
 それでも悠吾の孤独を肌で感じていた松林は、彼にパートナーと呼べる存在が出来たことを心から喜んでくれているようだ。
「あの、デートというか、関係者だけを招いた美術館主催のパーティーで。明日から始まる展覧会を、一足先に見せてもらえるそうです」
 そんなふうに喜ばれると、人のよさそうな松林を騙しているようで心苦しい。
 思わず紗奈がへどもどと情報を補足すると、彼女はさらにうれしそうにする。
「悠吾様より、古賀家の方々には紗奈様のことは黙っておくように申し使っておりますからお伝えしておりませんが、悠吾様にこんな可愛らしい相手ができたと知ったら、奥様もお喜びになるでしょうね」
 その言葉に、紗奈の心が小さく軋んだ。
 現社長の一人娘である悠吾の母親は、もともと体が丈夫な人ではなかったこともあり、悠吾が成人した頃から社交的な場に顔を出すこともなくなり、一日のほとんどを自室で過ごしているのだという。悠吾は、心から愛した男性に裏切られたことが少なからず影響しているのではないかと話していた。
 同じ女性として、愛する人に裏切られ、世間体のためだけに結婚させられた彼の母の苦しみを想像すると胸が痛い。
 自分になにかしてあげられることがあればいいのだけど、なにをどうすることもできないのがもどかしい。
(せめて、悠吾さんの妻役を上手に演じよう)
 最初は、彼を愛しているフリをする演技だったはずなのに、いつの間にか、彼を愛していないフリをするための演技に変わってきていることを苦々しく思いながら、紗奈はそう胸に誓う。
 今回松林が紗奈のために選んでくれたドレスは、レース使いが美しいすみれ色のドレスだった。
 数種類のレースを重ねているスカートの裾はふわりと広がっているのだけど、上半身は体のラインに沿ってたタイトなもので、タートルネックの襟元は、首筋の後ろで小さなボタンで留める造りになっている。
「よくお似合いです」
 ドレスの構造上ひとりでは着替えられず、松林がボタンを留めるのを手伝ってくれた。
 支度を調えると、店が手配してくれたハイヤーで、パーティーが開催される美術館へと向かう。
 知識のない紗奈は、最初美術館でパーティーを開くと聞かされてかなり驚いたのだけど、悠吾の話しによるとそれほど珍しいことではないのだという。
 海外などでは特に、私設美術館などではスポンサー集めを兼ねて、一般展示が始まる前に、関係者だけを招いてささやかなたパーティーを開催するそうだ。
「ありがとうございます」
 美術館の前で運転手にお礼を言って降車した紗奈は、動き出すハイヤーを見送った。
 腕時計で時間を確認すると、十九時前。
 悠吾とは、彼の仕事の都合もあるので、明確な待ち合わせ時間を決めていない。パーティー会場は美術館なので、先に到着した方が絵を鑑賞しながら相手を待って、それまでの間に見つけた一番お気に入りの作品を紹介する約束をしている。
(悠吾さんに、到着したことだけ知らせておいた方がいいかな?)
 紗奈は、美術館に入る前に悠吾にメッセージを送っておこうと、通行の邪魔にならない場所に移動してカクテルバックからスマホを取り出す。
「あなたっ」
 スマホを操作していると、かたわら鋭い声が聞こえてきた。驚いて顔を上げると、紗奈にも覚えのある女性の姿があった。
 東野明日香だ。
 先日のパーティーでは青いドレスを着ていた彼女は、今日はくすんだシルバーのドレスを纏い、髪を左肩に流している。
「あっ」
 敵意を隠さず自分を睨み付ける明日香の表情にひるみ、紗奈は細い声を漏らした。
 すると明日香は、ニヤリと口角を上げる。
「今日はお一人のようね。ちょうどよかったは」
「あの……失礼します」
 本能的に危険を察知して、紗奈は逃げだそうとした。
 だけど明日香が、それより早く紗奈の手首を掴む。
 その弾みで紗奈が手にしていたバッグが地面に落ちてしまったが、明日香はそれを気にすることなく続ける。
「逃げなくても大丈夫よ。あなたにとってもいい話をしたいだけなの」
 彼女の持ってくる話が、いい話であるはずがない。それでもつい動きを止めると、明日香は、紗奈の顔をマジマジと見詰めて言う。
「あなたは、何者なの?」
「え?」
「先日はあなたの顔に見覚えがある気がして、あの時は一応は引き下がってあげたの。その後、悠吾さんが飯尾家のお嬢さんと親しくしているなんて噂も耳にしていたから様子をみていたけど全部私の勘違いだったみたい。だって彼女、恋人と駆け落ちしているそうじゃない」
 以前みゆきから、悠吾がどこかの社長令嬢とデートしているといった噂が流れていることは聞かされていた。
 その時は『絶世の美女』などという根拠のない背びれ尾びれが付いていることをただただ恥ずかしく思っただけだったけど、香里の顔を知る人からすれば、彼女が悠吾さんとデートしているように見えたのだろう。
 思いがけない追及に紗奈が視線をさまよわせると、明日香が意地悪く笑う。
「あなた、それを知っていて彼女になりすましていたのね」
「違います。香里と私は……」
「飯尾家のお嬢さんの名前を知っているということは、確信犯ね。彼女になりすまして悠吾さんに近寄って、なにをする気だったの? お金目当てなら、私がお小遣いあげるから、その席を譲ってもらえないかしら?」
 勝手に決めつけて話しを進めようとする姿に、腹の底から怒りが湧く。
 人間関係を金で解決できると思い込んでいる彼女なんかに、悠吾を渡す気はない。
 そう言い返したいのに、言葉が喉につかえて出てこないのは、悠吾にとって自分が金で雇った偽りの妻でしかないからだ。
「幾らほしいの?」
 明日香が嘲りの表情を浮かべる。
 言い返したいのに言い返せない。その悔しさに泣きそうになっていると、「そこでなにをしている?」と、悠吾のものではない男性の声がした。
 見ると、悠吾の父である昌史の姿があった。
「古賀のおじさま」
 明日香が、邪魔をされたと言いたげに昌史を睨む。
 でも紗奈と昌史を見比べて、すぐに表情を切り替える。
「でもちょうどいいところにいらしたわ。私、悠吾さんにたかろうとする悪い虫を退治しようとしていたんです」
「違……」
 違うと否定したところで、その後どう話しを続ければいいかわからない。
 それでもどうにかこの場を収めなくてはと、紗奈がどうにか言葉を絞り出そうとした時、昌史が先に口を開いた。
「悪い虫? 彼女はウチの社員で、私が用があって呼んだんだが?」
「え?」
 明日香が驚きの声を漏らす。
 確かに紗奈は古賀建設の社員だが、彼にこの場に呼ばれた記憶はない。そのことに様も疑問の声を上げたかったけど、どうにか堪えた。
「この女が、古賀建設の社員?」
 明日香がいぶかるような眼差しで、紗奈の頭から爪先まで視線を巡らせる。
「疑うのなら、悠吾にも確認するといい。そんなことより明日香さん、君の会社の施工費のことで、少し……」
 昌史が紗奈から仕事のことに話題を逸らそうとすると、明日香の表情が険しくなる。
「悠吾さんの父親だからって、私に指図するのはやめていただけます?」
 明日香が高飛車に言う。
 あまりの言いように、紗奈は言葉を失う。
 昌史が婿養子であることは周知の事実だけど、あまりの言い方だ。
「だけど、君の請求書金額では……」
「私は古賀のおじい様のアドバイスを受けて、うまくやっているわ。おじさまは、私の言うとおりに処理すればいのよ」
 昌史の話に耳を貸す気はないと、明日香は話を遮る。
 それはとても、結婚した相手の父親に対する振る舞いには思えない。
 明日香が、悠吾親子の出生の秘密を知っているということはないだろう。それなのに彼女は、あからさまに昌史を軽んじている。
「そういうことでしたら、結構です。気分が優れないので、ここで失礼します」
 紗奈と昌史を順に睨んで、明日香はその場を立ち去る。
 昌史は、明日香が十分に離れたのを確認して紗奈へと向き直った。
「あの……」
「彼女の私に対する態度なら気にしなくていい。社長の指示で彼女の会社の経営に少し携わっていてね。婿養子の私ごときに口出しされて面白くなかったようだ」
「だとしても、あの態度はあんまりです」
「彼女は単純だから、すぐに目先の感情に囚われる。たぶん、しばらくは君のことより、私に腹を立てるのに忙しいだろうよ」
 昌史は腰を屈め、さっきの弾みで落ちた紗奈のカクテルバッグを拾い上げる。
 つまり彼は、明日香の怒りを紗奈から逸らすために口を挟んだのだ。
「ありがとう……ございます」
 どうして彼が自分を助けてくれたのかわからないまま、紗奈はお礼を言う。
「君は以前のパーティーで悠吾と一緒にいた子だよね。会社で見掛けた時は驚いたよ」
 さっき紗奈を自社の社員だと言ったのは、咄嗟のでまかせなのかと思っていたけど違うらしい。
「よく気付かれましたね」
 差し出されたバッグを受け取り、紗奈は素直な驚きを口にする。
「あの子が女性を連れている姿なんて初めて見たから、強く印象に残っていてたよ」
 昌史の口調は、とても柔らかなものだ。
 社内では次期社長の座を巡って互いに反目し合っているといった話しをよく耳にしていたけど、それはただの噂に過ぎないのかもしれない。
「君たちの結婚の件は、私のところで情報を止めているから、社長はまだ気付いていないよ」
「え?」
 考え事をしていた紗奈は、昌史の言葉に目を丸くした。
 それを見て昌史は困ったような顔をする。
「社内結婚をすれば、どうしたって管理者の耳には入るよ」
「確かにそうですよね。悠吾さんもそのうちバレることは承知していると話していました」
 だから今のうちに彼にパートナーがいることをアピールしようと、こうやってデートを重ねてしているのだ。
「君を会社で見掛けるまでは、彼は飯尾家のお嬢さんと付き合っているのだと勘違いしていたよ」
 それはさっき、明日香にも言われたことだ。
 普段の紗奈の装いが大きく違うせいもあり、当人同士はそこまで意識したことなかったが、自分と香里はよほど似ているらしい。
(というか、香里くらいの家柄じゃないと悠吾さんに相応しくないっていうのもあるんだろうな)
 だからなんとなく似ているだけでも、紗奈が香里に見えてしまうのだろう。
「本来ご報告してから籍を入れるべきなのでしょうけど……」
 昌史が自分たちの結婚に気付いているのなら、彼の妻と演じる者として振る舞わなくちゃいけない。
 気持ちを切り替えて紗奈が挨拶をしようとすると、昌史が「必要ないよ」と、首を横に振る。
「結婚しているのくらいだ。私たちの関係を知っているのだろ? あの子が私に報告酢売る価値がないと判断したのなら必要はないよ」
 冷めた口調でそう言って、昌史は美術館へと視線を向けて紗奈に聞く。
「ところで君がいるということは、あの子も来るのかな?」
 感情が沈み込む紗奈に昌史が聞く。
「はい。もしかしたら、もう中にいるかもしれません」
「そうか。では私は帰るとしよう」
「え?」
「あの子とは一緒にいたくないのでね」
 感情の見えない口調で告げて、昌史は本当に帰っていく。
 ただ去り際、「それでも困ったことがあれば連絡をくれ」と、紗奈に自身のプライベートの連絡先を教えてくれた。
 その背中をなんとも言えない思いで見送り、紗奈は美術館に足を向けた。

  ◇◇◇

 美術館に到着した悠吾は、絵を観覧したり談笑しょうしたりと賑わう人の間を泳ぐようにして紗奈の姿を探した。
 そして二階ロービーでその姿を見付けて、弾むような思いで駆け寄る。
「紗奈」
 その名前を口にするだけで胸が温かくなる。自分にそんな感情があるなんて、紗奈に出会うまで知らなかった。
 そのことを甘酸っぱく思いながら紗奈に歩み寄って、彼女の表情がさえないことに気付いた。
「紗奈?」
「悠吾さん」
 先ほどとは違う声音で名前を呼ぶと、紗奈がぎこちなく笑う。
「なにがあった?」
 その表情にそう聞かずにはいられない。
「明日香さんに会いました」
 瞬時に悠吾に緊張が走る。それを見て、紗奈が大丈夫だと軽く首を振る。
「古賀専務がフォローしてくれました」
「専務が?」
 思いがけない人の名前に驚く。紗奈はそんな悠吾の袖を引いて、紗奈が周囲に目配せする。
「どこか静かな場所で話しませんか?」
 その言葉に周囲を見渡せば、距離があるしまばらだが数組に分かれて談笑している人の輪がある。
 それで悠吾は、紗奈を連れて中庭のベンチに移動した。
 四月のこの時期、寒くはないが昨日雨が降ったせいか夜気には肌にまとわりつく湿り気があり、他に人の姿はない。
 悠吾は小さなテラスのベンチに紗奈と並んで座り、話を聞くことにした。
「すまない。彼女がこのパーティーに出席するとは思っていなかった」
 紗奈の話を聞く前に、まずはそのことを謝る。
 パーティーといっても今日のこれは、私設美術館が協賛金を集めるために開いているもので、ノンアルコールの飲み物と軽食が提供されるだけのささやかなものだ。
 華やかな場所で己を誇示することばかりに気を取られている明日香が、顔を出したがるような場所ではない。そう考えていたから、紗奈と現地での待ち合わせにしたのに。
 午後から外せない会議があったとはいえ、紗奈をひとりで行動させたことが悔やまれる。
 松林の店まで迎えに行けばよかったと悔やむ悠吾に、紗奈が「専務が助けてくださったので大丈夫でした」と、繰り返す。
 悠吾としては、それが意外だった。
 戸籍上の父である昌史が美術に精通しており、美術館や博物館への寄付もよくしているようので、パーティーに出席していても不思議はない。
 ただ紗奈の話しによると、昌史は、紗奈を悠吾の妻と知っていて助けた上に、社長である祖父の恭太郎にはそのことを報告しないでいてくれているそうだ。
「結果、東野さんには私が古賀建設の社員と知られてしまったかもしれませんけど。あの場では仕方なかったと思います」
 話を聞く分に、それは仕方ないだろう。
「専務はなにを企んでいるんだろう」
 ポツリと呟く悠吾に、紗菜が言う。
「ただ普通に助けてくれたんじゃないですか?」
「まさま」
 あり得ないと、悠吾は苦く笑う。
 なにせ昌史は、出世のためだけに戸籍上の自分の父親になった人なのだ。
 大学進学を機に悠吾が家を出たこともあり、長く交流が途絶えている。古賀建設で顔を合わせても業務連絡以外で言葉を交わすようなことはない。
 会社で見かける昌史は、常に一癖も二癖もありそうな取り巻きを連れていて、虎視眈々と社長の座を狙っていると噂されている。
 そのため人のいい紗奈とは違い悠吾は、昌史になんらかの策略があるのではないかと勘ぐらずにはいられない。
「悠吾さん」
 考え込んでいると、紗奈が手に手を重ねてきた。
 目が合うと、ニッコリ笑って言う。
「ひとりで抱え込まないでくださいね」
「え?」
「契約上の関係に過ぎないのかもしれませんけど、今の悠吾さんには妻の私がいます。それを忘れないでくださいね」
 その言葉に、悠吾の肩がふっと軽くなったような気がした。
 自分の配慮不足のせいで紗奈に不快な思いをさせてしまったことを詫びようとしていたのに、気が付けば自分が彼女に励まされている。
「すまない。なかなかに格好悪い姿を見せてしまった」
 今更のように前髪を掻き上げ表情を整える悠吾に、紗奈が飾らない笑顔で言う。
「オフィスで見かける悠吾さんは完璧で格好よすぎるので、たまには弱気な顔を見せてもらえる方が、私としてはホッとします」
 思いがけない言葉に面食らう。
「格好いいって……紗奈の目に俺がそんなふうに映っているなんて、考えてもいなかったよ」
 悠吾が照れると、紗奈が驚きの表情を見せる。
「悠吾さんは格好いいですよ。私なんかが妻役で、申し訳なく思ってますよ」
 心底申し訳ないといった顔をする紗奈に、悠吾はそんなことないと首を横に振る。
「俺が家族になりたいと思えるのは、紗奈だけだよ」
 心を込めた悠吾の言葉に、紗奈が薄く笑う。
「私の演技力を評価してくださってありがとうございます」
 それだけ言うと、紗奈は立ち上がり、悠吾に手を差し出す。
「じゃあ、仲良しな夫婦として絵を見に行きましょう」
 自分へと差し伸べられる手が、演技に過ぎないということを寂しく思いながら悠吾は立ち上がり紗奈の手を取る。

  ◇◇◇

「先にお風呂どうぞ」
 マンションに戻ってきた紗奈の背中を、悠吾がポンッと叩く。
 その気遣いにお礼を言ってバスルームに向かった紗奈は、洗面所で鏡に映る自分の姿を確認した。
 今の自分は、すみれ色の綺麗なデザインのドレスを身に纏い、プロのメイクとヘアセットをしてもらったことで、普段とは全くの別人だ。
 明日香に言われるまで意識していなかったけど、言われてみればその姿は香里に似ている。
「誰も悠吾さんのパートナーがしがない会社員だなんて思わないよね」
 呟いて、自分の頬を撫でる。
 自分が彼の妻の座に収まっているのは、あくまでも明日香を諦めさせるものだ。
 そのためほとぼりが冷めれば離婚する予定なので、悠吾は紗奈の素性を聞かれると、『籍は入れたが、挙式を挙げるまでは公にしたくない』と、言葉を濁していた。
 悠吾としては、離婚後、紗奈に迷惑をかけないための配慮なのだけど、意図せず香里の名前をかたっているような形になってしまっていることが申し訳ない。
「今度香里に会えたら謝ろう」
 そう心に誓うのだけど、その場合、自分はこの状況を香里にどう説明するつもりなのだろうか。
 バイトとして彼の妻役を演じている。その言葉で片付けるには、紗奈の心は悠吾に捉えられている。
 とはいえ、それは悠吾には迷惑な話でしかない。
「あっ」
 それを切なく思いながらドレスを脱ごうとした紗奈は、今更のタイミングでとんでもないことに気が付いて息を飲んだ。
 それから約二十分、洗面所のドアをノックする音と共に、廊下から悠吾が声をかけてきた。
「紗奈、どうかした?」
 その声に、洗面所でひとりドレスと格闘していた紗奈は諦めのため息を漏らした。
 シャワーを使う水音もしないまま、紗奈が洗面所にこもっているので、体調の心配をしてくれたようだ。
(ずっとこのままというわけには、いかないよね……)
 情けなく眉尻を下げる紗奈は、覚悟を決めて洗面所のドアを開けた。
 ドアから顔を覗かせた紗奈がドレスを着たままひどく疲れた顔をしているのに気付き、悠吾がうろたえる。
「どうした? 気持ち悪いのか?」
 悠吾はそのままドアを開け、紗奈の額に手を添えた。
 触れる手で紗奈に熱がないのはわかっただろうけど、それでも少し腰を屈めると紗奈の膝裏と背中に腕を回しそのまま抱き上げる。
「えっ! あっキャッ!」
 突然のお姫様抱っこに、紗奈が小さな悲鳴を上げるけど悠吾は気にしない。
 紗奈を抱きかかえたまま、リビングへと足を向ける。
「体調が悪いなら、どうして言わない。今すぐ病院に行こう」
 少し厳しい口調で紗奈を叱る。
 話ながらリビングに入った悠吾は、紗奈の体をソファーに横たえさせると、自分もその足下に座り、テーブルに放置していたスマホへと右手を伸ばす。
「知り合いに医者に連絡する」
 そう言ってどこかに電話を掛けようとする。
「悠吾さん、違うんですっ!」
 急いで体を起こした紗奈は、スマホを捜査しようとしていた左腕に抱きつく。
「しかし、体調が悪いなら……」
 戸惑う悠吾に、紗奈はブンブンと首を横に振った。
 そして赤面する顔をみられるのが恥ずかしくて、こちらへと体を向ける彼の胸に顔を押し付けて言う。
「ドレスのボタンを外せなくて困っていたんです」
「え?」
 紗奈の告白に、悠吾から普段の彼らしくない間の抜けた声が漏れた。
 それでも悠吾の胸に顔を密着させることで露わになっている紗奈の首筋を見て、事情が飲み込めたのだろう「ああぁ」と、困ったように息を吐いた。
 今日の紗奈は、後ろでボタン留めするハイネックのドレスを着ている。
 お店ではメイクやヘアセットの流れで松林に着せてもらったのですっかり忘れていたのだけど、このドレスは腰からうなじまでデザイン性の高い小さなボタンが連なっている。
 お洒落だけどひとりで着ることのできないドレスは、ひとりでは脱ぐこともできないと、さっきお風呂に入ろうとして初めて気が付いたのだ。
 首元の二つと腰の辺りの一部のボタンは、どうにか自分で外すことはできた。
 だけどそれ以外のボタンが外せないし、その中途半端な状態で悠吾に助けを求めに行くのも恥ずかしい。というか、彼に背中のボタンを外してもらうのが恥ずかしい。
 そんなわけで、ずっとひとりで自分の背中と格闘していたのだ。
「なんだ。水を使ってる気配もしないのに紗奈がいつまでも出てこないから、中で倒れているのかと思って焦ったよ」
 紗奈の話を聞いて、悠吾がクスクス笑う。
 首にかかる彼に吐息がくすぐったい。
「すみません」
 紗奈が顔を真っ赤にして身を固くしていると、悠吾は片足をソファー上に載せて、体をしっかりと紗奈の方に向ける。
 そして抱きしめるように、紗奈の背中に手を回す。
「ボタン、俺が外していいの?」
 そう確認されて、「お願いします」と頷く。
「無事でよかった」
 改めて呟く悠吾は、紗奈の存在を確かめるように背中に手を触れさせる。薄いレース越しに、彼の体温を感じて恥ずかしい。
「ご心配おかけしました」
 紗奈の言葉に、悠吾が優しく笑う。
「違う。俺が心配したいだけなんだ」
 そう応えて、一つ一つ丁寧に、触れ合う時間を惜しむように、ゆっくりした動きで悠吾がボタンを外していく。
 紗奈は彼の胸に手を添えて、彼の動きを感じていた。
「紗奈が妻として、俺を気遣ってくれるのと同じように、俺にも紗奈を気遣う権利がある。そういうの悪くいよな」
 声に合わせて触れる彼の息遣いが愛おしい。
 それでいて、油断すると彼の胸に抱きついてしまいたくなるのでもどかしい。
「そういえば明日香さん、私のことを香里と勘違いしていたそうです」
 体を密着させ、彼の体温を感じている時間がもどかしくて、そのまを埋めるために紗奈が言う。
「香里さん……あの。紗奈にそっくりな友人の名前だよな? 駆け落ちを手伝った」
 一瞬記憶を探ってから悠吾が確認する。
 日常の何気ない会話の中で学生時代の話題となり、彼に昔の写真を見せたことがある。
 その際に香里の顔も見ているので、顔を思い出して納得しているようだ。
「ちょうど香里が駆け落ちして姿を見なくなっていた時期と重なるから、他にも勘違いしていた人はいると思います」
「友人の名誉を汚すつもりはなかったんだが……」
 紗奈と香里を気遣う悠吾の言葉に、紗奈は問題ないと小さく首を動かす。
「たぶん香里はそういうこと気にしないから、大丈夫です」
 紗奈ももちろん再開した際には香里に謝るつもりでいる。ただ……。
「まわりが私と香里を勘違いするのは、悠吾さんに相応しいのは、香里のような家柄の人なんなですよね。今まで私たちの結婚を祝福してくれた人たちも、勘違いしているのなら、騙しているようで申し訳ないです」
 自分では彼の妻を名乗るなんてなんておこがましいのだ。
「それでも俺は、紗奈以外が俺の妻役を演じるなんて考えられないよ」
 一瞬うれしくなるような言葉だけど、それは紗奈の演技力を信頼しているという意味にすぎない。
 不意に紗奈の背中に開放感が広がる。ボタンが外し終わったようだ。
 紗奈は悠吾の胸を押して距離を取る。
「ありがとうございます。お風呂使いますね」
 そう言ってリビングを出た。
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